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自分でつくれ

   1993年に大企業の撮影部に入社し、ひたすらアシスタントの日々を過ごしてしたが、2年目の途中からデジタルフォトのセクションに移りデジカメの撮影やデータ印刷の研究に従事する事ができた。

時代の流れにのってその進化は速く、デジカメの登場によってDTPが本当の意味で完成されていく。僕は撮影でもそれなりに成果をあげ、フォトグラファーとしても多少の自信を持ちかけていた。

当時の業務用デジタルカメラの技術というのは軍事衛星に使われていた撮像素子(CCD)と、既存のフィルムカメラとを合体させたもので、煽りコンピューターつきの巨大な4×5ビューカメラ(ジナーE)に空冷のフィンが刻まれたモノクロCCDの塊がくっついているというシロモノだ。その名をLeafDCB-1という。イスラエル製である。その姿はまるでメカゴジラのようだった。

制御用のケーブルが何本も何本も拡張ボードの飛び出たPC(PowerMac Quadra840AV)に繋がれていて、無骨なビジュアルとは裏腹にデリケートなマシンだった。これが僕のプロのキャリアにおける最初の愛機となった。

日本から本格的なデジタルカメラが登場するだいぶ前の話である。

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さて、

様々な研究と練習を繰り返し、技術とカメラは整った。しかし、だからといってやりたい仕事が転がってくる程社会とは都合のいい物ではない。 

通販カタログや印刷テスト用の画像撮影に飽き飽きしていた僕はある日同期の営業マンに

「なんかいい仕事ねーの?」と口走った。

基本的に自分のいる撮影部は営業が取ってきた仕事をこなすというスタイルで回っていたので、まあ、ついそういう事を当たり前のように思って言ってしまったのだが、
そこでその同期の営業マンはこう返してきた。

「あ、おまえ何言ってんの?バカか」
そして間髪入れずに

「自分でつくれ、」

言われてみて、ガーンと衝撃を受けた。つまり、必死になって勉強して技術を磨いたんならそれを武器に自分のやれる事を考えろと言うのだ。そして、

「企画書書いて持ってこい、そしたら俺が通して来てやる。」

と、。

大した事のない知識と技術に胡座をかいてバカな事を言った自分が恥ずかしくなった。よくぞ言ってくれた。

先述したように、デジタルカメラの運用研究に関しては後発の日本のメーカーより一歩抜け出した知識と実績があったので、それを武器にする。これしかない。

ちょうどその営業マンが担当しているカメラメーカーが自社初のプロ用デジタルカメラを出すという情報があった。そして、それをどうプロに使ってもらって浸透させて行くのかノウハウが欲しいと。

ここに需要と供給が合致する。僕の知識はまさにデジタルカメラをプロが運用する(印刷に適したデジタル写真データをちゃんと作るという意味)ための知識だ。そこで「プロ向けのデジタルカメラガイドブック」という企画書の制作に着手した。

それは自分がずっとプロとして撮影したいとおもっていたモデルやスチルライフ、風景などすべて盛り込んだ企画書だった。(勿論内容に則している)やりたい仕事は自分で作れ、というわけだ。

その企画書を握り締め、営業とディレクターと僕の3人で熱いプレゼンをカメラメーカーにぶつけた。だれにも真似できない、いまやるべき、最高のプロジェクトだと言い切った。  

そしてそれは受け入れられた。

企画、プレゼン、撮影、執筆とここまで多くの、しかも大きな役割をこなすのは初めてだ、でも少しづつ自分達の手でページが完成していくのが楽しかった。

モデルやスチルライフはベテランのスタイリストやヘアメイクを付けてもらい、ドキドキしながらも彼らとの撮影を楽しむ事ができた。

モデルはアジアンビューティーの大人っぽい女性をキャスティングし、クールなファッションポートレートに仕上げ、スチルライフはブルーのグラスをメインにしたイメージカットを撮影した。

風景はチームのみんなで沖縄の宮古島、東平安名崎の絶景をメインに1週間かけて撮影行脚を行なった。

それはもう、本気で撮りまくった。 

かなりの仕事量だったが最高に充実したプロジェクトになり、今までにないようなプロのフォトグラファーになった実感を強く感じることができた。 欲しかったものはこの感覚だったのかもしれない、強烈なプレッシャーは最高の勲章に感じた。

かくして、僕の写真満載のガイドブック108ページが完成し、プロ御用達のデジタルカメラの教科書となっていった。いくつかの言語に翻訳され海外でも出版され、また写真専門学校の教材にもなったと聞く。

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この仕事をきっかけに色々な仕事を指名で頂けるようになり、初めての海外ロケへ繋がって行く。これが僕のブレイクスルーの第一歩である。

仕事を創って行くのもクリエイターなのである。

その同期の営業とは普通に話していると周りからはケンカしているように見えるとよく言われた。そう見えるぐらいはっきり物を言いあえる有難い存在なのである。

そんな彼はいま多くの部下を抱えた管理職についている。新人の頃から強面で、上司より先にに名刺を渡されるのが悩みだった。
以前は、なんで南雲はあの人にタメ口きいてんの?とよく言われたが、

「そりや、同期だからさ」

そして僕に喝をいれてくれた、同じ時代に生まれた、盟友である。

「自分でつくれ」

同期のくれた厳しくも最高の言葉である。

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