ミステリと球体関節人形

 かねがね文芸における推理/ミステリー小説と、美術における球体関節人形の立場が似ていると感じている。
 知る人ぞ知る世界であることや、ファンとマニアの精神的距離の近さなど、外面的な部分も共通するが、最も重要であることは、表現に制約があることだろう。
 
 推理小説は謎をめぐる物語であり、球体関節人形は球体の関節構造を持つことである。これが制約であり、制約があるからこそ表現が飛翔する。

 推理小説の定義はなにか? という問いへの答えはマニアによって異なるが、ここでは「謎をめぐる物語」としておこう。
 探偵が現れて密室(をはじめとしたお約束の道具立て)での殺人の謎を解くというスタイルの推理小説を「本格推理小説」と呼ぶ。これを逆手に取った「変格推理小説」と呼ばれるものもある。変格推理小説では、密室やトリックといった道具立てはそろっているのに、それが物語の謎に寄与しないどころか、謎が解決されない作品さえある。
 広義の「ミステリ」にはSFや冒険小説も含まれる。謎の力を借りずに長編を支える小説と言うのは少ないので、どんなジャンルの小説からでも謎を見つけだして、それに喰らいつこうという野蛮なミステリ読みの人もいる。
 これらすべてが「推理小説」であると私は考える。
 また、謎の部分にのみフォーカスし、解決しないという不思議なムードの小説もある。この場合はさすがにミステリと呼ばれることは少ない。幻想小説と呼ばれることが多いだろう。優れた推理小説における謎の提示は、幻想小説に似ている。幻想小説は、解決編がない推理小説に似ているとも言える。謎による宙ぶらりんの状態を楽しむことができる。しかし、ただふわふわとした謎だけで構成されたものは幻想小説としてはいまいちで、解決編がなくとも、その世界を貫く一定の合理性を備えた幻想小説のほうが読み継がれるようだ。

 球体関節人形の魅力は大きくふたつある。
 球体の関節で全身が繋がれているという構造の魅力と、かわいらしさや美しさの背後に仄見えるエロスや猟奇性などのあやしいムードである。

 球体という構造を備えていればいいのだろうと、関節部分を空豆のような楕円体状にした二重関節によって、可動部分を大きくしたものもある。多くの球体関節人形は内部のゴム紐で形状が維持されているが、螺子やマグネットを利用した関節のものもある。これはいわば変格推理小説に近い。
 球体関節人形を普段作る作家が、あえて関節を設けず、トルソーやバスト(胸像)を制作することもある。腕のいい作家が作れば、エロスや猟奇性がよりダイレクトに伝わる。この雰囲気こそが「球体関節人形の本質ではないか」と思うことさえある。ミステリ好きが高じて、謎そのものに惹かれるようになった幻想文学ファンの心情に近い。

 こうなってくるとそのジャンルでの松竹梅のつけ方が一般の人にはわからなくなってくる。
 ほんらい推理小説は謎とその解決にどれだけびっくりできるか、という採点の指標があるから、松竹梅がつけやすいはずなのだ。
 しかし、謎は解決されずに本を閉じた後も迷宮をさまよい続けるような気分になる……そういった小説こそがマニアの評価が高い。3大推理小説と呼ばれる、夢野久作『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、中井英夫『虚無への供物』では、いずれも謎が明確に解決しない。これらのレガシーを読み解くには、それまで紡がれてきた推理小説というジャンルのお約束や、推理小説以外の文芸、あるいは社会を含んだ読者のリテラシーも問われる。
 球体関節人形も、ジャンル名としてそう呼ばれているが、ファンの多くは球体関節という構造だけでなく、作品に漂うかわいらしさや美しさ、その背後に仄見えるエロスや他ジャンルの芸術の文脈という教養的な部分にも惹かれていることが多い。
 そのうえであえて「関節の構造」にこだわる作家の職人的なマインドがあることも、物語の表層において謎を解決させないが、ひそかにその解決を用意していることが窺える小説のようである。

 話を戻そう。マニアックにジャンルの内部に入り込まないと読み取れない文脈があり、それに惹かれたファンが作家になって再生産を行う……これも推理小説と球体関節人形とで共通する点である。
 文芸ジャンルの文学賞と言う権威に、推理小説作家がなかなか認められないというのもこのマニアックさに原因の一つがあろう。美術における球体関節人形の扱いもそれに近い。
 私見だが、ミステリ小説は本格が流行した後、変格(やSFなどの他ジャンルの作家によるミステリ要素を含んだ作品)が見られるようになり、しばらくジャンルが停滞し、また若い作家が本格を書いてデビューするというサイクルが繰り返される。魅力的な謎やトリックのネタが尽きて、新たなネタが蓄積されるまで、概ね20年くらいのスパンが必要だと思う。
 純文学やSF作家、あるいは詩人などがミステリを書くことがある。話がそれるようだが、芸術家の余技としての推理小説にはきわめてすぐれたものがある。前述の中井英夫や、中井の盟友にしてライバルであった歌人の塚本邦雄の『十二神将変』、画家の柄澤齊『ロンド』などは推理小説氏に残る傑作といえる。これは美術系大学で彫刻や工芸を専門にしてきた作家や、フィギュアや、キャラクタードールと呼ばれるアニメやゲームのキャラクターを立体にした造形師が球体関節人形を制作することに似ている。

 キャストドールと呼ばれる、メイカー製の量産品の球体関節人形のファンが増えているのは、文芸におけるライトノベルのファンの増加にも似ている。ライトノベルの原点もまた、議論の分かれるところであろうが、筒井康隆や眉村卓、平井和正などが書いた青春SF小説が寄与している部分は大きかろう。キャストドールの出発点も、アニメキャラクターのカリスマ造形師であった圓句昭浩のご令室が日本有数の球体関節人形コレクターであったことに由来する。いずれも、原点はそのジャンルのマニアを唸らせる凄腕が支えていた。活況のあるジャンルから学ぶべき点は技術的にも多い。

 ミステリ小説作家に人形ファンは多い。カヴァーには天野可淡、恋月姫、四谷シモン、吉田良といったジャンルを代表する作家の作品が見られる。バラバラ殺人という単純な連想ではなく、死者をめぐる生者たちの物語である推理小説に、生と死の間を漂う存在である人形というものがふさわしいからだろう。

 覚書程度に書くつもりが、くどくどと長くなったが、生者たちによる死者の物語というのがわたしのミステリ小説の定義である。謎を考察している間は、死者はまだ死なない。謎は解決されないほうがいい場合もある。人形って何だろう、と考え続けさせられる人形こそがいい人形なのである。

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