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言語の呪縛

 2000年代、AIといえばチェス、将棋、そして囲碁だった。人間は機械に負けてしまったのか、という落胆は、たぶん、ほんの一瞬だった。別に聴衆は機械同士の戦いを見たいわけではなく、むしろ、「機械と切磋琢磨した人間同士」の対戦が、ますます人びとを魅了した。競技者たちに、「この機械は人間のように考えていない」などと言っている暇はなかった。人がまだ見たことのない手、なんでそうするのが良いのかまったく理解できない指し筋をどんどん受け入れていった。メディアはメディアで、人間だけでなくAIを解説陣に加えることで、聴衆の期待に応えた。AIの開発者自身が、AIがなぜその手を良しとするのか「さっぱりわかりません」といっていて、それがそれで、むしろ価値となった。

 2023年、自然言語を操る各種AIが現れたときの、人びとの反応は違っていた。まず、「AIに仕事を奪われる」という不安が蔓延した。実際、クリエーターが規制を求めるなどの拒否反応が現れた。一方で、「AIはまだこれができない」という指摘も相次いだ。AIが実は東大の入試問題が苦手だとか、画像に適切なキャプションがつけられないとか、会話が不自然だとか。

 囲碁・将棋は勝負だった。AIが勝つのはだれの目にも明らかだった。だから棋士も聴衆も、それを前提としてまるごと受け止めた。人間のように考えていない、ことこそが、AIの価値だった。ところが、自然言語を扱うAIに対して、人は過剰に「人間のように考える」ことを求めているように見える。AIが人間と違うことを言い出したとき、「どういう思考回路でそうなるんだろう?」「そこんところがまったくわからないんですよねえ」「でもこの考え方に可能性があるかもしれないから、ちょっと見習ってみるか」とならないのはなぜだろう。

 これは「言葉」の呪縛なのかもしれない。なまじ言葉を操ることで、人はAIが「計算して答えを出す」機械であることを見失っているのではないだろうか。

 絵画も、写真も、そこにあるものやないものを言語化する以外の鑑賞法があるはずだし、もちろん、画家も写真家も、「これとこれとこれを描こう」という言語化の上で作品をつくっているわけではないはずだが、なまじAIが言語をそれなりに扱うものだから、「美」といった扱いにくい価値ではなく、画像を言語で分析する、あるいは言語を理解して画像化する、といった方向に興味が流れてしまうのだろう。

 なんのプロンプトもなく、ただ「本人」が望んだように絵を描き、それを純然と絵画そのものとして評価する日がきたら、おもしろいと思う。

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