やめてみた
2022年が始まっていつのまにか4ヶ月が終わった。この間、私はオーデションも受けていなければ、舞台に出演もしていない。ありがたいことにお声かけ頂くことは数回あったのだが、タイミングや諸々の準備が合わず、結局見送りとなってしまった。その結果、宣伝することのない4ヶ月間が生まれた。ちなみに、これはもう少し続きそうである。
生まれて初めて、「意識的に」舞台から離れてみている。
80歳まで舞台に関わるとしたら、残りは57年弱。そんな短い時間の中でも、まあこんな瞬間があっても良いかなと思っている。
頑張り方のこと
離れてみて分かったのだけれど、自分の体が思ったよりずっとダメージを受けていたのは驚いた。もちろん、大好きな舞台のためなら多少日常生活に支障をきたそうと、大して気にならなかった。寧ろ、それこそ誉!ぐらいに思っていた。が、離れてみて、私の考える「舞台人ではない人の生活」をしてみて、ちょっと思ったのだ。舞台は、少なくとも私にとっては、心身への負担があまりにも大きいなぁと。
頑張り方を間違える、というのは想像以上に恐ろしいものだ。怠けていたのではなく、頑張っていたのにそれが間違っていたというのが誰も責められなくて悲しい。私の場合、生活や自信を顧みずに直走ることが頑張ることだという気がしていたが、それはただの自己満足だったというところだ。去年の私は、とてもよく頑張っていたと思う。努力の形には様々あれど、出来ることを精一杯やっていた。
ただ、頑張り方を間違えていた。その結果が去年の私の栄養失調だ。正直に白状する。世の中から少しずれているような、盲目的な努力こそが、去年の私にとっては舞台人としての「変なところ」であり、ちょっとした自慢でもあった。完全にイタイヤツである。せっかく頑張るのだから、方向性だけは見失いたくない。先にあるもの、そこからの筋道を常に考え続けるというのは、割と、いや、めちゃくちゃ大事。自戒を込めて。
結局あんまり変わらない思考回路
今の生活をざっくり言えば、朝起きて舞台とはあまり関係のない仕事やバイトに出掛けて、夜に帰ってきてご飯を作って寝る、といった具合だ。平日に働き、土日は基本休み。時々モノづくりへの仕事や、制作のお手伝いなんかをしている。舞台から離れても特に大きな問題もなく生活できているけれど、毎日毎日、舞台について考えている。思考回路だけはそんなに変わっていないようで。
元より、私は「私には舞台しかない」という意識が薄かった。別に舞台じゃなくても、芝居じゃなくても良かった。わざわざ舞台に固執し続ける理由になるような、舞台が私を救ってくれた云々のエピソードも、残念ながら持ち合わせていない。舞台はただひたすら楽しいものだったし、今もそう。きっと芝居に飽きたら、私はアッサリ辞めるだろう。
そんな意識の中でも、私はここ4ヶ月舞台のことばかり考えている。自分が出演した作品や役について再考することもあれば、観劇した作品に想いを馳せることもあれば、舞台や演劇の世界の問題について真面目に考え、時に討論して泣くこともあった。一瞬でも舞台を忘れることなんてできなかった。これは大袈裟でも何でもない、本当のこと。我ながら見上げた執着心だ。あーー、早く舞台にかかわりたい。
演劇とどう付き合うか
少し前、具体的に言えば、1年前の私なら、舞台に「立ちたい」というのがぶっちぎりで1番の欲求だった。今、それは少し変わっていて、舞台に「かかわりたい」になっている。演者が一番なのは変わらないが、それ以外に、例えば制作や、例えばお客さんといった、演者以外の目線からでも十分すぎるほど楽しいと分かったからだ。そんな中で気づいたのは、私は売れたいのではなく、モノづくりをしたいのだということだ。
異論は認めるが、生まれた時から人間は向き不向きが確実に決まっている。今、芝居の世界で売れている俳優さんにあるものを、今の私が努力で勝ち取ろうとするのは、ちょっと難し過ぎる。生まれた時のランキングで負けているからだ。これはお金絡みだったり、家だったり環境だったり、才能だったり見た目だったり、色々ある。こうは言うが、別にその仕組みが悪いとは思わない。才能や環境が整っていようと、売れるまでに上り詰めた裏側には大なり小なりの努力があったと思うのだ。だから、売れている俳優さんを妬む気持ちも特に湧いてこない。自身の魅力に気づき、それを磨き上げるのはちょっとやそっとじゃ叶わないから。ただ、この仕組みの中で私が勝ち上がろうとするのは部が悪いなぁと思う。同じ土俵にも立ててないから、勝率なんてほぼ0%だ。
例え売れなくても、舞台から離れられない。離れたくない。どんな形であれ、舞台に関わり続けていたい。私は、売れたいからこの世界に来たのではないのだと思う。以前、「芝居向いてないんじゃない?笑」と、とある講師の方に言われたことがある。その時はショックだったが、今思えば、この先生の言葉はご最もなのだ。たぶん、ユーモアに乏しく臨機応変が苦手な性格的にも、私は舞台役者に向いてない。しかし胸を張って言うが、ここは私に向いてるから選んだ世界でもない。
私はものづくりをしていきたいのだ。もっと言うなら、人が生きていく中で辛いことや悲しいことは沢山あるが、そんな中でも「それでも、生きよう」と思えるものを作りたい。逆境に立ち向かわなくて良い。戦わなくて良い、逃げて良い。それでも、最後の最後まで人生を諦めないでいてほしい。その最期を選ぼうとした時に、少しでも引っかかるようなものを作りたい。
人を救えるのは人だけだと思う。そして、自分を救えるのは自分だけだ。他人でも神様でもない、自分しかいない。大事な人には、幸せでいてほしい。できる限り守りたい。でもその最後の最後に委ねるのはその人自身になるのだから、その心に訴えかけられるようなものをつくりたい。そうやって、私は、自分の好きな人を守りたい。
話がずいぶん大きくなってしまったが、私はただ劇場のそばで生きて、劇場のそばで死にたい。根っこにあるのはこれだけなんだと思う。形は問わない。その人生設計に見合うような、お金でも実力でも、何かを今、手に入れたいなと思っている。
吐き出したかった
さて、そろそろ話が纏まらなくなったのでこの辺で切り上げたいが、何故これを書いたかだけ残しておく。
怖かったからだ。何もしていない訳ではない。頑張っている。でも、今はその方法が、去年のような目に見える変化や活動ではなく、地道で結果はなかなか目に見えないものばかりだ。だから怖かった。何も成し遂げられていないんじゃないか。今の私は進めていないんじゃないか。これはただの逃げ道なんじゃないか。それじゃあ一体何しにここに来たんだ。これは必要な時間だと、今胸を張って言えるのか…。
ある人から見れば、きっと私は停滞しているんだろう。正直、結果があまりにも見えなさ過ぎて今のコツコツとした作業が必要だと言い切れる自信は80%くらいしかない。残りの20%は疑心暗鬼である。やっぱり怖い。
だから、今の自分を残しておきたくて、誰かに見ていて欲しくて、書いた。まあ、墓に入るだけなんだから、いっか。一年後に笑っていられるといいんだけど、まあその時はまた自己満足な文章でも書き残して、私が死んだ後に笑って頂こうと思う。