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グローバリズム〜人間と空間2

 アフリカを出たときから、ヒトは拡散する生き物だった。拡散するだけでなく、交流する生き物でもあった。太平洋の島々に拡散しつつ、島々をめぐる交易圏をつくってきた。ヒトはずっと、グローバルな生き物だったといっていい。二本の足で歩き、船をつくり、馬やラクダを飼い慣らし、やがて車や飛行機をつくって、ヒトは移動し、交流する。
 歴史、というと、どうしても文字を残した人びとの視点が中心となるが、王や国家が常にすべての人びとを把握していたわけではない。戸籍をつくり税を課す、という制度の及ばないところで、人びとはやはり移動し続けていた。かなりの精度でがっちりと捕捉されて、人びとや財産の移動が「不法」と見なされるようになったのは、人類史全体から見れば、ほんの最近のことだ。グローバルの対はローカルであって、ナショナルではない。ナショナルは、「一時代を画したあり方」に違いないが、ローカルのグローバルな交流の全体像からみたら、むしろそちらのほうが特殊なのだ。

グローバル化に賛成しますか?

 選択肢は4つ。賛成、反対、中立、懐疑。最初の2つは論外。問題を単純化しすぎて、不毛な水掛け論の温床となるからだ。
 文頭のような世界観からすれば、私の感覚に近いのは「懐疑」だろうか?「そもそもグローバル化はかつてから存在したものであって、必ずしも現代社会の特徴ではないとして、現代社会をグローバル化の時代だと捉えること自体を疑う」ことだと定義されている。疑うのはいいが、その先がない。ある種の思考停止だ。
 では「中立」を選ぶとどうなるだろう。「交通機関や情報化の進展によって、これまでの狭い国民国家の枠が取り払われ、人や物などの交流が進展するのは歴史必然的な事態であり、賛否以前の客観的な変化である」。「客観的な変化」なら放置でいいのか。これも「懐疑」同様の思考停止に見える。

考えるのをやめない

 世は「結論」の花盛りである。複雑なことをいえば、「だから結局ナニ」と詰められる。が、幸か不幸か、世界はそんなに単純ではない。排他的ナショナルから、互助的インターナショナルを経て、再びグローバルが台頭する現代にあって、グローバル化が「よいことづくめ」でないのは確かだが、だからといって、それを「取りやめる」なんてできることではない。どこがよくて、なにが悪くて、それぞれにどう対処していくのか。短期的にできること、長期的に考えるべきこと。「あちら立てればこちら立たず」にどうバランスを取っていくか。旗幟鮮明にして思考停止している場合ではない。

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