『盛大な人生』 中村天風考
最近、中村天風という人の残した本を読んでいる。メソード演劇の先生がよくその話をするので、参考に読み始めたのだが、なるほど、この人の唱える「心身統一法」は、俳優修行にも大いに応用できる部分がある。
中村天風という人
中村 天風(なかむら てんぷう、1876年7月30日 - 1968年12月1日)戦時中は諜報員として働き、戦後は実業家となる。肺結核を病んだことによりヨーガの師と出会い、「心身統一法」を悟る。本名は中村 三郎(なかむら さぶろう)。
啓蒙家なので、多くの著作を残しているのだが、その中でも「成功哲学三部作」と言われる『成功の実現』『盛大な人生』『心に成功の炎を』が有名。
…いい価格だな。図書館にあるので、読みたい方はまずは借りてきて。(笑)
心身統一法とは?
中村天風さんが三部作を通してずと言っているのは、心が先か、身体が先か、という話。「統一」というからにはそれを一つにするのがもちろんテーマなのだが、日本人の伝統としてはまず「体ありき」に偏っている、というところから問題提起がされている。
第一部である「成功の実現」では、大まかに以下のような内容が語られ、その具体的な方法も示されている。
1:人生礼賛(自分自身の存在を素晴らしいものと認める)
2:陽気の発するところ金石また透る(消極的な人に引きずられない)
3:心の態度を積極化する
4:心の奥の潜在意識を明朗化する
5:神経反射をコントロールする方法を身につける
6:恐怖に打ち勝つ
7:すべての心的現象を客観視する
8:幸福を味わうために心を常に鋭敏に使うことを習慣化する
9:揺るがない心を育てる
10:思考は人生を作る
人に物を教わるときには
印象に残る話がある。
天風さんが、求道の末にインドに辿り着き、ヨーガの師匠と話すくだり。いつまで経っても師匠がなにも教えてくれないので、痺れを切らして催促する。
天「あの、いつになったら教えをいただけるんでしょうか」
師「私のほうはいつでも教える準備ができているよ」
天「私もいつでも教われますが」
師「いや、お前は全然準備ができていない」
(しばらくの問答ののち)
師「強情な奴め。コップに水をいっぱい注いできなさい」
(天風さん、注いでくる)
師「その上に、お湯をつぎなさい」
天「そんなことしたら、どっちもこぼれちゃいますよ」
師「お前、それがわかるのか」
天「はい」
師「それなら、なぜ私がお前に教えないのかもわかるはずだよ。お前の頭の中はその水の入ったコップだ。それを全部からにしてこなければ、私の教えたことはすべてこぼれていってしまう。だから私は教えないのだよ」
他愛もないやりとりのように見える。しかしよくわかる。私もこれに近いことを、メソード演技の先生に言われた。そして天風氏と同じように「お前これから教わるんだろう、頭の中、空っぽにしておけよ、と先に言ってくれたら、二ヶ月を無駄にしなくて済んだのに」と思った。
でもね。
この時間があってこその腹落ちなんだと思う。
人間は、そう簡単には空っぽになれない。今まで一生懸命知識を得たんだもの。それを応用したくなるよね。でも、それでは新しい知識は腹まで落ちない。どうしても得たい奥義があるなら「生まれたての赤ん坊になってこいよ」ということ。有り体にいえば「洗脳」よね。でも本当に教わりたいことがあるなら、それは必要だってことなんだわ。
そして「赤ん坊」になった天風さんが教わったことは。「人間というものがこの世に生きるためには、なにをおいても心と体を別々に考えてはいけない。文明の民族の一番の間違いは、生命を考えるときに、体のことしか考えないことだ」
ということだった。
俳優の身体と心
私も、このことをコーチに教えてもらえたのは、二ヶ月どころか、ゆうにレッスンに1年以上通ってからのことだった。
体と心の話になると、確かに日本の俳優の殆どは「心」というものをコントロールする術を理論的には学んでいない。ミュージカルをやっていたときには、歌とダンスの技術が何より重視されていた。心は二の次だ。その後、大学で演出を学んでいるときに出会った師匠から教わったのは、身体を重視した俳優訓練方法だった。非常に美しい舞台をつくるための、実に系統立った理論だが、俳優としてそれを実践する人間になりたいとは思わなかった。それはあくまで、演出家が自分の世界を実現するために作り出した理論だった。
俳優として舞台に立つからには、心のトレーニングを理論的に学びたいと思って戸を叩いたのだけれども、心は理論では動かない。ここに大きな落とし穴があった。理論で動かないモノを動かす理論なんか、ない。メモをとってみたが、それは論理的に組み立てようとすればするほど、正解から遠くなっていく。それならばどうすればいいのか。
天の声を聴く
