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埋没!埋没!!埋没!!! 〈ショートストーリー〉


母は眉を描くときにきまって、
「ここが人生の勝負時!」とつぶやいていた。


寝ぼけた顔にメイクしながらふと思い出す。




昔ちょっとだけ好きだった3歳年下の彼から
3年ぶりに連絡がきたのは3日前で、
その3日間私は返信できないでいる。
なぜなら私は今人生に埋没しているからだ。




海沿いのファミレスで一緒にバイトしていた彼は、
私の何かに突然腹がたったようで
理由がわからないまま音信不通になった。
そういうこともあるよね、と思って放置してたら
あっという間に3年も経っていた。



なんで埋没しちゃったかなぁ。
返信できないではないか。


埋没しているときは
できるだけ普段と違う行動はしない。
ロクなことがないから。

生活への埋没は人生への埋没である。





埋没したきっかけはいつもわからない。
ただなんとなく元気がなくなる。


何を見ても美しいと思えない。
ぼんやりと行動する。
好きな音楽を聴いても、
好きな映画を見ても何も感じない。


心が硬直したまま動かないのだ。
そしていつも最初の数日は気づかない。


なんだかおかしいな、と思い始めるのがだいだい2日後くらいでそしてその流れで「埋没だ!!」と気づく。




埋没慣れしてはいるので、対処はできる。
とにかくじっとする。
自分の中の波が落ち着くまでじっと待つ。
そして何を忘れていたのかを必死に考える。
埋没は、大切なことを見落としているサイン。
おきまりの展開だ。







なんだかメイクが面倒になり、
ファンデーションを塗っただけの
のっぺりした顔のままソファに自分を埋めた。




仕事、休もうかな。




こんなんじゃ行っても
ミスしたりトラブルに巻き込まれたりするに違いない。



私の体は、そうだ!そうだ!と言わんばかりに重くなり、うっかり目を閉じてしまう。



半分開けたままのリビングの窓から、
魚を焼く匂いがしてきた。




「素敵主婦よ。朝ごはんもちゃんと作っているのか。」とニヤつく。
今まで気づかなかったな。




うちのマンションの下の階に、
「素敵主婦」と呼んでいる人がいる。



会ったことはない。
ただ、毎晩夕食のいい匂いが
風に乗ってうちにやってくるのだ。

カレー、おでん、ガーリックの何かしら。
料理名がはっきりとわからない日がほとんどだけど、
でも、子供の頃の帰り道の匂いがする。



夕焼けと夜の境目にどこかからやってくる、
なんだかホッとして走って家に帰りたくなる、
そんな懐かしい匂いがちゃんとする。



毎日いい匂いのする料理を作る彼女は無敵だ。
会ったこともない私を、
毎日こんなにふにゃふにゃにさせる。





もしかして。
私がビーフシチューを作った時も、
誰かの家にあの香りが届いているのかな。
素敵主婦が私に幸せを届けているように。




私が私のためにしたと思えることも、
実は目に見えないカケラになって
漂ってさらにずんずん進んでいって
全然知らない誰かの心を動かしているのかもしれない。





そうだよな。
私がご機嫌でいるためにする行動は、
実は見えないところで世界に広がっているんだよな。




私が私のご機嫌のためだけに心を尽くしたのは
いつが最後だろう。
3ヶ月前のビーフシチューの日が最後な気がする。




納期に追われ、生活に追われ、賑やかな毎日だけど、
大切にしたい時間は私の手の中からごぼれ落ちていた。



その様子が見えているのに、
急がなきゃとこぼれおちる時間たちを
そのままにしていた。



私を慈しむ時間は、
仕事ややるべきこと達に奪われた気でいたが、
1日の中の無数の選択の中で
私が切り捨ててきた時間だ。



すべての時間を、
仕方がなく奪われていくものではなく、
私自身の手の中にしっかり掴んでいられることを
私は知っている。





目を開けると、部屋の気配が変わっていた。
うるおっていて、光の粒がぎゅっとなっている。



あ。埋没から抜けた。
なるほど。今回忘れていたのはこれか。





よし。
今日は私のご機嫌のために仕事は休もう。
そして、時間を取り戻したままでいられるよう
再構築の日にする。



欲しかった鍋や和食器を買いに行こう。
空気を入れ替えて、掃除して、
捨てないままでいる不用品を全部捨ててしまおう。
すっきりした部屋で、
大好きなビーフシチューを作ろう。
そして彼にも返信しよう。




思いがけず大切なことを忘れてしまう私でもいいのだ。
ちゃんと思い出せればそれでいい。




「よし!」と声を出し、
テーブルに置いたままの鏡の前に正座する。
まずはこの一歩。



「ここが人生の勝負時!」と眉ペンシルを握りしめた。





おわり


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