
安楽死
酷い日だ。
若い女性警官の短く整えられた爪先を見つめながら、僕の中心からぼんやりと活力が垂れ流されていった。
「では住所を教えて頂けますか?」
淡々と必要な項目を聞き出しながら、しかし不快に思われないように気遣いながら警官は質問を続ける。
指定場所一時停止無視。それが僕の初めて犯した罪だった。
視線を爪先から外すと、酷く青い夏空の中で、たった一人取り残された白雲が瞳に映った。
羽田発ロンドン着。
今日、水野は空飛ぶ鉄塊に乗って日本を離れる。
水野は最後の日、殆んど目を瞑って僕を見つめていた。瞳が向き合った時、そこで何かが生まれるのを恐れているようだった。
「ね、待たせちゃ悪いし、行くね」
そうだね。と僕は小さく呟いたが、きちんと水野の耳に届いていたか分からなかったし、それはどうでもいい事だった。
「君と一緒だといつだって楽しかったよ」
横顔で水野は笑い、そのまま振り返って歩き出した。
腰まで伸びた長い髪が歩く振動に合わせて揺れ、僕に最後の挨拶をしているように見えた。いつも身に付けている広葉樹の葉の形をした白い髪飾りが光を反射して、僕の眼をちらちらと刺激した。
そうだね。と今度は心の中で呟いた。
初めて水野に出会ったのは、僕が大学の研究室で実験用のマウスを殺処分しようとしている時だった。『被検体035B』が入ったケージを両手で持ち、隣部屋に運ぼうと立ち上がった所で水野が研究室を訪ねて来た。水野は2度ノックして扉を開き、部屋を一望した後僕に視線を向けた。短く揃った前髪に整った眉。少し吊り上がった眼に痩せた頬をしていた為、美人ではあるがキツそうな人だなと思った。
「酒井教授はみえますか?」
「しばらくすれば戻ると思いますが、何かお伝えしておきましょうか?」
「そうでしたか。今日の講義の事で質問があっただけなので、また伺います」
ありがとうございました。と軽く頭を下げて水野は扉を閉じた。
僕は隣部屋に移動し、マウスをガスで安楽死させる装置の設定に取り掛かった。段々と動きが鈍くなり、眠るように死にゆく真っ白な彼を眺めながら、僕も同じように眼を閉じた。美しい、美しい人だった。
再び研究室に戻ったとき、水野はそれまで僕が座っていた椅子に背筋を伸ばして腰掛けていた。
「やっぱり待たせて頂くことにしました」
その日、教授は水野が研究室をノックした3時間後に戻って来た。僕たちはその間趣味や研究や自分のことについて語り合った。
水野が教授への用事を終えて帰るとき、僕は実験を切り上げて水野とトンカツを食べに行った。
それから僕たちは週に1度はご飯を食べに行くようになった。
手続きを終えた警官から青い切符を渡された。
「指定場所一時停止無視は減点2点。罰金7000円です。今ここでは払えないので、郵便局で手続きして下さい」
では気を付けてくださいね。と言って若い警官は自分のバイクへ戻っていった。
再び空へ目を向けると、さっきまで死んでいた白雲は拡散して流れてしまっていた。代わりに小さな飛行機が横へ一直線に走って行った。
その時、鞄の中で携帯電話が震えた。液晶画面には大きく「水野」と書かれていた。
「もしもし」
「あ、こんにちは。突然ごめんなさい」
「もうすぐ飛行機が出るんじゃないの」
「そうそう、でもあと30分位はあるから」
「どうしたの?」
「いや、何ということはないんだけど、君に言ってない事があったなぁと思って」
「あのね、あの、研究室で最初に会った時のことを覚えているかな」
よく覚えている。
「あの時、私は酒井先生に質問をしに行ったんだけど、先生がなかなか来なくて。研究室で君と話しながら待ってたよね」
「そうだったね」
「本当はね、結局君と話してる間に疑問は解消されちゃってたんだ。結構長いこと待ってたけど、最初の方で君が分かり易く説明してくれて。逆に先生の説明がまあ、下手くそでね」
電話の向こうからふふふと笑い声が漏れた。
「君はね、教えるのがとても上手だから、きっといい先生になれると思うんだ。それを今の内に伝えておこうと思って」
「…ありがとう」
それじゃあ、と言ってしばらく沈黙したあと電話は切れた。僕は口を利かなくなった電話を持ったまま殆んど動けなかった。
どの位そうしていたか定かではなかったのだけど、僕はいつの間にか眼を閉じていた。車の窓がノックされ、目を開くと先ほどの若い女性警官がバイクに乗って傍に立っていた。
「すみません、ここにあまり長く停めていると交通の邪魔になるので、早めに出てもらってもよろしいですか?」
僕が力なく頷くと、警官は少し眉を寄せたが、何も言わず走り去っていった。
走り去るバイクを眺めていると、自然とプレートの番号が目に入った。番号の付いた白いバイクは、僕にマウスたちを思い起こさせた。いずれは殺されゆくマウスたち。彼らもその現実を知れば狭いケージから走り出して逃げ出したかったに違いない。ゆっくりとガスで眠らされる直前、彼らは何を感じ、思っているのだろう?僕には番号が付いていないし、狭いケージに入れられている訳でもなく、どうやらまだ死ぬまでに時間があるようだった。
空を見ると、雲も飛行機もずっと先へ行ってしまっていた。徐々に遠ざかるバイクのプレートが夏の光を反射してちらちらと僕の眼を刺激した。例え焼かれても今眼を閉じてはいけないのだ。あの瞳を今度こそ捉える為に。
僕はまだ、去っていく白を少しだけ追えるような気がして車を発進させた。