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【SF小説】塵灰のリハイブ1『姿なき復讐者』第四十六話〈十三日目⑩〉

 小石の落ちる音がして、課長は辺りを眺め渡した。瀝青れきせいの濃度は落ち着いた。彼女の靴音だけが響く。天井に空いた穴の真下に立って見上げると、戦闘の激しさを物語る無数の傷跡が、五階までずっと続いている。エリミネータの圧倒的な力を思い出し、悲痛な顔で俯いた。

(私じゃどうすることもできない。義兄にいさん、本当になんとかできるんでしょうね。できないにしても。死んだりしないわよね)

 元いた場所から物音がした。ため息を一つ吐いて、ゆったりした足取りで歩み寄る。逢坂氏が小さく声を漏らして、目を開いた。上体を起こしながら、

「アンタは」
「砂上」

 冷たい声で答える。逢坂氏は慣れたもので意に介さず、辺りを見渡す。

「先生と、あの異人は」
「デカいのを追っていったわ。アンタの面倒を私に押し付けてね」

 向こうで大きな口を開ける壁を見つめる。逢坂氏も倣った。項垂うなだれて、

「そうか」
「とにかく脱出しましょう」課長は一人歩き始める。「道案内をなさい。私が瀝青れきせいの濃度を探って判断する。安全なところまで連れて行くわ」

 逢坂氏が顔を上げ、

「待ってくれ」
「は」

 振り向いた課長の目を、真っ直ぐに見つめる。

「俺に考えがある」

 クローバーを取り込んだエリミネータの挙動、逢坂氏もまた巨人がどこに向かっているのかを察していた。逢坂氏は、彼にしかできない、エリミネータの打倒方法を提案した。聞き終えて、課長は彼の眼差しに答えた。

「その話、乗ったわ」

 鉄筋が突き刺さった衝撃のままに、私は背中から倒れた。突き出した鉄筋が杖のように地面を突き、体がずるずると滑っていく。血溜まりに落ちて、粘着質な水音を立てた。呻き声を上げながら横向きになる。

けい

 ウェールスが茫然とした様子で名前を呼んだ。ふらふらと近づき、私の顔を見下ろす。目には光が無く、ぼんやりと開いた口からは酸素を豊富に含んだ鮮血が泉のように流れ出ている。とくとくと規則的な拍子リズムがあった。それが心臓の拍動だと分かって、彼女の体は震え始め、目を離せなくなった。

 この拍子は心臓が全身に血液を行き渡らせ、酸素を送り届けようとしている証拠、生命それ自体の生きようとする力だ。その力が、今、全力で血液を体外に排出している。生命の生きようとする機能が、反転し、死に直走っている。非言語的で力強い、生命の死への根源的な積極性を知ってしまった。ウェールスは、凍えた。

けい

 泣き叫んで駆け寄り、私の前に膝を突くと、水溜りの水を散らすように、あるいは獣が土を掘るように、血溜まりの血を後ろに掻き出し始めた。全身を血に濡らし、指先が切れることもお構いなしにびしゃびしゃと音を立てる。

(こんなに口から血を流してたら窒息してしまう)

 彼女の頭はそのような意見で占められた。それを避けようと、泣きじゃくり、嗚咽を漏らしながら、傍目には児戯にしか見えない動作を、一心不乱に繰り返す。

「何をしているんだ」消え入りそうな声で尋ねる。
「へっ」ウェールスが間の抜けた声を出して顔を上げた。「けい

 体を起こし、鉄筋を引き抜く。それに刻まれた節が肋骨を削る、凄まじい痛みに意識が遠のく。なけなしの覚醒能力が麻酔と回復を必死に行う。

「ちょっと」ウェールスが狼狽える。

 くぐもった呻き声を吐き出して、鉄筋を力無く横に投げ捨てた。金属音が辺りに冷たく響いた。強い目眩と鉄っぽい臭いのする冷たさを全身から感じる。

「大丈夫」

 ウェールスが両腕を彷徨わせながら言った。私は笑顔を作って、

「どうやら、思っていた以上に私は優れた覚醒者らしい」

 と言っても、僅かの時間の猶予を得ただけだ。相釈化腕そうしゃくかわんによる消耗で今の私の能力はあるか無いか分からない水準まで低下している。私はもうすぐ死ぬ。その前に。軋む首を左右に動かし、

「君は周りが見えていないのか」

 私に言われて周りを見渡し、驚く。

「いつからこんなことに」

 床から壁、天井に至るまで深々とひび割れており、それらの破片が落ちる音が響いている。と、大きく揺れた。感知能力を働かせ、瀝青れきせいの濃度分布を探る。

「エリミネータが地上に出ようとしているらしい」
「えっ」ぽかんとした顔でぴたりと停止して少し、わっと顔を開いて、「ああっ」
「君、今の今まで何しにここに来たのか忘れていただろう」
「うん」辛そうに笑って、「すっかり忘れてたよ」

