父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと19
新しく始まったNHK連続テレビ小説「なつぞら」は、父の琴線に触れるようで、珍しく見続けているといいます。主人公のなつが戦災孤児で牧場に引き取られたという境遇が、父とよく似ているのです。「牛のお乳の絞り方、とてもうまいよ。あれは難しいんだ。牛との相性もあるしね」と感心しています。「僕は手が小さかったし、両手で絞れなかったなあ」。今では懐かしい思い出ですが、当時は生活環境の激変に、戸惑いの連続でした。
父が驚いたことのひとつはトイレでした。「外にもあってね、そこに入れないんだよ」。入れない、とはどういう意味がわからず、なぜ? と聞けば、正確には「入りたくない」という意味合いでした。というのも、天井に手の平くらいの蜘蛛が何匹も張り付いていたからです。トイレに蜘蛛、といえば、尾崎さんの『虫のいろいろ』に登場する、窓に閉じ込められた哀れな蜘蛛を想像してしまいますが、同類とは思えないくらい大きな蜘蛛だったと父はいいます。伊豆の農村部には、都会のとは桁違いにワイルドで毒々しい虫が、我が物顔で生息していました。野良仕事の手伝いをすれば、子どもの柔肌は真っ先に虻やブヨに狙われて刺されるし、家の畳はノミなどの天国。時折ムカデも出るのです。「ムカデを見つけた時は、息を止めて通り過ぎるのをじっと見てたよ」
私たちはのんきに自然のある田舎暮らしに憧れますが、そんなファンタジーを打ち砕く、タフさが求められる環境。しかも酪農農家ならば、牛の糞尿にたかる蝿もわんさかいます。「ご飯をよそった茶碗が真っ黒なんだ。よく見ると、ハエがびっしりたかっている」。怯えて手をつけないでいると、「死にゃしねえ」と怒鳴られるのでした。
思い返せば父は、腸チフスを病んで食事も十分に取れなかったがため、親が食糧事情のいい伊豆に縁故疎開させたのでしたが、環境の変化や精神的ショックが重なり、父の体調の回復は、はかばかしいものではありませんでした。「親だから心配してくれてたんだよなあ。宇久須村でも、修善寺でも、誰も気にかけてくれなかったよ」。腸チフスが後を引き、排泄に時間がかかると、「子どものくせに長い」と怒鳴られる始末、しかも円蔵さんは父へのスパルタ教育を決め込んでいました。私はどうして父が逃げ出さなかったのか不思議でならないのですが、父を取り巻く環境が、ドメスティックバイオレンスに近い暴力性を帯び、父のメンタルは、反発力を削がれていたのではないかと感じるのです。「そうだな、六十を過ぎても、修善寺や牧之郷に行くと、怯えが蘇ったよ」
虫に悩まされた夏が過ぎ、収穫で忙しい農村の秋も終わり、父は中学受験をすることになります。葬儀に参列した鹿島組の人の「山下さんの息子さんは、ぜひ普通科の中学、高校に通わせてください。大学を卒業したら鹿島組にぜひ入っていただきたい」の言葉がまだ生きていたのです。葬儀の後、修善寺にも父の様子を見にきてくれたそうです。「入試は一月か、二月だったか」と父は記憶を手繰り寄せます。「面談、筆記試験、それから綱を昇るのと、走るテストがあったよ。走りはトップだったんだ」
昭和二十一年(一九四六)は戦後の学制改革前夜、つまり旧制最後の年でした。父が受験したのは、地元の名門、静岡県立韮山中学校(現在の、静岡県立韮山高校)。綱昇りや持久走の試験は旧制ゆえかもしれません。「校庭からから山上を四往復するんだ」。韮山中学校は、北条早雲が居城とした韮山城の跡である龍城山の一角にあります。五十メートルほどあるその山の中腹あたりを走るのです。約千人の受験生は四班に分けられました。「最初は、先頭集団にはいたけれどトップではなかったんだ。でも三往復目からぐんと体が楽になって、ランナーズハイみたいな感じかなあ。前の四人を抜いて、もう誰もあとを追ってこなくて一等だったんだよ」
この話は子どもの頃からよく聞かされていました。「カモシカ少年って呼ばれたんだ」という自慢は、運動会や陸上競技会の季節のひとつ話でした。今更ではありますが、ふと疑問が生まれました。「お父さん、もともと速かったの?」 残念ながら、東京の小学校時代は特に俊足だった記憶はないようです。それに、当時の父は腸チフスで体力が落ちてたのです。なぜ一等だったのでしょう。が、父には心当たりがありました。「疎開してから、追いかけられてばかりいたんだよ」
