名をつけること、名をよぶこと
人の集まりを何と名づけるか、ということを何年間か考えてきた。
そう考えるようになったきっかけは、「村」というものが一体何なのかわかなくなったことにある。「僕らは何を村と呼ぶのか」という文章にも書いたように、みんなそれぞれ「村」と呼ぶものがことなる中で、それぞれの言う「村」が何であるのか分からなくなっていた。
そして、具体的に実感を持てる「家」のスケールから物事を考える必要があるのではないか、という話をするようになっていった。
今もその考えは変わらない。しかし、自分が安易に「村」という言葉を使うことに寛容になったように思う。2~3年前は「村の人たち」というありがちな言葉すら、喉元で引っ掛かっていたが、今は普通に言える。
この変化は、おそらく名前に関する自分の認識の変化だ。
一昨年から友人たちと「松本家計画」という集まりを続けている。実態としては、復興事業をきっかけち村を訪れた大学生たちの集まりであるから、「葛尾村応援団」や「葛尾村若者会議」みたいな名をつけることだってできただろう。それでも、「松本家」という村のある一軒家の名前をつけて、「松本家計画」とした。
なんとなくそうしただけだが、そこには大きな意味があったように思う。「松本家計画」と「葛尾村応援団」はどちらも固有名詞だ。しかし、名前が持つ振れ幅が異なる。
「葛尾村応援団」は言わずもがな、葛尾村を応援する集まりだろう。葛尾村を応援しない葛尾村応援団は、言葉の上では成立するが、実際には成立しずらい。一方で、「松本家計画」は、松本家に関する活動をする集まりだろう。松本家に関わる限り、何をしていても松本家計画と言い張れる。松本家計画という名前は、場所に紐づく限りで、どこまでも振れられる余地を持っているのではないかと思う。
その振れ幅は松本家展の展示冊子序文にも表れているように思う。この2年半で「松本家」という言葉が示す意味は広がっていったように感じている。
長いスパンで見ると、「葛尾村」という言葉も同じように振れてきたのではないかと、ここまで考えて思うようになった。
例えば、明治期に4つの村が合併して葛尾村になったとき。例えば、戦後に開拓者が村に入ってきたとき。明らかに異質なものを取り込みながら、その異質さを未だに残しながら、それでも同じ名前で呼ばれている。
それならば、「村」という言葉の曖昧さに悩むより、変わりゆく曖昧なものを「村」と呼んでしまった方がよいのではないかと思うようになった。
名をつけるとき、あるいは名をよぶとき、名前ごとの振れ幅とスケールがある。何かを継承するということは、自分が属すると思えるよう名前の意味を揺れ動かしていくことなのではないだろうか。