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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと12

人の運命というものは、あみだくじみたいなものでしょうか。この世に生まれるところから始まり、折々の岐路で選択しているような気でいますが、あらかじめ決まった道を我知らず進んでいるのかもしれません。東京大空襲の日、学童疎開していた父一人が生き延びたことを思う時、そんな思いにとらわれます。父が生き延びなかったら、母との結婚はもちろんなく、私も存在していませんでした。家族皆が助かったとしても、やはり、同じことが言えそうです(それはまた後の回で)。この世に、もしもの世界は、あるのか、ないのか。

東京大空襲の前日、尾崎さんの妻、松枝さんは東京に出てきていました。深川に引越しした父の実家に寄るつもりでいたのですが、下曽我の家族が心配で、寄らずに帰ることにしました。もし、寄っていたらと思うとゾッとします。どのような経緯だったかを『続あの日この日』から引用します。

松枝は予定どおり、三月八日に上京した。その日いつぱいかかつて、山原宅の荷からげをした。鶴の茶の弟子二人、女中、松枝の四人がかりで、荷をつくつたが、軽井沢の湯浅別荘へ送る方は少ない。大部分は、東京郊外に住むYといふ弟子の家へ疎開させる荷物だつた。

九日は、「余り早く行つても相手は出社してゐないよ」といふ私の注意を守り適当な時刻に都内の某社に行つて用を果たし、山原宅で用意した昼食代りの何かを食べ、さてどうしようかと考へ始めたのである。上野桜木町から深川の木場へ越した山下林平一家を訪ねようかどうしようかと迷ひ始めたのだ。

さんざ迷つた揚句、深川行きをやめて帰つてきた。(中略)

木場のあの家へ行けば、久しぶりのことで話が弾むだらう、聞きたいこと、話したいことがいつばいあつて、時の経つのを忘れるだらう。引留められて一泊することになるかも知れない。それはしかしいけない。老母、病夫、三人の子供を置いて、危ない東京に二泊するてはない。泊まらぬまでも、帰りが遅くなるのは判つている。自分にとつて小さな息抜きとはならうが、それが結果として負担になるのではつまらない。

山原とは、松枝さんの異母姉の山原鶴のことで、田村俊子や湯浅芳子という個性豊かな文学者を支えた友人として知られ、日本女子大の寮監を勤めた後、茶道教授として弟子をとっていました。彼女の茶室だった松寿庵は、北鎌倉の東慶寺に移築されて現存しています。この姉の疎開の手伝いと、尾崎さんになり代わって出版社に原稿を届け、原稿料を受け取るのが、上京の目的でした。重篤な胃潰瘍で病の床にある尾崎さんでしたが、なんとか原稿を書くことで生計を立てなければならず、出版社の編集者とは、原稿と引き換えに稿料を受け取る約束になっていました。

以前にも書きましたが、尾崎家と父の家族は、子ども達の服のやり取りをしていました。特に女児物が頻繁で、尾崎さんの長女である一枝さんのものが、父の妹である雅子さんのところへ行き、これが小さくなったら、尾崎さんの次女の圭子さんに戻る、という具合です。これが、深川と下曽我とに離れてしまったのちも続いていて、松枝さんは、小学校入学間近の雅子さんのために渡したい衣料があって、それも深川を訪問したいと思った理由のひとつでした。

松枝があのとき山下一家と運命を共にしてゐたら、私共一家は確実に破滅してゐただらう。松枝抜きで私の療養生活が成り立つ筈はないのだ。

アメリカ空軍のB29約百五十機が、三月九日から十日にかけて、東京を夜間爆撃します。本所、深川、下谷、浅草、城東など、下町の各地に焼夷弾約二十万個を落として焼き尽くし、約十万人の犠牲者を出します。父の家族は、社宅に備え付けられていた防空壕に避難しましたが、その上に家が焼けくずれて全員が窒息死してしまいました。茶箪笥やちゃぶ台も置かれた広い防空壕で、これがあれば大丈夫と思っていたのに、九日夕暮れから吹き荒れ始めた北風が爆撃をさらに悲劇的にしたのです。父は、両親と兄、妹を失い、天涯孤独となりました。

