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「預言者」


 淀川は琵琶湖から流れ出る唯一の河川であり、最終的には大阪湾まで流れ込む。
 その淀川にはいくつもの大きな橋が架かっていて、その一つの橋の下に広がる河川敷で男は生活をしている。

 乱れた白髪は肩口まで伸び、元は白かっただろう黄ばんだTシャツと、サイドに白い三本ラインの入った真っ赤なオールドアディダスのジャージスタイルという男は、何故かいつもサングラスをかけ、誰かがバーベキューで使っていただろうボロボロの折りたたみイスに腰掛け頭上の空を眺めている。
 男がサングラスを外した姿は誰も見たことがない。河川敷で遊ぶ子供達からは、サングラスの下に両目は無く、ただ真っ黒な穴が二つ空いていて、更にその空間は無限に広がり、夜の河川敷で男と出くわすとその空間に吸い込まれて帰って来れないと噂されていた。
 河川敷では大阪府の整備計画に伴い、行政による野外生活者の強制退去が進められている。遊歩道やバーベキュー場を開設し家族の憩いの場として生まれ変わるのだ。

 私は府の職員として男の説得に向かわねばならなかった。
 橋の下にある男の寝ぐらに到着したが、男は私の挨拶にも問い掛けにも反応せず、ただイスに腰掛け空を眺めている。10分程経っただろうか、男は突然背もたれから体を起こし、空を指差しながら口を開いた。

「・・あの全身黒ずくめで・・背中に大きな翼を持つ悪魔の姿が見えるか・・」

 鴉を指さす男の声は低く、酷くしゃがれている。

「・・・わしは昔東京に住んでたんや、そこにおるんは今飛んでる鴉の3倍の大きさはある。そらもう人間が生活する環境に生息してはあかん大きさよ。あれはの、生きた獲物を捕らえることを生業とした捕食者の姿ですよ!」

 男は興奮しているせいで、語尾が敬語になっていた。

「鋭い嘴に獰猛な爪、そしてなんの感情も持たへん冷たい目・・・おい、あいつらの好物が何か分かるか」

 男はゆっくりとサングラスを外した。

「それは人間の目ん玉ですよ!」

 男の眼球は酷く濁っていたが、ちゃんと両方存在していた。

「ええぞ、あいつらが襲ってきた時の対処法を教えといたる。
 まず最初にあいつらは目ん玉を狙ってくる、ほんなら左腕で自分の目をガードするんや。ただし奴らの嘴は人間の左腕なんて簡単に貫通してまうやろ。けど勝負はこっからや、貫通された直後左腕にグッと力を入れる、奴らの嘴が抜けなへんようにな。
 ほんなら今度はその獰猛な爪で左腕を八つ裂きにしてくるやろう。1回、2回、3回、左腕は痛みを通り越して感覚すらない状態や。気づいたか…せや、左腕は襲われた時点で捨てる覚悟や」

 男は次に大きく右手を振り上げる。

「ほんで残ったこの右腕で、今度は鴉の頭めがけて全身全霊の一撃をたたき込むんや!!左利き場合はこれを逆にして下さいねぇ〜」

 男は興奮しながら最後は一気に喋り切った。

「ほんまに鴉がそんなに危険な存在か?
 今はまだ大丈夫やろう。けどこの先、必ず鴉が支配する世界がやってくる。鴉は頭がええ、チンパンジーと同等の知能を持っとるんや。ほな元々自然界で生活する鴉が何でわざわざ人間社会に入り込んで来たと思う」

 男は黄ばんだ歯を見せ笑う。

「苦労せずに栄養価の高い食料が手に入る事がわかっとるんや、勿論そこにリスクがある事も分かっとる。
 けどあいつらはちゃんと頭の中でそのリスクとリターンを天秤にかけて選択してる。人間が自分達にとってそこまで危険な存在やないと認識しとるんや。
 追い込まれたり、必要に迫られたんやない。あいつらは自らの意志で人間との境界を無くしたんよ。この一線を越えたという点において、鴉は熊よりも人間にとって恐ろしい存在なんや」

 男の発する言葉は、まるで真実を話しているかのような熱を帯びている。

「勿論人間もただ手をこまねいてる訳やない。
 鴉よけのネットや蓋の付いたゴミ箱、捕獲や駆除も実施されとる。確かにそれで鴉の全体数は減ったやろな、けど鴉の中でもより頭のいい奴だけが残ってもうた。
 ほんでそいつらは人間の講じた対策を破って餌を手に入れ続ける。残された精鋭だけが豊富な餌を手に入れ、その体を大きくしていくんや。そんな賢い鴉達の間にまた優秀な雛が産まれる。人間社会で産まれた雛は必然的に人間の存在を想定した進化の道を進むようになる。
 分かるか?これからも人間と鴉のいたちごっこが続いていくやろ。けどその結果、最後には空を覆うほど大きな翼を持ち、異常な知能を備えた『karasu』ちゅう恐ろしい化け物を産み出すことになるんや」

 男の言葉に呼応するように、頭上で激しく鴉が鳴いている。
 男はカップ日本酒を掴み蓋を開けようとして、指を止めた。

「いや、ちゃうか…ほんまに恐ろしいんは、あんなにもおびただしい数の鴉が集まる程、毎日大量のゴミを吐き出し続ける人間の方か…その上、平気で嘘もつくからのぉ」

 言葉を吐き捨てると、ワンカップの蓋に掛かった指を跳ね上げ、男は中身を一気に喉に流し込んだ。

 それから40年が経ち、淀川の河川敷は整備され、無論そこに男の姿はない。ただその言葉だけは、まるで男が予言者だったかのように未来を的中させている。

 分厚く灰色に澱みきった雲が多い尽くすこの空には、もはや一匹の鴉の姿も見つけることは出来ない。



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