『先日の大雨による影響のためか、各地でヌメラが目撃されています。お出かけの際は滑らないよう足元に……』


身支度を整えながら、階上から聞こえてくる朝のニュースに耳を澄ませる。

どうやらこの前の雨のせいでヌメラが活発になっているらしい。うるおいボディやちょすい持ちが喜びそうな長雨だったからだろう。

「うっかりヌメラの粘液を踏まないようにしないと…」

鏡で自身の格好におかしな所はないか確認した後、階段をトントンと上がり家の主へ声をかける。

「おはようドレディア。今日は久しぶりの晴れらしいから日に当たってみてね」
『どれれっ』

最近は天気が曇りだったり雨だったりで、あまり太陽が顔を出していなかった。

そのせいか少し萎れていたんだけど……。

『ど〜れ〜♪ど〜れれ〜♪』

どうやら晴れと聞いてしかったらしい。うきうきとしながらキッチンの方へ向かっていった。
その姿を微笑ましく眺めながら、後ろの気配に声をかける。

「で、おはようございます。博士」
「おや。親愛なる青年はどうやらこの私の事を忘れていなかったらしいな?」

壁にもたれながら妙に気取った仕草でやれやれと肩をすくめる、コーヒー片手にくたびれた白衣を着た女性。この人こそがこの家の主であり、そしてポケモン博士なのである。

「博士はコダックみたいに年中コンディションが変化しないんだから、気にしてもしょうがないでしょう?」
「遠回しにノーてんきってディスってないかい、それ?.....まあいいや。それで、今日
はどうするんだい」

そう質問してきた割には意識をこちらに向けておらず、コーヒーをすすりながらぼーっと天井付近を漂うポポッコを見つめている博士。つくづく他人に興味が薄いらしい。

「そうですね.....。今日は買い出しもないので花畑の方にいってみようかと」
「ふーん、花畑か。ま、スピアーあたりに気をつけることだね〜。.....あ、ミツハニーの所でお土産よろしく頼むよ」
「はいはい。ほんと甘いもの好きなんですから......」

ひらひらと手を振りながら自室に戻っていく博士を見送り、玄関へと足を進める。

「クレッフィ、鍵もらえる?」
『カチャチャ』
「ありがと。行ってきます」

◇◆◇

小高い丘を登り終えて花畑に着くと、心地よい風が花の香りを届けてくれた。
ここは様々なポケモンが気ままにくつろぐ場所。
トレーナーが旅に出る前にポケモンと触れ合い、慣れる場所でもある。

