父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと17
私の父の両親は伊豆出身で、私の母の両親も伊豆出身です。なので、東京の東の端っこ育ちの私ではありますが、伊豆ののんびりと明るい空気にホッと気持ちが和むし、みかんやアジの干物は、ソウルフードに近い感覚です。父は十一歳から十八歳の七年間を伊豆で過ごしましたが、東京で生まれ育ち、そして東京に戻ってからは外に出ることなく今に至っている、つまり八十五年の人生の内、七十七年は東京で過ごしています。でも、父の感覚の中には、伊豆で暮らした八年間が濃厚に染み込んでいるように感じます。両親が伊豆出身ということももちろん大きいと思いますが、それ以上に、東京大空襲で家族を亡くした後、そのまま伊豆で暮らすことになった父が、これから思春期に入ろうとする、少年から青年への移行期にあり、多感な年齢を過ごした伊豆は、父の人格形成に少なからぬ影響を与えたからなのでしょう。
未成年の父の後見人になった父方の伯父である円蔵さん(父の父・林平さんの兄で、山下家本家の長男という立場)が、父の疎開先である西伊豆の宇久須村に迎えにきたのは、田植えがひと段落ついた五月の終わり頃でした。円蔵さんは中伊豆の牧之郷にある本家を長男に譲って、自分たち夫婦は修善寺に移り、牧場を主力に田んぼや畑の仕事などを幅広く手がけていました。
「とにかくスーパーマンみたいな伯父さんなんだよ。親父も大きかったけれど、伯父さんに比べれば小粒だよ。横幅があったしね」
尾崎さんが大柄と評した林平さんより体格のいい円蔵さんは、農作業の手際がよく、耕すのも、草を刈るのも、収穫も、目をみはるようなスピードで、また完璧な仕事ぶりでした。また、竹や藁を使って、どんどん道具を作ってしまいます。農家ならば当たり前のことだったでしょうが、それを差し引いても群を抜いた器用さでした。一方、地域の警防団の団長や村会議員を務めるなど地元の顔役で、伊豆新聞の俳句の選者をしたり、家を碁会所として開放するなど、文化的な一面もありました。
「僕の家族の葬式の時も、弔辞が上手くてね。林や、林や、って死んだ弟に呼びかけるんだ。みんな号泣してたよ」
出征した村の人たちが戦死し、英霊として戻ってくると、円蔵さんが葬儀を取り仕切り、それはもう見事な弔辞を読んだそうです。
円蔵さんが宇久須村にいた父を迎えに来た時、預かり先の小母さんは、何を思ったか、円蔵さんに向かい、しかも父を目の前にして「この子には影がある。ほっておくととんでもない子になる」と言ったのだそうです。おそらく、女の子の目に怪我をさせてしまったことなど父の一連の行動に対して、そんな印象を抱いていたのでしょう。また、連れ戻されてはたまらないからと、「こんな子はもう預かりたくない」とのアピールだったのかもしれません。一方、円蔵さんはその言葉を真に受けてしまいます。甥っ子とはいえ、頻繁に会う関係ではなかったようで、父の人柄を把握していたわけではありません。ならば、と父の根性を叩き直そうと意を決してしまいました。
父とっての最初の難題は、円蔵さん夫妻から「これからは自分たちをお父さん、お母さん、と呼びなさい」と言われたことでした。家族を亡くし両親への追慕がやまない時期、それはどうにも辛いことでした。父母ではない人を父母と思うことはできず、ましてや呼ぶことなどできません。そうなると遠くから呼びかけられなくて、「あのぉ」と近くに寄って話すことになります。その態度がまたいじけて見えたようで、何かにつけて怒られ、体罰を食らうことになったのです。「円蔵さんは、田舎相撲の力士もしていてね、しこ名が力石。怒るとそれはもう怖いんだ」。その力たるや、家畜の世話を見ているだけで、父は怖気づいてしまってました。「牛は爪を切らなければいけないんだけど、円蔵さんは大きな牛を押さえつけ、抱え込んで爪を切るんだよ。そんな怪力に叩かれたりするわけだから、顔に手の跡が残ったこともあったよ」
