エッセイ 「サンタクロース」
僕らはいつまでサンタクロースの存在を信じていただろうか。
枕元にプレゼントをそっと置く母親の姿を薄目で目撃してしまったり、全く自分の願いとは異なるプレゼントを枕元で見つけてしまったり、何かのきっかけでサンタの存在を否定するようになった人もいるだろう。
僕の両親はサンタ関連の動きに抜かりのないタイプで、そういった凡ミスをすることなく純粋にサンタを信じながら育った。それでもいつの間にかサンタではなく、母親にクリスマスプレゼントをせがむようになっていった。
サンタがいないと気付いたのは小学2〜3年の頃だったが、その瞬間、僕はあまりショックを受けなかった。
どちらかと言えば「その方が話が早くてええやん」と思った。わざわざどんなプレゼントが欲しいかを母親に伝え、ちゃんと把握しきれていないままの母親を介して、さらにサンタという高齢のおじいさんに伝えるというシステムが子供ながらに信用できなかった。
世界中の子供達にプレゼントを配るなんてサンタクロースといえど不可能じゃないのか、必ず世界にはその抽選から漏れる子供が存在して、サンタの優先順位を上げる為には、自分の口でプレゼントに対する熱量を直接サンタにぶつける必要があるのではないか?
そう考えていた子供の僕は、枕元のプレゼントを確認するその瞬間まで不安で不安でしょうがなかった。
だからサンタが存在せず、クリスマスには無条件で親からプレゼントを買ってもらえると分かった瞬間、僕は繋がれていた鎖から解き放たれたような気分だった。
自分が祝福される理由など一つもないクリスマスという日に、サンタクロースという存在がいるからプレゼントを貰える。この絶対的な原理、法則が根底から覆ったのだ。
だって、サンタがいようがいまいがプレゼントは貰えるんだもん。だったら得体の知れないおじいさんから貰うより、母親と一緒にデパートで好きな物を買って貰った方がいいに決まってる。こっちはプレゼントが貰いたいだけなんだから。それなら変な気を使わないで最初からそう言ってくれれば良かったのに。
そんな僕が中学生になった頃だった。
サッカー部に入り、一年ながら上級生の厳しい練習に参加していた僕と友人は、練習前の部室で憂鬱な時間を過ごしていた。すると隣で同じ一年の三人が何やら大声で騒ぎ始めた。
「え〜お前まだサンタクロースなんか信じてるの〜!」
「おるわけないやん、恥ず〜!」
「信じてないわ!冗談に決まってるやろ!」
僕ら二人はその会話を聞きながら「お気楽な一年坊が静かにせえや」と同じ一年の部員に対して思っていた。
僕らにとってクリスマスなど、もはや地獄のような練習の日々の底に沈殿した泥のかたまりでしかなかった。そのうち馬鹿にしていた二人が先に部室を出て行き、残った一人が虚ろな顔をした僕らに近づいてきた。
「あいつらアホやなぁ、信じてないとプレゼント貰われへんのにな」
僕らにそれだけ言い残し、もう1人の部員は部室を出てグラウンドに走って行った。
僕ら二人は馬鹿にすることも笑うこともなく、ただ二人で見つめ合ったまま動けなかった。
人生で初めて自分の中から何かが損なわれていると感じた。忘却の日々の中で、僕らはサンタクロース以外の何かを忘れ、信じることをやめてしまっていた。地獄の練習の先に全国を見据えているのか?走っているのではなく、いつの間にか走らされてはいないか?サッカーは好きか?そんな感情が頭ではなく胸の辺りで渦巻いた。それはサッカーが上手くなるきっかけになった。
人間なんていつでも、いくらでも賢くなれるんだから、できるだけ馬鹿でいれた方がいい気がする。中学生になっても、大人になっても、ずっとサンタクロースを信じている馬鹿者にしか、世界は変えられない時があるのだから。