父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 25
神奈川県の小田原にある「小田原文学館」には、尾崎一雄さんの書斎が移築されています。他にも、大量の蔵書や関連資料が松枝夫人からの寄贈により保管されています。父の書棚にあった収蔵品目録を見ると、尾崎さんが生涯手元に置いていた手紙の数は膨大で、しかもその幅広さに驚かされます。交流のあった文士たちの手紙はもちろん、父を始めとする一般人の知己からの手紙も多く、その中には、なんと私と妹が連名で書いた手紙までありました。
私たちの手紙は、きっと文化勲章受賞パーティーにお招きいただいた御礼状です。父から言われて二人で書いたのだと思うのです。妹は中学生、私は高校生でした。お互いの消息を伝える手段が限られていた時代、物書きにとって、手紙はとても貴重な資料だったと思うのですが、まさか、私たちのものまで残っているとは。日付不明とあり、どうも私たちは、日付を入れるべき手紙の常識を欠いたお礼状を書いたようで、その至らなさを悔やみます。
さて、前回書いたように、父が尾崎さん宛てに出した手紙がきっかけで、父は尾崎さんと再会を果たします。その時の様子を、父が尾崎さんの一年祭(神道の一周忌)で朗読した「思い出の記 故・尾崎一雄おじさんの一年祭」(一九八四年の神静民報〈地元の新聞〉に掲載)から引用します。
八年の歳月の後、私は就職先を求めて上京しました。そして、雑誌に出ていたおじさんの小説を読んで、私を探していることを知り、おじさん宛に手紙を出し、それがきっかけでおじさんと再会することができたのです。
忘れもしない昭和二十七(一九五二)年七月二十八日夜、場所は上野のうなぎや千万喜の根岸の別宅、おじさんはニコニコしていて、一別以来と少しも変わっていませんでした。でも少し前まで布団に伏していたようで、いくらか疲れているように見えました。
その日、池之端の料亭で、三遊亭金馬師匠と対談したのだそうです。私の勤めている店のことを色々と聞いてくれました。そして、「みんなで待っているから下曽我へ遊びに来なさい」と言われました。
この夜、ヘルシンキのオリンピックで水泳男子四百メートルの自由形決勝が行われ、日本の古橋選手はついに入賞を果せませんでした。ラジオの実況中継をおじさんと二人で聴きながら、多いに残念がりました。
帰り道、おじさんは鴬谷の駅まで送ってくれました。途中古本屋へ寄り、おじさんは本を一冊買いました。なにかとても気に入った本のようでした。駅に着くと、おじさんは私に五百円札を握らせ、これで下曽我にいらっしゃいと念を押すように言いました。
初めての下曽我行きでしたが、事前におじさんから詳しい地図入りの手紙を頂いていたので、迷うことなく行くことができました。この手紙は本当に親切な行き届いたものでした。
「国府津までの東海道線は一番前に乗りなさい。乗り継ぎの電車が◯時◯分で、後ろからだと走って乗らなければいけないので、息が切れるから」といった具合でした。
春に高校を卒業して働き始めたばかりの父に、遠出をする金銭的余裕などありません。そんな父の気持ちを先回りして、お金を渡す尾崎さんの心遣いは、お金に苦労したひとだからこその真心であり、社交辞令ではなく、心からの歓待を伝える形でもありました。
その当時、尾崎さんの家がある下曽我まで、父が勤めていた江戸川区の小岩からは往復で三百六十円。「残りの百四十円で帽子を買ったんだ」と父は笑います。お土産はどうしたのでしょう。
父の勤め先である袋物製造卸の会社のオーナーは文学通で、尾崎一雄の名をよく知っていたそうです。「尾崎さんのところに行ってきます、と報告したら、小さながま口を一つ、これを持って行きなさい、って手渡してくれたんだ」。父はまだ十八歳。手土産にまで気が回らなかったようです。
「下曽我に行くのはいいけど、どうやって行くんだろうって思っていた矢先に手紙が届いてね」。今のように、サクサクと検索できる時代ではありません。事故のないよう、慌てることなく、無事に訪ねてきて欲しい、親心そのものの優しさです。
そんな尾崎さんでしたが、父を自宅に招くにあたり、一抹の不安があったようです。その心の内を作品『山下一家』に記しています。
「八月十七日には是非おいで。喧嘩好きの小母さんも、年をとつたから、大分と大人つぽくなつたよ。一枝も鮎雄も大きくなつたぜ」 そんなことを云ひながらも、私は迷つてゐた。自家へ招ぶのが、果してこの少年を愉しませることになるかどうかと。
どう迎えたらいいものか、歓迎の仕方が難しいぜ、と思い悩む尾崎さんに、夫人の松枝さんは「そんな手加減は出来ませんよ。せいいつぱい歓迎するより外ありませんよ」と、いかにも「芳兵衛」らしいまっすぐさで応えます。が、そんな心配など無用なほど、父はその日を待ちかねたように朝早くに東京を出て、下曽我に向かったのでした。尾崎さん、松枝さん、長女の一枝さん、長男の鮎雄さん、次女の圭子さんに迎えられた父は、懐かしい上野櫻木町の思い出話で盛り上がります。
上野公園、不忍池、寛永寺、赤土山。憂いなき子ども時代を過ごした上野の思い出を共有できるのは、父にとって尾崎さん一家以外にありません。円蔵さんの家で苦労を重ねた父でしたが、そんな時間を忘れて童心に戻り、父は七年の空白を経て、再び帰る場所を見つけたのです。
その後、おじさんは私の家族のことを綴った〝運と云う言葉〟を文芸誌『群像』に発表しました。この作品がきっかけで、私は元気百倍、やる気が起きました。あの作品は、おじさんからの心からの声援だったと思っています。
その後の私は、何か屈託があるたびにおじさんに手紙を出しました。それも再々になりましたが、そのたびにおじさんからていねいな手紙をもらいました。思い出すほどに恥ずかしくなるようなことまでも書いて送りました。自分でも手に負いかねていることを、おじさんは、いつもいつもいつまでも見捨てることなく、よくぞ見守って導いてくれたものです。
初の訪問以来、父はしばしば尾崎家を訪ねるようになります。秋にはみかん狩り、お正月にはカルタ遊びに誘われます。お正月(または年末)に尾崎家を訪問するのはその後の恒例となり、私たちもよく連れて行かれました。
父にとっては、尾崎家の子ども達が幼なじみなのですが、尾崎さんは「まアちゃんはお父さんのお客さんだから」と子ども達に宣言していました。父は、大好きな小父さんからそう言われたことが嬉しくてなりませんでしたが、「今から思えば、大学に行っている子ども達と、社会人になった自分とは、住む世界が違うことを察した小父さんの思いやりだったのかもしれないなあ」と父は言います。前途洋々だった山下家の、教育熱心だった山下家の、東京大空襲で全滅し、ただ一人学童疎開により生き残った父の悲運を、誰よりも切なく思ってくれたのが、尾崎一雄という作家だったのだと感じます。
次回は、尾崎さんが父を物心両面で支えてくれた話を書きたいと思います。では今回も、松枝さんの名セリフでお別れです。
三十六計、眠るに如かず ───おやすみなさい!
※トップの写真は、尾崎さんが自分を探していると父が感じて手紙を出すきっかけとなった昭和二十五年(一九五〇)の『小説新潮』七月号掲載の作品。挿絵は吉岡堅二氏。私の染織史の師である吉岡幸雄先生が敬愛する伯父さんである。