フォトライフ#8 Tokyo snap

とある日の渋谷

異国など、遠くに行くことと東京を一人で彷徨うことは似ている。

孤独ではあるが、クラス替えがあった新学期の初日のような蟠りのない孤独感が心地よいのだ。

流れる人たちの殆どは初めましてで、

そして、直ぐに別れる。

帰路の途中に漂う他人の家の夕食の準備の匂いは、顔も知らない人の生活に触れ過ぎるが、東京は生活感がない。

その距離感が心地よい。

どこまでも他人の為の街だ。

少なくとも私にとっては。

他人の道が交差する街。


人の幸せを盗み見る?

通り過ぎる他者と公共の狭間に、自分を探す。


鏡に映る自分を撮っても何も写らないから。



彷徨い続けると、自分は防犯カメラになったような気分になる。


ただ、見ているだけ。

欲深き防犯カメラは街を彷徨う。

何も防げてやしないのに。

写真に言葉を載せる意味を問う。

そんなもの本来は必要ないはずなのに。

いや、そう信じているだけか?


他人と街と私と。

どこまでもよそ者の私。

誰にも見つかりたくない。








貴方は何故撮るんですか?と問われる時代らしい。

つまり、誰もが写真を撮れる現代において、高価なカメラとレンズで他人が他人を撮る必要があるのかと問われている。

写真表現者は、アインシュタインのように、ニュートンのように、エジソンのように社会に貢献しなければならないというのだ。

芸術を学び続けた人々は、ただ、美術が好きだっただけなのに、自身の社会的立ち位置をアピールしなくてはならなくなってしまった。

キリギリスのように自由ではならないという事だ。

写真は自己表現の道具ではあるが、そんな写真が撮りたいわけじゃない。

僕ら彷徨う防犯カメラはGoogleが居れば十分だろうか?

今日も自問自答しながら街を彷徨う。

乾杯。


最後までご覧いただきありがとうございました。


A-photoでした。

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