天風さんは、師匠からようやく上記のことを教わった後、今度は滝のそばに日がな一日座って「天の声を聴く」ということをやったという。
大きな音が日がな一日聴こえている大瀑布の横で瞑想をしながら、「天の声をきく」。はじめは滝の大音声しか聞こえない。やがて、その隙間に虫や鳥の声を捉えることができるようになってくる。そして、3ヶ月後には、なにを聞いても「それを相手にしない」というところまで行き着く。これは「無心」の状態。でも、無心はなれても、そこに「天の声」は聴こえないじゃないか。と師に食ってかかる。
師「聞こえてるのに、聞こえないのか。それが、天の声だ」
天「え?」
師「天の声とは声なき声(absolute stillness)だ」
波長が長すぎて、普段人の耳に入ってこない音。それに耳を澄まそうとすると、心は浮遊する。その時の心の状態は、あらゆる恐怖や苦痛から解放されている。
これはきっと私たちがエクササイズで作ろうとしている心の状態と同じだ。
感覚の中でも特に聴覚を研ぎ澄ますと、心は軽くなってくる。Absolute stillnessが心に訪れる。明鏡止水。
十牛訓
この本の中で引用されている十牛図の教えも、やはり自分自身のために今必要なことだったのでここに記しておく。(ここからは、大いに私の解釈で書く。天風さんの言葉を抜き書きしたわけではないので、あしからず。)
これは、禅の考え方で、悟りに至るための10段階を図示したもの。牛が「真の自己」、牛を探す牧童は「真の自己を探す自己」を指すのだという。
1:尋牛(牛を尋ねる)
心が迷い、自分が救われる方法がないかどうか、探している状態。自分に照らし合わせると、真の演技を求めているが、どのようにそれを習得するかもわからない状態。
たずねゆく みやまの牛は見えずして ただ空蝉のなく声ぞする
2:見跡(けんせき)
「あ、ここにこんないい本がある」「この人の演技法は納得できる」と、その糸口になる物を発見した状態。
こころざし 深きみやまの甲斐ありて しおりの跡を見るぞ嬉しき
3:見牛(けんぎゅう)
おぼろげながら、「演技」というものがわかってきた。納得できる演技ができいなくても、それがどんなものかということがわかってきた状態。
吼えけるを 導にしつつあら牛の かげ見るほどに尋ねきにけり
4:得牛(とくぎゅう)
ようやく本当の自分に出会う。素のままの自分の心に出会う。しかしそれをなかなかコントロールできずに、ややもすると離れていこうとする心をしつけている状態。(イマココ)
はなさじと思えばいとどこころ牛 これぞ誠のきづななりけり
5:牧牛(ぼくぎゅう)
ようやく心をつかまえ、それを育てていく状態。雑念や妄念を手放すことができても、ふとした瞬間に元に戻ってしまう。修養を重ねて、何度も繰り返しその演技ができるように訓練すること。
日かず経て 野飼いの牛も手なるれば 身にそう影となるぞ嬉しき
6:帰牛帰家
牛と一緒に家に帰ることができる。つまり日常が悟りの状態になっていて、常に心を牛と一緒にすることができる状態。感性を心に常につなげておき、いつでもいい演技ができる状態。私が普段から親しくしている役者たちはここにいる人が多い。
かえり見る 遠山道の雪消えて 心の牛に乗りてこそゆけ
7:忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん)
牛がいなくなって牧童と一体になっている。つまり、熱心に求めていた真理、自分の心が、ついに自分のものとなった状態。演技の自分と本当の自分に何の乖離もなく一体化している状態。
8:人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)
牛も、人もいない。迷いも悟りもなくなった状態。円相。
ここからは、霊性を帯びた演技ができる境地。ここにいる俳優も何人か知って
います。
もとよりも 心の法はなきものを ゆめうつつとは何をいいけん
9:返本還源(へんぽんげんげん)
自分の存在を数えず、ありのままの世界の姿を見ることができる状態。
演技で言うと、誰の評価も関係なく、世界のあり方を人に提示できる演技がで
きる境地だろうか。
10:入鄽垂手(にってんすいしゅ)
そして、意味のわからないこの最後の第十図。
布袋さんが突然現れる。なんだこれ 笑
一般的には、悟りによって得たものを、また世俗の世界に広げようとする姿と
される。つまり、この境地に達した人のみが、人に教えることができるってこ
となんだろうか。よくわかりません。どなたか、これを演技に照らして言える
人がいたら、是非メッセージをお願いします。(笑)
と言うわけで、ちょっと長くなったけど、自分なりに「盛大な人生」読後の気づきをまとめてみた。「心に成功の炎を」に関しても同じように書いてみようと思っているので、面白かったら引き続きフォローしてくださいね。