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不安耐性 〜人間と空間15

 大きな公園の入り口にあるカフェにいたときのことだ。通りを挟んで小さな塾があった。そこに数人の小学生がやってきた。塾の入り口で、元気そうな少年Aが、おとなしそうな少年Bのランドセルに手を掛けた。いじめ? と思うまもなく、AはBのランドセルになにかを放りこんだ。続いて少年CとDも同じことをした。私は最後の少年の手の中にキッズ携帯を見た。三人は、道を渡って公園に走っていった。Bは塾に入った。
 三人は、歓声を上げながら、公園の広い芝生をただグルグルと走り回っていた。学校帰りのランドセルにゲーム機が入っているわけもなく、ランドセルをどこかに放り投げることもできないまま、けれど、彼らはひたすら楽しそうに走っていた。
 そんなことしたって、塾から確認の電話が行ったら終わりだろうに、と思ったが、もしかすると塾側も、親に電話を掛けるというめんどうを、塾の入り口に追跡トリガーを置くことで回避しているのかもしれない。彼らが塾に来たか、塾を出たか、それはひたすら、キッズ携帯の追跡機能に委ねられているのかもしれない。

 「昔は」というのを、何とかして控えたいと思ってはいるのだが、やはり思わずにいられない。昔から子育ては不安だらけだ。子どもは今日も無事帰ってくるだろうか。事故や事件に巻き込まれていないだろうか。だからといって、どうすることもできない。親はただ不安を抱えたまま、それを飼い慣らす。子どもが帰ってくればうれしく、そのくせその喜びを隠して「宿題もしないでこんな遅くまで遊んで」と叱ったりした。文明の利器は、そういう不安を解消しただろうか。今の親子は、「昔」の親子より、心穏やかに暮らしているだろうか。それならばいい。でも、私には、彼らが心穏やかにはみえない。むしろ、もっと不安そうにみえる。不安耐性が下がったようにみえる。そのせいで、昔なら大して問題にならなかったようなことまで、親の不安をかき立てる。そして親の不安は子どもに感染する。

 人間が品性を保つ上でもっとも難しいのは、できることをしないでいることだ、と、どこかで読んだ。今、親は子どもを追跡することができる。できることはする。もしそれをせずに何かあったら、十全を尽くさなかったといって、親は責められるだろう。だから、追跡をがまんしろ、それが親の品性だ、とは、さすがに言わない。だが、文明の利器が自身の不安耐性を下げているという自覚だけは、失わないほうがいい。なにかを不安に感じたとき、何もかにも利器に頼ろうとせず、立ち止まって向かい合ったほうがいい。

 子どもの安全だけではない。パートナーを追跡している人もいるだろう。いずれにせよ、それらは個人が個人を追跡しているのであって、不特定多数のカメラが不特定多数の人や車を記録している監視カメラとは働きが違う。もちろん監視カメラのデータは、そこから何かを追尾するために使うことができる。けれど、常に何もかもを追尾してるわけではない。監視社会が不安なら、データの運用者とその運用方法を、きちんと見守るべきだろう。

 と同時に、子どもやパートナーを追跡する利器は、どこかでだれかが子どもやパートナーを追跡するのにも使えるということを、忘れないほうがよい。自分は追跡することで不安をやわらげたいが、自分は追跡されたくない、という矛盾にも向き合わなければならない。

 できることはせずにいられない私たちは、せめて自分が今何をしているのか、それが自分の意図しないなにかをもたらすリスクはあるか、そのリクスをとっても、その行動に価値があるか、常に考えつつ、解決のつかない不安に晒されても、怯えず耐える力を、保ち、鍛えていきたいと思う。 


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