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シン・仮面ライダー感想(ネタばれあり)

 今回も人形の話ではない。庵野秀明監督のシン・仮面ライダーを観たのでざっと感想を書きたくなった。

 わたしはこの映画を好意的に観た。子供のころ、昆虫学者だった父親の影響もあり、昆虫をモチーフにした怪人が多く出る仮面ライダーには親しみがある。しかし当時、テレビの再放送はなく、図鑑や雑誌記事の写真でその雄姿を想像するばかりであった。今もテレビドラマ版の全編をみているわけではない。石ノ森章太郎の漫画版は電子書籍で読んだ。

 映画を観る前に心配していたのは「令和の映像技術で当時の再現」「現代の科学技術を前提に当時の物語を再解釈」の2択しかないのではないか、ということだった。それは仮面ライダーの歴史において、何度も試みられてきたことだから、新鮮味を出せないのではないか?

 映画の内容は、石ノ森の漫画版(「原作」ではない。漫画版とドラマ版は並行したメディアミクス作品である)をリスペクトし、テレビドラマ版の当時のロケ現場を背景に、藤岡弘、の怪我などのメタ的な要素も取り入れるなど、往年のファンを喜ばせる要素をちりばめた、仮面ライダー1号+2号の物語を正統的に再構成した作品であった。当時のファンや石ノ森章太郎をはじめとした制作陣に捧げられた作品だと思った。
 現代の社会問題を(わざとらしく)取り入れることもなく、最新の映像技術をこれみよがしにすることもなく、科学技術に踊らされることのない、仮面ライダーに捧げられた作品。

 Twitterを検索すると、公開初期は「庵野節」「庵野の二次創作」のような感想を多く観たが、1週間経ってそのような感想は減少してきたようだ。わたしはそのような感想に与さない。

庵野節?

 「庵野節」とはどのようなものだろうか? メジャーどころの「トップをねらえ!」「新世紀エヴァンゲリオン」「シン・ゴジラ」に共通する要素を思い返すと、細かいカット割りや過去のSF小説や映像作品からの引用、といったものが思いつく。
 シン・仮面ライダーにおいてはそのような要素はかなり抑制されていたと思う。文字情報を一瞬映して、あれはなんだったの? と再確認させるような映像はなかったと思う。
 わたしが「庵野節」と考えるのは、映像面での過剰な情報に対し、セリフによる説明が抑制されていることだ。しかしシン・仮面ライダーでは、映像面での情報もセリフでの説明の両方が少ない。よくわからない、という感想を見かけるのは当然だと思う。子供向け番組だったはずの仮面ライダーを観て「わからない」という思いをさせられるのはストレスだろう。

庵野の二次創作?

「映画を観る」というより「庵野映画を観る」という動機で観ると「庵野の二次創作」のような感想になるのだろうか。引用が多いと、その引用元に気づくと嬉しくなるもので、試験の問題を解くような気持で映画に向き合うことができる。たくさん気がつけば高得点。正解に近づいた気になれる。映画を観てお得な気持ちになれる。コスパがいい。庵野監督自身がそのような観客を育ててしまった部分もあるので、それはそういうものなのだろうけれど。しかしTwitterやyoutubeで語られる「面白い/面白くない」の一言で切り捨てられる感想や、「○○の引用元は~」という感想は映画の内容に踏み込んでいると言えるだろうか?

