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自己紹介【My name is,,,】
みなさま、こんばんは
昨日、note初投稿をさせてもらいました
ふたつの名を持つ愛実(Aimi/Aesil)です
どこの馬の骨かわからない私の、自己満文を
クリックしてくださり、お目通しいただいた
お優しいみなさまには、感謝しかありません
本当にありがとうございます
noteのアルコリズムの仕組みが
一体どのようになっているのか、
他SNSのアルコリズムの仕組みさえ
知る由もない私にわかるはずもないのですが、
不思議なご縁をいただきnoteの先輩方8名から
スキをいただけて、嬉しく、心満たされました
残る1のスキは自分で押しました※早めの白状
スキをくださったみなさまの投稿も一部拝読
させてもらいましたが本当にみなさまそれぞれ
多才でいらして、とても勉強になりました
私も、10数年前に大学で学んだことや
これまでの職業柄、文章を書くことは
苦でないタイプでして、投稿するSNS構文も
面白い!と友人らから褒めてもらえることが
多くあり、いつかライターとして何か発信を
していけるツールと出会えればいいなとは
ぼんやりと考えていました
去年、高校時代の親友やフリーランス仲間から
立て続けにnoteの存在を聞く機会に恵まれました
このご縁により、2025年1月11日を皮切りに
ようやく第1歩を踏み出すことが叶いました
不思議なアルコリズムにより
お目を留めていただけた
みなさまにも、この人の文章面白い!
と思っていただけるような、そして何より
背伸びしない等身大の投稿をしていきたいと
思っております
昨日今日の短時間でフォローのほうまで
してくださったかたもいらっしゃるので
本日は、自己紹介をさせてもらいます
私の生い立ち
昨日もチラリと触れましたが、私は
在日コリアン(日本生まれの韓国籍)
というバックグラウンドを持ち
35年前に5人兄弟姉妹の末っ子として
この日本で生を授かりました
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私の母と父は、在日コリアン2世同士で
キリスト教の教会で出会い結ばれました
①平成の時代には珍しい5人兄弟
②日本生まれ大阪育ちなのに韓国人
③日本では珍しいクリスチャンホーム
というハットトリックの家に生まれたことは
思春期を迎えた頃から私を苦しめました
※大人になってからの話ですが
哲学者の叔父に【ハットトリック】の
ワードセンス、かなり面白い!と
褒めてもらいました
通常なら「三重苦」と表現するそう
私の祖父母たちの世代にあたる「1世」
と呼ばれる人たちは、終戦後の日本に
(理由は様々ですが)出稼ぎのような形で
渡ってきました
日本による植民地支配を受けた経験のある
1世の世代のひとたちは、異国の地でもまた
大なり小なり虐げられる経験をしたため
自分の子どもたちには(日本人への嫌悪感から)
同胞(韓国にルーツある人)と結婚して欲しいと
多くの1世たちが切に願ったそうです
※このことも、大人になってから
私の親世代にあたる、「2世」のかたがたから
よく聞くことになります
私の母も、日本人の男性と恋に落ちて
結婚しようとしたこともあったそうですが
祖母に猛反対をされて、破談になったとか
※母の口からでなく、哲学者の叔父から
つい最近聞いた話
祖父祖母世代の偏った固定観念
(日本人と結婚すべきでない)
のおかげで、私はこの世に
生を授かったわけですが…
私の母が、かつて愛した人と
【運命の悪戯】か、【宿命】か
結ばれなかったことに関しては
それなりに複雑な想いも沸いてくるのです
だって、国籍や人種が障壁となり愛した人と
結ばれない人生って悲しいなと感じるから…
そして私の世代では私の世代の「障壁」があり、
見た目も話す言葉も日本人と何ら変わりないのに
なぜが自分にだけは、韓国にルーツがあるという
宙ぶらりんの自身のアイデンティティについて
思春期に悶々と悩むことになりました
その反動で非行(軽めのやつ)に走るわけでして
中1から髪は染めるは、遅刻はするは
誰にでも偉そうにタメ口でしゃべりかけるは…
まぁ、完全な「中2病」でしたね
※死語になりつつある?