今も 1 人の少年が恐る恐るフラベベに近づき、律儀にお辞儀をしてから触れようとしていた。

そんな微笑ましい光景を横目に、大きめのバッグから取り出したものを組み立てていく。

「さて。うん、これでいいかな」

三脚の上に立てかけられた、まっさらなキャンバス。
傍らには画材を置き、いつものスタイルで筆を構えた。
日当たりもよく、絶好の絵画日和である。

思い返せば、僕が絵を描き始めたきっかけは、小さい頃に森で迷子になったことが始まりだった。

『(あの日は確か、珍しい柄のビビヨンを追いかけていたんだよな)』

いかにビビヨンと言えど、子どもの体力でずっと追いかけることは難しくて。気づけば少し深めの森の中で、帰り方もわからなくなっていた。

そんな時、木の影から出てきたのがドーブルだった。
泣きべそをかく幼い僕にオレンのみを分けてくれ、更には自慢のしっぽでおどけた絵を地面に描いてくれたのだ。

『(それがなんだからしくて、ほっとして。しばらく地面にドーブルとお絵描きしてたっけ)」

その後は上手く覚えていないけど、家に帰れたことからどうにかして帰路についたのだろう。

それが僕が絵を描く理由。
ドーブルみたいに、僕の絵で、誰かを笑顔にしたい。

できたらいいなと思って、コンテストに何度か出しているけと.....残念ながら賞を取れたことはない。

「ふう……」 

昔を思い返しながら絵を描いていたからか、気が逸れて少しばかり曖昧な描き方になっていたらしい。

いつの間にか、花畑の向こうではフラベベと少年が楽しそうに遊んでいた。どうやら友達になれたようだ。

一旦パレットを置いてバッグからお茶を取り出す。
ここは本当に風が心地いい。まるでようせいのかぜが花畑を包んでいるようだ。

空を見上げれば、2 匹のヤヤコマが空で戯れていた。
取り留めもなくその光景を見上げて、頭をからっぽにする。

しばらくぼーっとした後。気を取り直してキャンバスに向かおうとした時、視界の端で花畑では珍しいポケモンの姿を捉えた。

「あれは....ニャスパー?この辺りだと見かけないけど」

くせっ毛な灰色の毛並み。ぱっちりとした目。

ニャスパーはサイコパワーを抑えるために無表情らしいけど、僕の視界に映るニャスパーは顔色が悪そうだった。

バッグの中からポーチを取りだし、警戒させないようゆっくりと近づいていく。
2m ほどまで近づいた時、俯いていたニャスパーが不意に顔を上げた。

『ふーっ、ふーっ.....』

どうやら警戒心が強いらしく、どうぐでの回復は難しそうに思える。

最悪サイコパワーで弾き飛ばされることも考えながら、不安を煽らないよう、バッグからラムのみとオレンのみを取りだした。

「ほら、状態異常を治すのと回復のきのみだ。食べな」
『っ、.....ふーっ』

一瞬きのみに視線が釘付けになったが、思い出したかのようにこちらを威嚇してきた。どうやら食欲自体は残っているらしい。

低姿勢のままゆっくりと後退し、ニャスパーときのみから離れる。

ニャスパーは何度かきのみの僕を交互に見ていたが、やがてゆっくりときのみに近づいて食み始めた。

『(しかし……改めて見るとこのニャスパー、傷だらけだな)』

元々くせっ毛の体毛は所々ぐしゃぐしゃで、右手には痛々しいやけどのような痕があった。
最近あった長雨と、普段見かけない場所にいるニャスパー、そして爛れたようなやけどの痕から察するに……。

「ヌメラと戦った、か……」
『!』
「おっと」

急に声を出したのが悪かったのか、きのみに夢中だったニャスパーが顔をはね上げて耳を持ち上げた。

すわサイコパワーが飛んでくるかと思ったが、ニャスパーはチラリときのみを見たあと、ぱたりと耳を閉じてくれた。

どうやらきのみを渡したことでいくらか信用はされたらしい。

『に…にっ......』

少し離れたところからでも聞こえる、ニャスパーのはぐはぐときのみを食べる音。
相当お腹が空いていたらしく、ペロリと 2 つ食べきってしまった。

『.....』
「....」

じーっと見つめられ、こちらと視線が交わる。

『.....』
「.....もっと食べるか?」
『!』

どうやらおかわりの催促をしていたらしい。ずぶといな。
体力は回復しているだろうから、食い出がある物がいいだろうと、オボンのみをバッグから取り出すためにゴソゴソとしていると、ふと近くに気配を感じた。

視界の端でチラリと見ると、すぐそこまでニャスパーが近づいてきている。

……好奇心は旺盛らしい。ともかく元気なようで何よりだ。

「ほら、やるから」
『! はぐはぐはぐ……っ』

食いしん坊なニャスパーもいたものだ。
体力も回復したようだし、きのみに夢中になっている間にその場を離れて、画材の元へ戻る。 

少し離れたところできのみを食べ…もはや貪っているニャスパーに苦笑しつつ、途中だった風景を描き進めていった。

◇◆◇

キャンバスが8割ほど進み、仕上げのために筆を持ち替えようとしたところで、太陽の位置が低いことに気づいた。

「おっと…集中しすぎたな……」

悪い癖だ。昔からキャンバスに筆を走らせていると、時間を忘れて描いてしまう。

仕上げを明日に持ち越すことを決め、道具を片付けようと大きめのバッグへ目を向けると……。

『すぴー…』
「いつからいたんだ……」

昼にきのみをあげたニャスパーが、バッグにもたれかかるように寝ていた。

実に気持ちの良さそうな寝顔でバッグを潰しているニャスパー。

そんな光景を微笑ましく思いながら、ポケットからスマホを取り出す。

よだれを垂らしながら寝ているニャスパーを画面に収め、ぱちり、とシャッターを押した。

『……?』

出会った頃の警戒心はどこへやら。シャッター音で目覚めたのか、寝ぼけながら目を開けて辺りを見回すニャスパー。

「起こしてごめんな、ニャスパー。そのバッグに色々と詰めないといけないんだ。移動してもらえるか?」
『……にぅ』

言葉は伝わったのか、おぼつかない足取りでぽてぽてと歩いてぽすん、と腰を下ろしてくれた。どうやら作業を見守るらしい。

すっかり忘れていたが、博士から頼まれたミツハニーの蜜も買いに行かなければならないから忙しく撤収作業を行う。

その間もニャスパーはこちらの動きを見つめ続けており、少しだけ気まずい空気の中撤収作業は終わった。

「よし。それじゃニャスパー、気をつけて過ごすんだぞ」

ニャスパーに声をかけて荷物を背負い込むと、ズボンの裾を思ったより強めに引っ張られた。

「えっと、ニャスパー?」
『にぃ!にぅにぅにぃぁっ!!』
「?」

なにやら不満げに鳴くニャスパーだが、意図がわからない。もっときのみを寄越せということだろうか。

どうしていいかわからず戸惑っていると、痺れを切らしたのかニャスパーは器用に爪で僕の体を登ってきた。

「ちょ、ちょっとニャスパーどうしっ、いたっ、服!服に爪貫通してるって!」

さながらロッククライミングのように僕の体を登頂したニャスパーは、フードにたどり着くとすっぽり収まってしまった。

後頭部から満足げな『むふー』という声が聞こえ、少し重くなった。動く気はないらしい。

服が後ろに引っ張られて少し苦しいんだけど。

「食い意地が張ってるのか何なのか。……仕方ない、落ちるからじっとしてろよー」

もう一度荷物を持ち直し、帰り道につく。

日が暮れ始めた道中、『ミツハニーの蜜屋』という安直な名前の屋台を訪れ、博士好みの甘みの中に苦いアクセントがある『むしのていこう味』を 1 瓶購入する。個人的にはコクの深い『虫のさざめき味』が好きなんだけど。

