父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと14
父が家族の骨を持ち続けた話は、ずいぶん昔に聞いた記憶があります。でも、その骨、最終的にはどうしたのでしょうか。「しばらくは、いつもポケットの中に入れていて、手のひらに乗せて転がしたりしてたよ。辛い時は、しゃぶったこともあったなあ」。父母、兄、妹、その誰の骨かわからぬものではありましたが、父にとって一片の骨は、家族の象徴だったのでしょう。「心の支えだったんだ。でも長く持っているうちに、骨を持っていることが重荷になってきてね。家族のお墓をこっちに移す時、他のお骨と一緒に納めたよ」。私が小学校低学年の頃と記憶していますが、伊豆の牧之郷の墓では遠くて不便だから、と、父は家から近い都立霊園の墓地を購入しました。我が家の墓地を買う、ということは、僕も一人前になったよ、と、亡き家族へ報告することでもあったのではないでしょうか。
深川の焼け跡で家族を荼毘に付したその日、父たちは久子さんの姉であるのぶさんの家がある市川に戻り、ひとまずお骨を預けます。翌日、父の同伴者に、亡き父・林平さんの兄の円蔵さんが加わり、深川区役所まで行って父の罹災届を出し、その足で林平さんの職場に向かい、遺品を受け取ります。
「親父は、その頃、永代橋の近くにあった鹿島組の東京営業所に所長として移ったばかりだったんだ」。実は、じゃがいも事件なる揉め事があり、林平さんは急遽配置換えになったのです。形としては栄転ですが、苦い出来事でした。
会社への配給品のじゃがいもを、配達する人が水路の向こうの鹿島組に届けるのに、遠回りになる橋を渡るのを面倒くさがり、所長の家だし、と父の家に預けることがありました。ちょうど町内会の寄り合いがあって、食糧難で皆お腹を空かせているため、少しなら、と久子さんがじゃがいもを蒸して皆に出したのだそうです。出どころも説明しました。けれど、その中に、父の家族をよく思わない人たちがいて、あの家では会社の配給品を横領していると噂を立てたのだそうです。「今から思うと、深川に引越ししたのがよくなかったんだ。うちは立派な社宅に住んで、職方さんは長屋みたいなところに住んでいてね。それが同じ会社の上と下で、しかも同じ町内会なんで、やっかまれてたんだ」。父はそれ以上は言いませんが、(しかも空襲にも遭って)と思っているに違いありません。
深川から永代橋へと向かう道すがら、焼けた瓦礫で埋まってしまっている道が多い中、不思議なくらい片付けられている通りがあったと父は記憶しています。気になって調べてみると、どうやら真っ先に被弾し、もっとも被害の酷かった深川エリアを天皇陛下が視察するため、大慌てで道を整えたようなのです。おびただしい数の焼死体もそのために隠されたのでした。
焼け跡にはたくさんの立て看板が並んでいました。「〇〇は無事です、とか、移転連絡先が書いてあってね。僕は一つ一つ読みながら歩いたんだ。もしかしたらうちの家族のもあるんじゃないかって。結局見つからないまま、永代橋に着いちゃったけどね」
家族の骨を手にしながらも、もしかしたら何かの間違いじゃないか、とそんな気持ちを拭いきれなかったと父は言います。
会社にあった林平さんの持ち物は、そう多くはありませんでした。万年筆や、土木技師らしく測定器のノギスなど。小さな箱に収められた遺品と一緒に、鹿島組が用意してくれた帰りの切符を受け取り、父たちは東京駅へと向かいます。「つい半年前、疎開する僕を親父が見送ってくれたのが、遠い昔みたいだった。深川は焼け野原だけど、東京駅周辺はあの日と変わらなくて、不思議な気分だったよね」。
東京駅の丸の内側の駅舎、有名な辰野金吾設計のレンガの建物は、その後、五月の空襲で、三階部分のドーム型屋根を失っています。その後、丸屋根で再建されて、ようやく近年、昔の姿を取り戻しました。
夕方には修善寺に着き、円蔵さんの家に一泊します。円蔵さんの家は酪農と農業を営んでいました。「久しぶりに銀シャリを食べたなあ」。東京は米が配給制となり、闇米価格も暴騰していた時代でした。また、父の疎開先の宇久須村は米づくりに向かない土地ゆえ、自家用の米がないため、食卓に白米が上がることはなかったのです。斎藤美奈子著『戦下のレシピ』によれば、戦前の日本は、白米ブーム。三度三度白米を食べるという日本人の長年の夢がかなった時代でした。その背景には、統治下にあった朝鮮や台湾からの移入米があり、米が安くなったことが大きな理由だったそうです。一方、当時の日本では、貧しい農村、リッチな都会という、対立構造がありました。生産地である農村は搾取され、都会が贅沢な食を享受していたのは、江戸時代から変わらぬ姿です。けれど、戦況が悪化すると、都会からは食料が消え、農村には余る、という逆転現象が起こります。円蔵さんの家で振る舞われた、お茶碗にたっぷりよそわれた炊きたての白米は、父にとって目を見張るようなご馳走でした。
