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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと11

父の一家が深川に引越しした頃から戦局が悪化、様々な統制とともに、学童疎開も始まり、慌ただしかった時期、尾崎さんの身辺では、尾崎さんの作家人生における一大事が起きていました。尾崎さんは、そのあたりのことについて、様々な作品で触れているのですが、ここでは『末っ子物語』から引用してみます。

昭和十九年、夏から秋に移ろうとするころ、大きな不幸が多木一家を襲った。ここ一、二年来、とかく不健康がちだった多木が、ついに病に倒れたのである。そのころ太平洋戦争はいよいよ終末のきざしを見せはじめ、国内は騒然たる様相に陥つていた。テニアン、サイパンの両島はすでにアメリカ軍の手に落ち、日本軍は敵を水ぎわにむかえ打つ、と称して、竹やり訓練を国民に強いはじめた。

前回も触れた学童疎開に関して、尾崎さん一家は、見知らぬ土地への集団疎開よりも、郷里の下曽我に一人暮らす母親の元に身を寄せようと決めます。小学生の一枝さんと鮎雄さんだけでは老母の手に余るからと、尾崎さんの妻である松枝さんが、上野桜木町の家(尾崎さんと次女の圭子さんが暮らしている)と下曽我を頻繁に行き来することになるのです。

(前略)そのあくる朝、早く目ざめた多木が、たばこに火をつけ、ひといき深く吸うとともに、きゅうに胸苦しさを覚えた。脳貧血かな、と目をつぶり、心もち頭を下げたとき、重苦しいものが、胸の奥から逆流してきた。とっさに口を押え、ぬれ縁から身をのり出し、その重苦しいものを、地面に吐きだした。濃い血だった。(中略)「お父ちゃん、痛いの? どこ痛いの? さすってあげようか?」言いながら、背中に手をかけるのだった。

多木は、急いで手をのばし、縁外の土に赤くひろがった血に、砂をかけた。こんなものをこの児に見せてはいけない──とっさにそう考えたのだった。

尾崎さんは命に関わる重度の胃潰瘍でした。こんな状態で幼い娘と暮らすことはとても無理で、七年もの長きにわたって(尾崎さんとしては珍しいことでした)暮らした上野桜木町から、故郷の下曽我に移住することを余儀なくされます。戦時という非常事態を凌駕するほどの深刻な状況に、尾崎さん一家は陥ることになるのです。

ところで、戦時中の文壇とはどんな雰囲気だったのでしょう。その一端を、尾崎さんの作品『あの日この日』より引用します。

対米英開戦を控へた十六年秋、多くのジャーナリスト、文士、画家などが報道班員として徴用された。その時分のことは、経験者も多いので、豊富な資料が残されて居り、彼らが軍からどんな扱ひを受けていたかはよく知られている。徴用の「徴」の下に心がついてゐた、と皆は苦々しく言つた。

私は最後まで、陸軍から口がかからなかつた。若し徴用されてゐたら、十七年頃から健康が崩れ出した私は、外地で死んでいたに違ひない。

丹羽文雄は海軍の方へ行き、珊瑚海海戦に遭遇、負傷したが、陸軍へ行くよりどれほどマシだつたか知れない。

丹羽文雄さんは、近年では、娘さんが介護について書いた『父・丹羽文雄 介護の日々』で話題になりましたが、昭和を代表する作家の一人です。第一早稲田高等学院時代に尾崎さんと出会い、志賀直哉を教わり、文学の上で多大な感化を受け、作家の道を歩み始めました。尾崎さんと丹羽さんは、生涯にわたっての無二の親友であり、尾崎さんの葬儀では、葬儀委員長として式を仕切られていました。戦時中は、丹羽さんだけでなく、多くの作家が戦地に赴き、場合によっては徴兵もされました。実は、尾崎さんや丹羽さんは海軍とつながりがあり、こちらは高待遇だったようですが、陸軍に徴用された高見順などは、軍属扱いされて、ひどい経験をしたようです。

