地続きに思えていた関係性の断絶、あるいは愛について
来週末の「若手演出家コンクール」最終審査のために、2018年から作り続け、上演を続けている「The Other Side」という作品を作り直しています。この作品は、さまざまな場所で上演していますが、その時々の自分たちや社会の状況、その場所によって、毎回少しずつ作り直します。いつまで経っても完成しない作品。でもその作業が毎回とても面白い。
今回は下北沢の「劇」小劇場での上演。前回の旧名古屋ボストン美術館とはスケールも雰囲気も全く違うため、舞台美術はもちろん、構成や内容についても大幅に見直しています。
演出家の意図とはおそらくちょっと違う部分もありますが、出演者としての視点から、今回の作品についてのイメージなどをつらつらと。
旧ボストン美術館で新しく作ったシーンが、当然ながらどうしてもしっくりこないので、新しく作ろうとしている。りえちゃんがフレディ・マーキュリー風になってみたり、My Funny Valentineを鼻歌で歌ってみたり。私が坂口安吾の小説からの抜粋を朗読してみたり。前々回に出演していたしげさんのシーンで「愛について」のシーンがあったのだけど、旧ボストン美術館バージョンではそれをごっそり削っちゃったらだいぶストイックな印象になってしまったので、もうちょっとそんなイメージを入れてみようと思って、私の「愛について」の赤裸々な話をしてみたり。でもあんまり面白くない上にいろいろ放送禁止事項(今回オンライン配信もするので、ちょっと気をつけなきゃね)が満載で却下になったりとか(笑)。いろんな意味で身を削ってネタ出ししたりした結果、結局2018年の初演時の演出に近いものに戻ったり。なんだ結局やっぱりそこが原点か、ってことで。
2018年の時点では、父はまだ生きていたし、私もまだ離婚していなかった。この2-3年の間にも、いろんな大きな断絶を経験したものだなあと、改めて振り返ってみる。断絶は突然やってくるものなので、今当然のように近くにいる人や周りにあるものが、ある日突然なくなってしまう、ということももちろんあり得る。そういうものだと思いながら、それでも目の前の愛おしいものたちに愛情を注ぎ続けるしかないのだ、とも思う。
そんなわけで、涙が出るほど笑ったりえちゃんのフレディ・マーキュリーや私の朗読は結局お見せできませんが(笑)、すましてかっこいいことやってるシーンの裏には意外とそんなネタのイメージが満載だったりすると思うと、やってる方も観てる方もちょっと面白いかもしれません。
ちなみに私が朗読しようとしていたのはこんな文章。ずっと前にこの小説を題材にしてダンスの作品を作ったこともあるけれど、坂口安吾が妻の三千代をモデルにしたとされる小説から。
彼のような魂の孤独な人は人生を観念の上で見ており、自分の今いる現実すらも、観念的にしか把握できず、私を愛しながらも、私をでなく、何か最愛の女、そういう観念を立てて、それから私を現実をとらえているようなものであった。
私はだから知っている。彼の魂は孤独だから、彼の魂は冷酷なのだ。彼はもし私よりも可愛い愛人ができれば、私を冷めたく忘れるだろう。そういう魂は、しかし、人を冷めたく見放す先に自分が見放されているもので、彼は地獄の罰を受けている、ただ彼は地獄を憎まず、地獄を愛しているから、彼は私の幸福のために、私を人と結婚させ、自分が孤独に立去ることをそれもよかろう元々人間はそんなものだというぐらいに考えられる鬼であった。
しかし別にも一つの理由があるはずであった。彼ほど孤独で冷めたく我人
(われひと)ともに突放している人間でも、私に逃げられることが不安なのだ。そして私が他日私の意志で逃げることを怖れるあまり、それぐらいなら自分の意志で私を逃がした方が満足していられると考える。鬼は自分勝手、わがまま千万、途方もない甘ちゃんだった。そしてそんなことができるのも、彼は私を、現実をほんとに愛しているのじゃなくて、彼の観念の生活の中の私は、ていのよいオモチャの一つであるにすぎないせいでもあった。
このまま、どこへでも、行くがいい。私は知らない。地獄へでも。私の男がやがて赤鬼青鬼でも、私はやっぱり媚をふくめていつもニッコリその顔を見つめているだけだろう。私はだんだん考えることがなくなって行く、頭がカラになって行く、ただ見つめ、媚をふくめてニッコリ見つめている、私はそれすらも意識することが少なくなって行く。
私は谷川で青鬼の虎の皮のフンドシを洗っている。私はフンドシを干すのを忘れて、谷川のふちで眠ってしまう。青鬼が私をゆさぶる。私は目をさましてニッコリする。カッコウだのホトトギスだの山鳩がないている。私はそんなものよりも青鬼の調子外れの胴間声が好きだ。私はニッコリして彼に腕をさしだすだろう。すべてが、なんて退屈だろう。しかし、なぜ、こんなに、なつかしいのだろう。
三千代さんをモデルにして安吾が描いたこの女性は、哲学者の九鬼周造がいうところの「粋」に近いものがある。私は坂口安吾の文章が大好きだから、三千代さんは憧れの存在なのだ。そんな風だから、私自身も「自分勝手でわがまま千万、途方もない甘ちゃんの鬼」も結構好きだし、自分の中にもそんな鬼を認めるから、鬼に対してはすごく親近感がある。
実際の私のセリフとしては、父が亡くなった話などを中心に進みますが、話している私の「女」としてのイメージは今回は結構こんな感じでやってみています。どこまで表現できているのかはわかりませんが、これが私の「下北沢バージョン」ってことで。
参考までに、前回の旧ボストン美術館バージョンはこちら。
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「若手演出家コンクール」の詳細はこちらから。私は3/5(金) 18:00の回に出演します。よろしければぜひご覧ください。