後日談があります。戦後、高校を卒業して東京で働くようになった父は、何か思い悩むことでもあったのか、実家があった深川の木場を訪ねたそうです。戦後、鹿島組は鹿島建設と社名変更し、焼けた深川の社屋も再建して営業していましたが、向かい側の、社宅があった場所は資材置き場になっていました。そこをただぼうっと眺めていたら、「山下さんの息子さんだね」と声を掛ける人がありました。その人は、鹿島組の職方さんで、上野桜木町時代から、父の父である林平さんと一緒にバスで深川の鹿島組まで通勤していたといいます。きっと、父に林平さんの面影を見たのでしょう。「その人は、空襲の日に父と一緒だったんだ。鹿島組の建物の消火にあたっていて、なんとか火がおさまったと思って向かいにある自宅を振り返ったら、燃えてたんだそうだ」。かなりの火勢で、「行かないほうがいい、もう無理だ」と皆が止めるのを振り切って、林平さんは燃え盛る家に向かって駆けていったそうです。それが最期の姿となりました。

父はその後何十年も、自分を残して火の中に飛び込んだ林平さんの最期がわだかまり、何度も何度もその話を思い出しては咀嚼してきました。だから、当初の気持ちをはっきりと記憶しているわけではないのですが、「でも、恨む気持ちはなかったな」と、それだけは間違いない感情でした。「僕なら一人残っても大丈夫と思ったんだろうなあ」、「親父と二人残されても、それはそれで困ったよね」など、時折父の思いを聞くことがありましたが、そこには父の強がりも感じられました。

父が母の介護をしていた時期、私は高田郁の『みをつくし料理帖』シリーズを父と回読していました。孤児である主人公の澪が頑張る物語を父は気に入って読んでいました。介護の合間の息抜きにもなったようです。第七弾で、吉原の大火から澪の親友であるあさひ太夫を、自らの命を投げ打って助ける又次という吉原遊廓の料理番の話が描かれているのですが、それを読んだ父は、「火の中に走っていった親父の気持ちがすうっと理解できたよ」と言っていたことを、私は忘れられません。今から、5、6年前のことでしょうか。太夫を影で支えてきた男の、命がけの愛に、林平さんが重なったのでしょう。「親父はお袋に惚れ抜いてたからね」と最近はそんなふうに言って、父は笑います。

家が焼けくずれた下に防空壕があったため、父の家族の発見には少し時間がかかりました。父への連絡も、東京大空襲から何日か後でした。父は、胸騒ぎはしたものの、家族の消息を知らずにいました。

が、数日後、小学校の教室に入ると、クラス中の同級生が、青ざめた顔で父を見つめました。郵便局の子がいて、父より先に電報を見て、皆に伝えてしまったのです。

ヤマシタイツカ ゼンメツス

状況がわからず、呆然としている父を担任の伊藤先生が職員室に連れていきます。学校にも知らせが入ったのです。子どもたちがタツヒコ先生と呼んで慕っていた伊藤先生は父を椅子に座らせ、しばらく無言の後、両手を父の肩に静かに置き、「家に帰りなさい」と、ただそれだけ。父は事態を理解したといいます。

疎開していた家に戻る途中、父は従姉の世都子さん、お京ちゃんと出会います。父を迎えに行ったのです。「まアちゃん、大変なことに」と涙ぐみ、そのあとの言葉が続きません。誰もが父に向けて〝死〟という言葉を使わぬよう、慎重に言葉を選んでいました。

次回はその辺りのことについて書こうと思います。それでは今日はここまで。今回も、松枝さんの名セリフでお別れです。

三十六計眠るにしかず──おやすみなさい!

※トップの写真は、『続あの日この日』(講談社)に掲載された写真で、父の母である久子さんと妹の雅子さん。この写真は、尾崎さんからもらったものを、掲載用に一度戻したものだが、父はこの写真の裏に「吾が失へるもの、二つ」と記していた。


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atsuko
尾崎文学の魅力の再発見と、戦争のない世の中のために。読んででいただけると嬉しいですし、感想をいただけるとなお嬉しいです。