通っていた中学校(私学)の先生の一部には
【腐ったみかん】と呼ばれていたそう
でも、担任の先生は最高にユニークな先生で
そんな私のことを色眼鏡で見ませんでした
※【腐ったみかん】のあだ名を教えてくれたのも
この先生やからまたそれもおっもろかったなぁ
遅刻の反省文を書きながら不貞腐れてた私に
「愛実みたいな人が、学校の先生になったら
生徒たちに寄り添える先生になるで」という
思いがけない言葉を掛けてくれたのです
私はその時(当時13歳)、【先生になろう】と
決めました
そして勉強嫌いな自分が唯一、教えられそうな
教科は「キリスト教(聖書)」しかない!と思い
(クリスチャンホームなので無駄に聖書に詳しい)
大学は関西学院大学の神学部に進みました
ヒィヒィ言いながらもに宗教科の教員免許を
無事に取得しましたが、宗教科の門戸は狭く
卒業と同時に宗教科の教員として働くことは
残念ながら叶いませんでした
それでも、大学事務のお仕事をしながら、
チャンスが巡って来るのを待ち続けました
25歳の時に母校の先生からお声がけ頂き
非常勤講師としての1年を経てから、翌年
常勤として教壇に立つことが叶ったのでした
夢の教員生活と、心の風邪
母校で常勤講師として内定をもらえた時は
本当に舞い上がりました
そして夢は公言し続けることで叶うんやという
ことも、改めて実感したように覚えています
中学2年生の担任を持つことになった私は
初めてのクラス運営を手探りながらも楽しみ
とても充実した教員生活を送っていました
クラスの生徒たちとの関係もとても良好で
放課後に個々が抱える悩みから笑い話まで
たくさん重ねて信頼関係を築いていきました
半年経った頃、ある英語研修施設への
宿泊行事がありました
その過程で、中学生特有の友だち同士の
グループ内トラブルが発生したため
当事者の生徒たちへのフォローを目一杯
していたのですが…
「うちの子が仲間はずれにされていて
宿泊行事に参加したくないと言っている」
という1本の電話がはいりました
その母親が、典型的な【モンスターペアレント】
だったのです
私は母親からの申し出を受け、当事者の生徒と
話し合いをして、座席などいろいろな提案をして
(生徒の希望も聞き取ったうえで座席は変えず)
もし何か困ったことがあったらすぐに私に
話してほしいと伝え、行事の当日、その生徒は
休まずに参加してくれました
しかし行事参加後、その生徒が学校に来なくなり
次はさらに威圧的な父親から電話が入りました
うちの子どもは【いじめられた】のに
【何も適切な対応をしてもらっていない】
【いじめた生徒の親と学校を訴えてやる】と
汚い言葉で捲し立てるだけ捲し立ててきて
最終的に学校に怒鳴り込んできたのです
私も当時は若かったので、奴ら(保護者)に
舐められたんだと思います
私を見下していることが明確にわかる
汚い言葉を、気が済むまで浴びせてきた
自分本位なとんでもない人たちでした
だから私は、一貫して謝罪はしませんでした
その態度がまた、父親をムキにさせたと思います
もちろん、教員としての経験も浅くて
至らない部分もあったかもしれません
でも私はベテランの先生方に相談をしながら
熟考し、必要なフォローをしていたことと
あまりにも一方的な主張で理不尽すぎる
罵声を浴びせてきたモンペの典型だったので
断固謝罪拒否し、毅然とした態度で接しました
数々の脅迫めいた暴言にも、暴言を吐き返したい
衝動を抑えて、いち教員として立ち向かいました
数回の話し合いもむなしく、結局本当に裁判に
巻き込まれることになりました
(父親のふるまい全てがチンピラそのもので
こんなクソみたいな人間、ほんまにおるんや
と当時も思ったし、年を重ねた今もやっぱり