わたしはこういう切り口で観ました

 偉そうに書きやがって、じゃあお前はどう観たんだ? と聞かれると口ごもる。映画全体はいい印象で楽しんだのだが、まず思いつくのは弱点なのだ。

弱点:権力への無邪気な信頼

 シン・ユニバース実写作品を思い返すと「シン・ゴジラ」は世襲政治家が主人公で、それをサポートする官僚たちが力をあわせて大災害の象徴であるゴジラと立ち向かう話であった。
「シン・ウルトラマン」(監督は樋口真嗣。庵野秀明は脚本として参加)に登場する禍特対はアカデミアからの出向者もいるが、エリート官僚部隊だ。カイジュウ=禍威獣という当て字は、作品の企画段階では意識されていなかったコロナ「禍」が撮影のスケジュールにも影響した状況も意識されているだろう。禍威獣や外星人という未知の生き物は、ウィルスやウィルスを産み出してしまうような人の手に負えない科学技術の比喩として読み取れる。この作品でもエリート官僚たる禍特対が、世界中の科学者によって算出された数式をもとに(外星人ウルトラマンの手を借りはするが)問題が解決される。
「シン・仮面ライダー」でも、本郷猛と緑川ルリ子をサポートするヒゲの男たちは政府機関に所属している。ヒゲの男たちは「我々も一枚岩ではない」と発言したり、怪人・サソリオーグの毒を利用した武器の開発などもしているが、基本的に主人公たちの味方である。ハチオーグのアジトを急襲する際は、アメリカ空軍の力さえ借りている。
( 2023.4.3追記:この米空軍の描写は、ヒゲ男たち(のいずれか)が国際的な諜報機関に所属しているという示唆だったのかと思い至った。庵野秀明監督の密着番組をきっかけに、Twitterで作品内にとどまらない様々な議論が生じている。庵野監督の政府・官僚描写も話題になっているようだ。 )

 石ノ森の漫画版のラスボスが日本政府と結託し、国民総背番号制を推進しようとしていることを考えると、政府機関=権力へのスタンスが全く異なる。付言すると、テレビ版のショッカーは旧日本軍の残党と思しき集団で、ゾル大佐というナチスの残党まで存在した。終戦を経験した石ノ森や当時のスタッフにとって、政府は信頼できる機関ではなかったのだ。
 石ノ森漫画版の本郷猛は大富豪の息子で、執事(!)の立花藤兵衛とともに、その資産をつぎ込んで対ショッカーの設備や装備を整えていく。私財を投じて権力と戦うのである。二号ライダーの一文字も元はジャーナリストで、ペンと写真で世の中の不正を暴こうという青年であった。ショッカーライダーの一人であった彼は、たまさか洗脳が解け、本郷の力を借りてショッカーと立ち向かっていく。

 Twitterでこのような感想があった。うまく埋め込みができないので、リンク先を参照してほしい。
 

https://twitter.com/rain_of_kisses/status/1637445631697629184

これは悪口なんですけど、山口県出身の庵野秀明の権力への無批判さ……という感情がある。

 先に挙げたシン・実写作品の政府機関への無邪気とさえ言える信頼を見返すと、これは同意せざるを得ない。

その他の欠点?

 その他、侵入がガバガバなショッカー幹部のアジトや、すさまじい腕力を誇るはずのライダーが這いずる遅さなど、気になる点はそれなりにあるが、全体の瑕疵というほどには不自然に思わなかった。
 さて「ゴジラ=災害」「禍威獣・外星人=未知のウィルス」だとして、「shocker」や「オーグメント(怪人)」は何を表すのか? 後で書く。

美点:キャスティング

 いいアクション映画は、鑑賞後にその所作を真似たくなるものだ。コマンドーを観ると背筋が伸びるし、燃えよドラゴンを観たあとは背中を丸めたくなる。エヴァンゲリオンを観ると猫背で敵にとびかかりたくなる。今回はラスボスであるイチロー=森山未來の所作が美しい。
 イチローは浜辺美波が演じるルリ子の兄で、shockerの最重要計画を推進している人物である。幼き日に母親を理不尽に喪ったイチローは、人類のすべての魂をハビタット世界に転送するという(エヴァンゲリオンの人類補完計画のような)計画を実行しようとしている。「補完後」の世界を垣間見たルリ子に「人の欲望がむき出しの地獄」と否定されているが。
 森山、池松壮亮、柄本佑によるバトルシーンはスーツアクターではなく本人たちの演技によるものが大半で、バトル後半はもつれあいになってしまうが、それでも森山未來の身のこなしには目を奪われた。
 可憐な浜辺美波、美しい西野七瀬、一文字隼人を演じる柄本佑の屈託のなさ、ヒゲの男たちの意外なキャスト。どれも大成功だ。エンドロールでは意外な俳優の名前が並んだ。ただし本郷猛が頭脳明晰・体力壮健ながらも「コミュ障」とキャラ付けされた意図は少し考えなけれなならない。

shocker幹部たちは何を表していたのか?