購入する際、フードに入っていたニャスパーが食い意地を見せたため、店主が好意で小さな蜜飴を 1 つくれた。

口に飴を運んだニャスパーは見なくてもわかるほど感激したらしく、ひとしきり興奮した後でからころと楽しげに飴玉を舐めていた。

どうせならドレディアたちにも買っていくかと思い、蜜飴も買っておく。

店主に感謝を告げて、博士の家へ足を進めた。

帰る間、ニャスパーはずっとご機嫌な様子でフードに収まっており、辺りが暗くなって到着する頃には寝息が後ろから聞こえてきていた。

「ただいま戻りましたー」

鍵を柱にいるクレッフィに預け、一度階下の自室に画材道具を置く。

ついでにフードからニャスパーをそっと取り上げ、ベッドの上に寝かせた。

『すぴー、すぴー…』

起きる気配のないニャスパーに苦笑しながら先ほど買った物を手に、リビングへと向かう。

扉を開けると目の前が白に染まった。同時にモフモフとした感触。

「ポポッコ〜、前が見えないんだけど〜」
『(きゃっきゃっ)』

ふわふわと離れていくポポッコを見送ると、珍しく博士がリビングのテーブルに座っていた。

「くくっ、いや、面白いものを見させてもらったよ。……しかし遅かったじゃないか。また集中しすぎたのかい?」
「まぁ、それもあるんですが。実は花畑の方でニャスパーに懐かれ…?まして」

蜜瓶と蜜飴の入った袋をテーブルに下ろしながら、博士の問いに答える。

「ほう、ニャスパーがこの近辺で見られるのは少し珍しいな。人の気配がサイコパワーのノイズになりやすいはずだが」

「ニャスパーを見つけた時には怪我をしていました。恐らくヌメラと戦い、手酷く反撃をもらったのでしょう。逃げ続けて迷い込んだ可能性もあります」

今思い返しても痛々しい怪我だった。いくらヌメラ相手とはいえ、あんな風になるまで戦ったのは何故なんだろう。

「ふむ。そういえば長雨で活発化していると聞いたな。それでそのニャスパーはどうしたんだい?」
「きのみをいくつか与えたらフードに潜り込まれまして。今はベッドでぐーすか寝てますよ」

気の緩みというのもあるだろうが、それにしたってあのニャスパーは警戒心の差が激しい。
あまり人と触れ合ったことがないのだろうか。

「くくっ、君についていけばきのみが食べ放題、とでも考えたか。随分と食い意地の張ったポケモンだな?……まぁ、君が世話をするというなら何も問題はないよ」
「やっぱりそうなりますか…」
「一応、ボールでのゲットも視野に入れておくことだ。ニャスパーはサイコパワーの扱いが不慣れだという。暴走した時に強制干渉できる手段は多い方がいい」
「そう、ですね。わかりました」

この研究所には危険性のあるものが少なくなく、下手に外部から力が加わればちょっとした爆発が起きかねない。

今更ながらその事実に思い当たり、短絡的に野生ポケモンを連れ込んでしまったことを恥じた。

「……ふっ。さて、小難しい話はこのぐらいにしておいて、その蜜をもらおうか」
「え、あぁ…どうぞ。こっちの蜜飴はポケモンたちにでも」

テーブルに置いた袋から『むしのていこう味』の蜜瓶と、正規サイズの蜜飴が個包装された袋を取り出して渡す。

「ふむ、蜜飴。フレーバーは……あまいミツ味か。家事番のドレディアに渡せば上手くするだろう」
「……たまには自分で家事もして下さいね」
「はっ、わたしはノーてんきらしいのでね。検討はするさ、検討は」

手をひらひらと振りながら研究室へ戻っていく博士。どうやら今朝言ったことを根に持っていたらしい。

2〜3 日は面倒だな、と思いつつ、夕食や風呂などの日程を片付けて自室に戻る。

『すぴー……すぴー……うにぃ……』

まだぐーすか寝ているニャスパーを起こさないようにベッドに上がり、体を滑り込ませて目を閉じた。
自室は地下にあるから外の光はない。

代わりに天井についたシャンデラ型の間接照明を見つめながら、僕は深い眠りへと落ちていった。

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