一泊した翌日、父は、四日前に鹿島組のハイヤーで急いだ国道一三六号を、木炭バスで戻ることになります。国道一三六号は天城山を越えていきます。この日、父の天城越えは、なんとも心細く、悲しいものだったことでしょう。
土肥のバス停で木炭補給となり、しばらくバスが停車します。父はバス停に小学校の担任の伊藤先生が立っていることに気がつきます。一家全滅の電報が届いた朝、父の両肩に手を置いて、「家に帰りなさい」とだけ言った先生です。「あ、タツヒコ先生」と思って、父はハッとします。先生は国民服に赤い出征たすきを掛けていたのです。先生も父に気づき、バスに乗ってきて、「出征することになったよ」と父に話しかけたといいます。
間もなく小学校は春休みに入ります。新学期が始まる前に、家族の葬儀をすることとなり、山下家本家の菩提寺である牧之郷の玉洞院で執り行われることになりました。前日、鹿島のハイヤーで、宇久須村の小母さんと、従姉の世都子さんと三人で、修善寺に向かいます。「通夜の日に、市川の伯父さんと伯母さんがお骨を持ってきてくれて、僕は一人で三島駅まで迎えに行ったんだよ」。喪服姿の二人は、お骨を収めた箱を白い布で包んで首から下げ、列車から降りてきました。
そこから駿豆鉄道で牧之郷に向かい、本家の祭壇にお骨を置いて、通夜が始まります。宇久須村から一緒に来てくれた疎開先の小母さんは、「まアちゃん、通信簿と優等賞の賞状を祭壇にお供えしなさい」と促します。宇久須小学校(現在は合併して賀茂小学校)で父はなかなかの優等生だったようです。小母さんとしても、ちゃんと面倒を見てますよ、という気持ちがあったのでしょう。親戚や知人たちが、「まアちゃん、頑張れよ」と励まし、父もまた、子どもながら、一家の再興を誓ったのでした。
父が記憶するのは、野辺送りの風景です。白い幡を掲げる人が先頭に立ち、ちん、どん、しゃらん、と手鏧(しゅけい。手持ちのついた鐘)、懺法太鼓、鐃鈸(にょうはち。小さなシンバル)と呼ばれる鳴り物を鳴らすお寺のご住職ら三人が続き、父は位牌を持って歩きます。子ども一人を残し、一家四人が亡くなるという不幸を悼み、大勢の参列者が列をなします。「鳴り物を鳴らしてた一人は、親父の幼馴染のひらちゃんだったなあ」。彼は、「りんちゃん、りんちゃん」と虚空に声掛けながらボロボロと涙を流していました。
野辺送りの隊列は寺の石段を上がっていきます。一同は、玉洞院の本堂へと向かい、そこで告別式の法要が始まりました。和尚様の読経が厳かに響き、そこに混じる嗚咽、鼻をすする音。でも父は掌をぐっと握ってこらえていました。
法要が終わり墓地に向かいます。すでにお骨になっている四人です。戦時中でもあり、七七日を待たずに納骨することになりました。山下家の墓域には、すでに新たな穴が掘られていて、そこにお骨を収めて土をかぶせると、家族四人の名前が黒々と書かれた真新しい白木の墓標が立てられたのでした。
弥生の終わりか卯月のはじめか。温暖な伊豆では、若草が萌え、春の花が咲いていたことでしょう。桃や桜も咲いていたのではないでしょうか。けれど、その日の父の記憶は、色のない世界。耳には、ちん、どん、しゃらん、と野辺送りの鳴り物の音だけが響き渡るのです。
父は、軍国少年たるもの、と大人たちに励まされます。鹿島組の人が葬儀に参列し、お香典とともに林平さんへの慰労金を持ってきてくれました。そして、「山下さんの息子さんは、ぜひ普通科の中学、高校に通わせてください。大学を卒業したら鹿島組にぜひ入っていただきたい」と、父の将来を考えて、皆にそう伝えたそうです。林平さんの兄の円蔵さんも、「この子は私がきちんと育てます」と語り、親戚一同が安堵したといいます。
こうして葬儀は終わりました。緊張が解けたのでしょうか、不意にひとりぼっちになってしまった底なしの喪失感に襲われた父は、それまで耐えていた悲しみが、堰を切ったように溢れ出し、涙がとめどなく流れて止まることがありませんでした。「もう一日も生きていけない、そんな気分だったよ」
下曽我に疎開している尾崎さん一家に、東京大空襲で山下一家が亡くなったことを知らせる電報が届いたのは、空襲から一カ月後のことでした。次回は、そのあたりのことを書きたいと思います。どんな悲しいことがあっても、どれだけ枕を涙で濡らしても、眠ると少し楽になります。眠りに勝る良薬はありません。そんなわけで、今回も松枝さんと名セリフでお別れです。
三十六計眠るにしかず──おやすみなさい!
※トップの写真は、東京大空襲前の姿を取り戻した現在の東京駅。早朝、人も車もまだない静かな風景。