 泣き腫らした目を拭おうと手を伸ばす。

「馬鹿」

 重い腕を伸ばしてそれを制する。彼女の手を取り、手のひらを見る。改めて血塗れの全身を眺め見た。

「感染症に気をつけるんだ」

 ビットがあるとは言え、病気が完全に過去のものになったわけではない。

「ごめん。ありがとう」と言ってはっとする。呆れ顔をして、「死のうとしたヤツに説教される筋合い無いよ」

 拗ねたようにやり返される。そう来られては返す言葉は無かった。

「ごもっとも」苦笑いをして、「急ごう」

 立ちあがろうとする私を慌ててウェールスが制する。

「何やってるの。動いちゃダメだよ」
「ここは崩れる」
「分かるけど、死んでしまうよ」
「だったら君は私を置き去りにして行けるのか」
「そんなこと」俯いて声を絞り出す。「できるわけないよ」

 私は微笑みかけて、

「だからだよ」左手を彼女に差し出し、「すまない。肩を貸してくれ」

 彼女は黙って頷いた。立ち上がった瞬間、視界が真っ暗になった。足が滑って水音を立てる。

けい

 すぐ傍にいるはずのウェールスの悲鳴が遠くで聞こえる。

「大丈夫だ。音は聞こえる。感覚はある」顔を上げる。「行こう」

 左をウェールスに支えてもらい、右手を壁に突く。歩いているのか、引き摺っているのかも分からぬまま、前に進んでいく。視界は、戻らない。血液が致命的に足りない。心臓がすっかり弱って、足から血が返ってこない。それでも着実に足を前に振り出せるのは、新時代の技術の賜物だ。遂に重力に挫折した心臓が、気でも狂ったのか笑い出し、支離滅裂に踊り出した。

「何が、そんなに可笑しいんだ」

 胸に去来する軽蔑のまにまに呟く。

けい、大丈夫」

 ウェールスの声が、あまりに優しく心地良く聞こえて、奇妙になる。

「ああ」

 歩いて、歩いて、歩いて、

「もうすぐ出られるはずだ」

 言ったその時、壁に突いた右手が滑った。背中を壁につけ、ずるずると座り込む。

「すまない」

 謝ってウェールスの声が聞こえないことに気づいた。それどころか気配すらない。いつの間にか私の意識は飛び飛びになっていて、その欠落のところで彼女は一人先に行ったのかもしれない。あるいは。もしかすると今も近くにいて、ただ、私がもうそれが分からない状態になったのかもしれない。前者ならば良い、後者ならば言わねばならないことがあった。

「私はここまでみたいだ。ウェールス、聞こえているなら。頼まれてくれ。どうか三好さんを助けてくれ。それと、できるなら。君は生きていてくれ。君には幸せでいて欲しい。どういうわけか、そう思うんだ」

 笑って、壁に頭を預けた。違和感があった。いや、頭だけでなく、背中にも、投げ出した脚にも、地面についた手のひらにもそれがあった。手のひらを退けてそこを見た。白い花が咲いていた。そうと気づくと途端に、ばっと辺り一面に、床に、壁に、天井に、同じ花が咲いていた。敷き詰めたように咲いていた。地下シェルターだったはずの場所は、いつしか展開図のように開放されて、どこまでも広がっていた。ふいに風が吹いた。白い花弁が一斉に、静かに揺れた。その音が、花の名を私に知らせた。

待雪草スノードロップ。どうりで」

 可笑しくて、そっと笑った。

 実のところ、私は何も言っていなかった。むしろ、ウェールスの方が頻繁に声をかけてくれていた。何を聞いても「ああ」としか答えず、やがて、それすらも言わなくなった私を、泣きながら支えて歩き続けていた。遂に力尽き、崩れ落ちた私を彼女はただ見つめていた。確かに、私たちはそれなりの距離を歩いていた。しかし、まだ地下シェルター街の通路にいる。周囲の状態も変わっていない。亀裂の入ったそこかしこから破片が落ちる。壁面が剥がれて倒れ、大きな音を立てる。それがすぐ近くで起こっているにもかかわらず、ウェールスは、ただ、私を見つめていた。

 と、彼女の首に巻いた追加装備を伝って通信が入った。

――ルーチェ、聞こえるか。ルーチェ。

 頭に響くのはジャヌアリィの声だ。

「なに」

 ウェールスが気のない返事を返す。薄っすらと冷たい笑いが含まれていた。

――情報剤が間に合った。

 その言葉で、彼女は怒りという感情を思い出す。

「何も、間に合ってないんだよ」

 拳を握り締め、叫んだ。


これは架空の物語です。
実在の人物・団体・事件等とは一切関係ありません。

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