ふぉとらいふ#4カメラ機材が多くなるのが嫌だ
日記です。
タイトルにあるように私としての理想は尊敬する森山大道先生がNikonのコンデジ一つで街を歩くようなスタイルでありたいと思う。
しかし、いざ週末にどっぷりとスナップに出れるタイミングがあればカメラバッグの中はカメラとレンズでぎっしり。
小学生のランドセルのように重たい鞄を背負って街を練り歩いている自分をショーウィンドウのガラス越しに見た時は、その不恰好さに目を逸らしたくなります。
でも最近カメラは最低でも2台持ち。
フィルムカメラで写真が撮りたい。
でも撮るか迷った時に躊躇わず撮りたい。
そのためのデジカメ。
未熟なので何回も同じ構図で試行錯誤がどうしても必要になる。
昔のポラロイドのようにデジカメでこれだと思う一枚が撮れた時にフィルムでも撮る。
これが合理的だと思うけれど、現代のフィルムカメラが持つ不確実性を損なっている気がする。
ピントや構図が整っていればいい写真ってわけじゃないと思うから。
被写体はファインダーに入れるものなのか。
それともファインダーに飛び込んでくるものなのか。
建物や樹木、乗り物や空、雲、星、そして人。
何を撮るのか。
そのために何が必要なのか。
素晴らしい瞬間に出会った時に躊躇わずにシャッターを切りたい。
その時に迷うようなカメラなら、きっと必要ない。
いい写真を撮れている。
なんて、実感はないけれど。
カメラは手や足、目や鼻のように。
身体の一部であるような感覚になるカメラがある。
常に自問自答する必要がある。
写真はカメラが撮るのか。
それとも人が撮るのか。
身体の部品は大抵2つあるから機能する。
カメラも別に一つじゃなくていいとは思う。
高性能なカメラは必要ないとは思う。
やっぱり写真は人が撮るものだと思うから。
でも、やっぱり高性能カメラ欲しくなる瞬間があるんだよなぁ。
お金が沢山あるならZ9欲しいです。
M11も欲しいな。
GFXも欲しい。
ハッセルの907xもいいな。
今この瞬間が1番安く手に入るのは間違いない。
でもいくらかかるんだ?
その価値はあるのか?
持たないものの僻みなのか?
一度はレンタルででも使ってみるべきなんだろうな。