尾崎さんは昭和十六年の一月に、海軍省派遣文芸慰問団として大阪商船「さんとす丸」で、約四十日を費やして台湾や中国を視察、慰問しています。メンバーは十人で、女性が中心、円地文子の名前もあります。修学旅行で船酔いして以来、大の船嫌いだった尾崎さんが一大決心しての志願でしたが、「台湾の基隆、台北。大陸の厦門、汕頭に上陸、バイヤス湾沖を経て、広東湾に入り、珠江を遡つて黄埔。さらに広東並びにその周辺をみてから海南島に渡り、北部の海口、瓊山から南部の三亜、崖県その他を廻り、奥地保亭の最前線も見る。三亜に戻つて待機するうち、仏印行の駄目になる事態が起つて、帰国することになつた」という外地巡りで切実に感じたことは、「日本も大変なことに首をつつ込んでしまったものだ」であり、「うまく潮時をつかんで、なるべくはなくことを納めなければ駄目だ」とも思いながら、言葉に表すことができるはずもない時代でした。この経験以来、尾崎さんの胸中には、戦争への大きな危機感が鉛のように重く沈んだようです。

一方、父は集団疎開に遅れること約五カ月、十月初旬に、母の久子さんの親友の家に、縁故疎開することになります。親友の息子さんを書生さんとして二年預かった縁でした。新学期が始まると、クラスには残留組の子どもたちがいたこともあり、「いやだったら行かなくてもいいんだよ」と母の久子さんは父に言ったそうです。母親としては心配でならなかったのでしょう。「でもお調子乗りの僕は、行くよ行くよ、って遠足気分だった」。行き先は、西伊豆の宇久須村。久子さんと妹の雅子さんが同行し、二、三日滞在して東京に戻っていきました。

父が宇久須村に疎開してまず驚いたのが、老いも若きも男女の仲が良いことでした。短い間ではありますが、男子校に通っていたため、よけいそう思えたのかもしれませんが、それにしても独特の空気があったようです。

父のところに女の子が四人やってきて、唐突に「タカとクノイチ、どっちがいい?」と尋ねたそうです。父は「なんだかよくわからなかったので、クノイチの方がカッコいいかなあと、じゃあ、クノイチって答えたら、それが僕の呼び名になったんだよね」。クノイチとはくノ一、つまり女。何かの符丁か流行りだったのでしょうか。別の日には、女の子たちが歓迎会をしてくれて、次々と踊りを見せてくれたのだそうです。このあたりのことを、父はあまり詳しく語りません。「島嶼や半島の歴史がわからないと理解できないんだよ」と言います。それは、民俗学者の折口信夫によるところのマレビト文化だと想像します。女の子たちが父を歓迎した会は、思うに、村の女たちがよそからの珍客をもてなす、その予行練習みたいなものだったのでしょう。

年が明けた頃、父親の林平さんが宇久須村を訪ねてきました。仕事がてら、父の様子を見にきたのです。伊豆は江戸時代には天領でしたが、それは金が採れたからでした。金の鉱脈があるところには、他の鉱物の鉱脈もあります。当時の宇久須村では明礬石が採掘されていました。

すでに日本は敗退を重ねて占領地をどんどん失っていました。そのため輸入原料に頼れなくなり、政府は原材料を国内調達するようになります。明礬石はアルミの原料で、昭和二十年(一九四五)、つまり終戦の年の初めに、軍需省航空兵器総局伊豆明礬石開発本部が置かれます。住友や古河などの財閥がそこに関わり、鹿島組も鉱山整備を受け持ちます。林平さんは、現場の進捗状況を視察しにやってきたのでしょう。家族的な会社だった故、息子の様子も見てきたら、と、誰かが気を利かせてくれたようにも思えます。

久子さんも林平さんも、きちんとした親でしたから、疎開先にはそれなりに包んで渡していたことと思います。だから父も、新しい環境に目を丸くしながらも、肩身の狭い思いをせずに日々を過ごしていました。母と妹が見送ってくれて、数カ月後には父親が様子を見にくる。疎開児童としては、恵まれた環境でした。でもそんな状況が長く続くことはありませんでした。

まだ春浅い三月九日、父は学校の帰り道、田んぼに立つ枯れ木にカラスが鈴なりになって止まり、カアカアとしきりに鳴いているのを見つけ、「うるさいぞ、カラス」と石を投げました。「だけど、逃げないんだ。嫌な予感がしたよ」。その日の夜中、東京下町一帯は空襲により火の海となったのです。

これからしばらく、息の詰まるような時期を書いていくことになります。深く深呼吸しつつ、書き記したく思います。それでは今日はここまで。今回も、松枝さんの名セリフでお別れです。

三十六計眠るにしかず──おやすみなさい!

※トップの写真は、宇久須海岸の夕景。晴れた日には富士山が見える。


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atsuko
尾崎文学の魅力の再発見と、戦争のない世の中のために。読んででいただけると嬉しいですし、感想をいただけるとなお嬉しいです。