宇久須村でも、修善寺でも、父は、知り合いの家などにお使いに出されることがよくありました。「小学校の学区が入り組んでいて、途中、隣の小学校の学区を通らないといけないんだ」。見張り番がいるらしく、父の姿を見つけると、よそ者が縄張りに侵入してきたとばかりに、何人かが猛烈な勢いで追いかけてきます。「怖くてね、とにかく一目散で逃げるんだ」。体調がそうよくなくても、命がけです。「もし捕まったらどうなるの」と尋ねたら、「捕まったことがないからわからないなあ」。ただ追いかけるだけの遊びだったのかもしれません。「あ、一度捕まりそうになって、道沿いに生えていたトウモロコシからまだ青いのをもぎ取って投げたことがある」。相手の子どもたちはまさか反撃されるとは思ってなかったようで、「当たらなかったけれど、怯んでたな」。学区を抜けると、もう追いかけてはきませんでした。猿や猫の縄張りのごとしです。「それで足腰が鍛えられたのかもしれないね」と父は笑います。
持久走で一位になった父は、無事、韮山中学校に合格しました。足の速さを見込まれて、陸上部の勧誘もあったそうです。「でも、部活動は円蔵さんに禁止されたんだ。そんな時間があるなら、家の手伝いをしろってね」。制服も、円蔵さんの息子、つまり父の従兄のお下がり。終戦直後のもののない時代であれば仕方ありません。カーキ色の学生服です。ボタンだけは韮山中学校の金ボタンに付け替えました。針と糸を借りて、自分で縫ったそうです。「疎開する時、母親から『これからは自分でボタンつけするのよ』と針穴に糸を入れることは教えてもらってたんだけど、糸は織物用のしかないし、糸留めがよくわからなくて、糸を切ってから結んだら緩いんだよね、それで、いつも同じところのボタンが取れてしまうんだ」。すると円蔵さんが目ざとく見つけ、「ボタンが取れているのは学校名を隠すためか、そんな奴は不良だ」と父に手を上げるのでした。「誰もつけてくれないしね。自分でつけてまた取れる。怒られる。その繰り返しだったな」
ともあれ父の中学校生活が始まりました。父にとって学校は逃げ場でした。「家に帰れば野良仕事や牛の世話、風呂焚きなんかで忙しいし、何かと怒られるし」。それでも、新しい環境で気持ちは浮き立っていた父は、小さな挑戦もしていました。学校の掲示板に張り出されていた三島市が募集していた防火標語の公募を見て、「一生懸命考えて、いくつか出したんだよ」。そのうちの二つが、一等一席と三席になりました。一席は「やれ防げ 火事は平和の犯罪者」、三席は「火事をおこさず、国家をおこせ」。東京大空襲により家族を失った父が考えた防火標語だと思うと、胸が詰まりますが、当の本人はそこまで深く考えていなかったようです。
「小林一茶の、やれ打つな 蝿が手をする 足をする、と、当時新聞などで書き立てられていた、戦争犯罪人、を掛けたような標語だね」。戦争犯罪人とは、いわゆる戦犯のことです。朝礼で表彰されたそうです。賞金は三十円と十円。父にとっては貴重な自由になるお金で、「身の回りのものを買ったんじゃないかな」
俳句でも嬉しいことがありました。授業で詠んだ「節分の 豆に寄る鳩 豆に散り」という句が美術の名物教師にいたく気に入られ(国語の先生がきっと教えたのでしょう。トンビというあだ名の面白い先生で、日本画と俳句が得意な先生でした)、三嶋大社への奉納俳句に選ばれたそうです。「境内に貼り出されたその俳句を、東京から訪ねてきた俳人が目にして褒めてくれたらしいよ」。伊豆新聞で俳句の選者をしていた円蔵さんも「マサの俳句は蕪村みたいだなあ」と、俳句だけは評価してくれたのでした。
「でも、そのくらいかな、勉強する時間は限られていたし。朝五時起きでひと仕事してから学校で、下校してからは、夜九時くらいまで働かされる。野良仕事や牛の世話、風呂焚きしながら宿題をやったりしたけれど、そうはかどらないよ。授業中は疲れて寝てしまうしね」。父の中学時代は、日に日に暗いものとなっていきました。
戦後の少し書きにくい時期を、しばらく試行錯誤しながら進めます。早く父を尾崎さんと再開させてあげたいと思いつつ。。。いつもながら、松枝さんの名セリフでお別れします。
三十六計眠るにしかず──おやすみなさい!
※トップの写真は、韮山高校創立百年の記念報に掲載されている昭和四十八年頃の学校全景。学校の隣にある森は韮山城主郭跡で、入試の持久走では、校庭からここまで上がったという。