 幹部は、shocker創設者が開発したAIに救われた、かつて絶望を味わった人々だと示唆されている。このAIは人類全体の幸福を「最大多数の最大幸福」ではなく、「最も深く絶望している人を救済する」べきだという答えを出した。shockerはフラットな組織のようで、ルリ子、イチローの父親の緑川博士も含め、各幹部たちはそれぞれが考えた理想の実現をそれぞれに目指している。しかしそれらはいずれもディストピアになるとルリ子に指摘されている。
 クモオーグとK.Kオーグは裏切者の討伐をしているようだが(それだけ離反者もいるのだろう)、コウモリオーグはウィルスで人を意のままに操ろうとする。サソリオーグは毒で大量虐殺を意図していたようだ。ハチオーグは住民を意のままに操る街を作っていた。
 作品として前面に出ているテーマではないが、蝙蝠はコロナウィルスの初期の発生源と噂された。劇場のような場所で同じ動作をする同じ服装の人々を集めるコウモリオーグの目指す社会は共産主義を、働きバチが女王に奉仕し続けるハチオーグの目指す社会は資本主義を究極まで推進した戯画であるとも読み取れる。
 ではハビタット計画を推進するイチローが目指す社会は? 救済された子供たちが作ったコミュニティで、それを救済と信じてテロを引き起こすshockerとは?

 国家に代わる枠組みとしての宗教集団である。

 父親がshockerというコミュニティに帰依した姿を間近で見ていたイチロー、そのコミュニティの中で生まれたルリ子の兄妹は宗教2世を思わせる。
 一方、強大な力を得たコミュ障エリートの本郷猛は、これまでに新興宗教を背景にテロを実行してしまった人物たちの姿を連想させる。そして/しかし、彼も父親を理不尽に殺された被害者である。しかし/そして、自分の身を投じて、イチローの計画を崩壊させる。

 個人的には娯楽作品に現代社会の矛盾や理不尽を結び付けて論じることは好きではないが、そういう切り口で読み取ると感想が「賢そうに」見える。これも引用元を論じるというスタンスであることには変わりない。とりあえず「よくわからなかった」部分に説明がつくのでスッキリはする。

次回作への期待

 そういえばシン・エヴァンゲリオンではしつこいくらいに「村」の日常が描かれたが、シン・実写三部作では市井の人々の日常がほとんど描かれない。思いつくのはシン・ウルトラマンで衛星軌道上に浮かぶゼットンの下で人々が日常を送る姿くらいであるが、それは絶望との対比として描かれカットに過ぎない。

 映画監督でも小説家でも、1作ごとに個別の作品として認識される作家と、これまでの作品を全体として認識される作家がいる。

 次に作られる庵野秀明の作品にもわたしは期待しているが、以上に挙げた権力への無邪気な信頼という弱点や、市井の人々の日常という不足点を、次はどう描写するか、注目せざるを得ない。市井の人々の日常を「描かない」作品であればそれが瑕疵であるとは思わないが、庵野秀明監督がそれらに興味がないのであれば、やはり鑑賞のスタンスが今までとは変わることになる。

 さて、日常を象徴する食事すらしない本郷猛がいちばん人間らしい姿を見せたのは、サイクロン号の特攻シーンだと思う。目を閉じてサイクロン号に詫びていた。そういえばエヴァンゲリオンのアスカも改弐号機を、詫びながら自爆させていた。

 シン・仮面ライダーは仮面ライダーに捧げられた作品だと書いた。これは直感だけれど、庵野秀明監督はシン・仮面ライダーを制作しながら、爆発するサイクロンに詫びる本郷猛のような祈りの表情でいたのではないかと思うのだ。映画を作るということは、無限にある仮面ライダーの可能性の一つを封印するということだから。

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