「真夜中の襲撃」
突然首の後ろに衝撃を感じて、つんのめりそうな体をばたつく足で必死に支えた。
「げっ、生きてたんだ」
振り返ると上下水色のスウェットを着た彼女が、驚いた表情で立ち尽くしていた。
「ごめん、こんな夜中にあまりにも精気なくぼんやり歩いてるもんだから、お化けだと思ってラリアットしちゃった」
「いや、もしお化けでもラリアットはしちゃ駄目ですよ」
彼女は小走りでこちらに駆け寄って来ると僕の顔の前で両手を合わせ、もう一度ごめんと謝った。肩にかかる彼女の髪は風呂上がりのようで少し濡れていて、僕は恥ずかしくなり目を逸らした。
「ねぇ、夜中にこの道を歩いてるってことはさ、もしかしてコンビニに行く途中だった」
「ええ、そうですよ」
「やっぱりそうだ、じゃあ一緒に行かない?」
彼女は僕の顔を覗き込むと警戒心のない笑顔を見せた。その生き生きとした表情は僕の胸に鈍い痛みを与え、自分のみすぼらしさを浮き彫りにされている気がした。
「こんな夜道に私一人で、後ろから変質者に襲われたら大変でしょ」
「僕が後ろからあなたに襲われたんですよ」
笑いながら僕を追い越して彼女は歩き、僕は仕方なくその後を付いて歩いた。特に会話をすることはなかったが、夜風に乗って流れる彼女の鼻歌を聴きながら歩く道は、いつもより心地よくて優しかった。
コンビニの前まで来ると、彼女はふいに歩道のガードレールに腰掛けた。
「あれ、行かないんですか?」
「私は恥ずかしいからここで待ってる。あなたが行ってきてよ」
「店員に好きな人でもいるんですか?」
「すっぴんなのよ!なんかさっきまで暗がりだったのに、いきなり煌々とした明かりの下に素顔を晒すみたいで嫌なのよ」
さっき初めて会った人にそれ以上何か意見する気にもなれず僕は自分の缶コーヒーと煙草、それと彼女に頼まれた温かいミルクティーを買った。店から出た僕を彼女は笑顔で迎え、途中にあった公園のベンチで一緒に飲もうとまた笑った。
「まるで今のあなたみたいね」
ベンチで僕が吸う煙草の、ゆらゆらと頼りなく上がる煙を見ながら彼女は言った。
「そんなに僕が不安定に見えますか?」
「ええ、とっても危うく見えるわよ。こんな機会無いんだし私に話してみたら?」
どんな機会だよと思ったけど、確かにこんなにも繋がりがなく、何処までも続いていくような夜はない気がした。
「よく分からないんだ。原因なんて一つもないようにも思えるし、全てが原因な気もする。苦しいこととか、悲しいこととか、悔しいこととか、普通の人はどうやって処理して生きてるんだろう。
体に流れ込んできた色んな感情を濾過したりはね除けたり、そうやって浄化して血肉に変えているのかな。
俺にはそれが出来ないんだよ。もちろん未だに恨んでて許せない奴がいるとかそんな話しじゃないよ。ただどす黒い何かがずっと腹の中に溜まり続けていくんだ。自分が思っていたより、こんなにも自分は醜くて卑しい存在なのかって怖くなる」
目の端で彼女の表情を伺うと、そっと波の音に耳を傾けているように目を閉じていた。
「好きな人がいた。今まで生きて来て初めて人を好きだと思ったよ。二人で過ごした時間は短くて、その人には大切にしている家族もいたけど、それでも、そんなことはどうでも良かった。
俺はその人を奪ったり自分のものにしたい訳じゃなくて、ただ側に居て欲しかっただけだから。だからどんなに苦しくても、その人の幸せだけを願わなければ、俺が側にいる資格はないと思ってたんだ。
ある日二人でいる時にさ、その人が何処か遠くを見ているような気がした。ここに居ないみたいだねって言ったら、その人は何も言わずに一筋だけ涙を流した。もう限界なんだと悟ったよ。
その人の方が俺なんかより何倍も苦しかったんだってその時気付いた。だって俺はただその人を愛していれば良かっただけだから。
その人は俺の為に全力で苦しんでくれた。それだけでもう充分に幸せだと思えたよ。最後に、俺の分までちゃんと幸せになって下さいと伝えた。
それからしばらくして、その人が旦那と腕を組んでる姿を見かけたんだ。吐きそうになったよ。その人の幸せそうな笑顔を見て俺は一瞬、裏切られたと思ったんだ。
幸せを望んでるなんて言っておきながら、全力で幸せになろうとするその姿を目の当たりにして俺は疑ったんだ。もしかして俺との日々は、あの人にとってただの快楽だったんじゃないかって。
醜すぎて笑えるだろう。もうこれ以上、自分に失望するのも、醜い自分に気づかされるのも嫌なんだよ」
隣を向くと、彼女は優しい眼差しで僕を見ていた。
「大丈夫。それでも生きてていいんだよ。
死ぬのは簡単だよ、そしてとってもあっけないの。あなたが本当に絶望しているならもうとっくに死んでる。あなたはそんなものを望んでなくて、ただ分からなくなってるだけ。
あなたが自分に失望するのは、誰よりも正しくいたいと願ってるからだよ。
あなたが自分を醜いと思うのは、誰よりも大切な人を愛してるからだよ。
だったらもう、最後まで生き抜くって決めた方が楽なんだから。何もかもに折り合いをつけた平坦な世界より、あなたと、あなたが生きるこの地獄の方がよっぽど色鮮やかで美しい」
そう言って彼女が僕を抱きしめると、自然と涙がこぼれた。途方もない安らぎに包まれていく感覚の中で、彼女の体がゆっくりと透けていくのが分かった。
「あら、もう時間切れか。今夜のあなたは凄くこちら側に近かったから、こうして二人で居ることが出来たのに。お別れするのは少し寂しいけど、それはあなたがもう大丈夫ってことだもんね。
あなたと私の間には、あなたが私に話してくれた人ほどの強い繋がりはないけれど、それでもあなたは、私の分までちゃんと幸せになって下さい」
そう言って笑った彼女の姿は、光の粒子になって夜空に消えてしまった。
帰りに彼女と出会った道を通ると、近くで花が添えられてるのを見つけた。
明日の朝一番で、もっと生き生きとした彼女にぴったりな花を探しに行こうと誓った。