円蔵さんにとっても辛い時期ではありました。長男に家督を譲ったものの、長男を含めた三人の息子は皆召集されて戦地に行ったまま。残っているのは嫁や孫ばかりで、農作業をする人手が足りず、父を迎えに来るのが遅くなったのも、自分の田んぼだけではなく、息子たちの田んぼの田植え作業があったのです。
夏に向けて農家は大忙し。家畜の世話はもとより、田んぼが終われば畑があり、お茶摘みもあります。成長するのは作物だけでなく、雑草も放っておけば野放図に育ちます。村を挙げての共同作業もあります。まさに猫の手も借りたいような状況の中、円蔵さんは父を引き取ったのです。「町っ子でなんにもできなくても、人手には変わりないから、否応なく手伝いをすることになったんだ」
東京大空襲の体験を綴った『ガラスのうさぎ』という児童文学があります。筆者の高木敏子さんは、母、妹、父を空襲で失うのですが、作中で、仙台の親戚のもとで過ごした辛い体験にも触れています。慣れない田舎暮らし、しかも、山羊の世話をしたり、天秤棒で水桶を何度も運んだり、という作業は、都会育ちの子どもにとって過酷です。父もまた、言われたことをこなすことができず、擦り傷、切り傷はあたり前、転んだりぶつけたり、と怪我だらけでした。農村の子ならできて当たり前、のことができないとなると、それがまた怒りを招いてしまいます。
『ガラスのうさぎ』の高木さんは、あまりの辛さに東京に逃げ帰り、お兄さんと暮らすようになりますが、家族全員を失った父は他に帰る場所がありません。この家で暮らすしかないのです。救いだったのは、父に持ち前の好奇心があったことです。大人たちの農作業に興味を持ち、納屋に転がっていた錆びついた鍬や鎌を見つけて、「これを使っていいですか」と円蔵さんに尋ねると、「それは君のものにしなさい」と言われ、一生懸命研いで、自分の作業用にして、使うようになります。「家でもよく母親の手伝いをしてたから、働くのは苦じゃなかったんだ(母の久子さんは軽いリウマチだったので、父はよく手助けをしたのだそうです)。それに、とにかく土地に馴染みたかったんだよ」
ともあれ父は、四つ目の小学校、北狩野村立南国民学校に転校します。六年生での転入です。そして間もなく終戦を迎えます。
八月十五日。朝から快晴で暑い日でした。小学校では「天皇陛下から大切なお話がある」と、生徒たちを早々に家に帰します。ラジオでも正午から重大発表がある、と繰り返しアナウンスがあります。父は、円蔵さんたちとラジオの前に座って、放送を待ちました。そして、迎えた正午。父はどんな気持ちで聞いたのでしょうか。
「ラジオの調子が悪かったのか、周波数が合ってなかったのか、ピーピーうるさくて、子どもの僕には何を言っているのかさっぱりわからなかったんだ」。世に言う玉音放送。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、という世紀の放送も、子どもにとっては、意味不明な雑音でした。父が、なんの話? と円蔵さんに聞くと、少し渋い顔をしながら「国民は気を引き締めて頑張れ、と言うことだ」と曖昧なことしか教えてくれません。「だから、戦争が終わったとは思わなかったんだ」
でも、その夜から灯火管制が解除され、夜も灯りがつくようになりました。街頭に照らされる道は明るく、照明にかけられていた黒い布が外され、家々から灯火がこぼれます。どうしたのかな、と思いながら、父はその明るさが嬉しくて、「ぼんやりと、ああ戦争が終わったんだなあって感じたんだよ」と回想するのでした。
それでは今回も、尾崎松枝さんの名セリフでお別れです。
三十六計眠るにしかず──おやすみなさい!
※トップの写真は、修善寺あたりの田園風景。父が暮らした頃とはずいぶん変わったと思うものの、田畑が多い地域だ。