激しくそう思う…母親は父親にバトンタッチ
してからは影すらもなくなったけど、
ふたりとも腐った人間性が顔に滲み出ていた)
その後は、クラスの生徒たちにはそんな内実を
悟られることないよう平然を装いながら…
とにかく担任を持っている生徒一人一人との
信頼関係をしっかりと築きあげることに集中し
終業式にはクラスのみんなから感謝の色紙と
花束のプレゼントをいただきました
生徒たちに「先生泣いてる〜」と
揶揄われましたが、色んな意味で泣けました
(この子たちだけでも私が担任であったことを
喜んでくれているなら充分幸せやと感じたので)
常勤2年目を迎えた翌年からは裁判出廷が
決まっていたため、担任業を離れざるを得ず
宗教主任という管理職に就くことにもなり
本当に激務なうえに、裁判の打ち合わせの
出張もせねばならず、生徒と関わるの時間も
少なくなってしまいました
ここでさらに、宗教主任という立場と
持ち前の人懐こさで、他校の先生方との
交流がさかんになり、講演を依頼されます
しかし、それに嫉妬をした校長や
一部の管理職教員からのパワハラも加わり、
また裁判出廷の日も刻一刻と近づいてくる…
怒りと悲しみと虚しさが、私の心を
覆うようになっていきました
肝心の裁判は、理不尽すぎる訴えに怯まず
我ながら、やりきりました
もちろん、学校側が勝訴しました
あのモンスターペアレントは子どものことを
想って裁判したのではないと今でも思います
私は無駄な労力と生徒たちとの大切な時間を
奴らに奪われました
裁判の証人尋問をやりとげて、新年を迎えて
冬休み期間が明けて数日出勤した後のある朝
突然ベットから身体が起こせなくなりました
心の風邪(うつ病)でした
このままでは心が粉々に壊れてしまうし
パワハラ体質の校長や一部管理職の下で
頑張る必要はないし、ここで働き続けたら
奴らがまた怒鳴り込んでくるかもしれんし
と妙に腑に落ちて、そのまま退職しました
※たくさんフォローをして助けてくださった
恩師でもある先生がたには本当に申し訳ない
気持ちでいっぱいでしたが、私の状況をすぐ
受け入れてくださりそれがまた救いでした
当時は実家に住んでいたので
両親のあたたかい支えには
感謝してもしきれません
また実家の近くにたまたまあった心療内科の
よき女性ドクターとの出会いと、ひたすら
ゆっくり身体と心の休養を取れたこともあり
半年ほどで回復しました※投薬も合ったよう
当時、7年ほどお付き合いをしていた彼
(現在の夫です)の支えと寄り添いもあって
私は、また前を向くことができたのです
現在の私
心の風邪から回復した私は、
1.【カステラ工場】
2.【歯科医院の受付】
の職を経て
現在【フリーランスのアパレル販売員】
としてデビューをして1年半が経過しました
私は今、心から喜んで、何よりマイペースに
社会と繋がっています
そして去年の【成人の日】に、当時担任を
持っていた生徒から、是非お祝いの席に
参加してくださいと嬉しい連絡をもらい
私にとって最初で最後の教え子達の晴れ姿を
目に焼き付けることができました
当時、退職の挨拶もできずに
急に学校を去ってしまったことの
謝罪もようやく直接できたのです
久しぶりに元担任の私に再会した生徒たちは、
「そんなことより先生が今元気でよかった」
と言ってくれました
生徒からのその言葉1つで私の短い教員生活には
意味があったと言い切れる嬉しい出来事でした
回復後に選んだ職種については
「は?」と思われたかた多数だと
思われますので(笑)
また詳しく記させてもらいます
※需要があるかは不明ですが
本日も乱筆乱文且つ長ったらしくヘビーな投稿を
最後までお読みくださりありがとうございました
今後ともよろしくお願いいたします
#自己紹介