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【小説】悩みのヒントを差し上げます ヒント屋キタミ③

こちらの小説は、『小説現代長編新人賞』で一次選考通過した作品です。
多くの人に読んでいただければと思います。ぜひ、感想などいただけると嬉しいです。

「悩みのヒントを差し上げます ヒント屋キタミ①、②」を先にお読みになってからこちらをお読みください。

 取引先との打ち合わせが早めに終わった。担当の館林さんは、毎度話を切り上げるのが早い。館林さんとは今日で会うのは3回目だ。

「そのニット、可愛いですね」

 帰り際、エレベーターが来るまで間が持たなくて私は彼女に話しかけた。

「あぁ、これ。今朝急いでいて母の服を着てきてしまいました」

 そう言って館林さんは幼く笑った。館林さんが笑った顔を初めて見た気がした。3回目の打ち合わせで、ようやく彼女のことが少し知れたような親近感が芽生えた。

 お昼をどこかで食べてから会社に戻るか。けれど、時計を見るとまだ11時にもなっていなかった。考えながら歩いていると、見覚えのある雑貨屋が目に入った。

「ここ、前も……」

 前回の打ち合わせで来た時に、この雑貨屋の前を通ったことを思い出す。ガラス張りになっている店内から、本棚やソファーが見えた。雑貨屋を一度通り過ぎてから、私は振り返った。ガラス越しに店内を覗くと、私が立っている位置から、ソファーの横にハンガーラックに掛かっている洋服が見えた。

「この店、洋服も置いているんだ」

 その洋服たちに吸い込まれるように、私は歩き出していた。

 店のドアを開けると、コーヒーの香りが鼻をかすめした。でも、それは一瞬のことで、コーヒーの香りの奥に古着の独特な匂いが混ざっているのを私は見逃さなかった。新しい服を買った時に、新品の匂いがあるように、古着にも共通の独特な匂いがある。コーヒーに隠れた古着の匂いは、私の嫌な記憶を呼び起こした。

 大学一年生の頃付き合っていた彼氏は、古着が好きな人だった。昔も今も、私は古着を着る人の気持ちがよくわからない。なんで、古着に高額を払うのか不思議だった。ある時、古着が好きな理由を彼に聞いたことがあった。

「格好良いから」

 きっと、こういう質問を何度もされてきたのだろう。彼は面倒くさそうに素っ気なく、そう答えた。その彼とは半年も続かなかった。

 そんなことを思い出しながら、私はハンガーラックの前に立っていた。大人が両手を広げたくらいのハンガーラックだった。

 Tシャツ、パーカー、ニット、ジーンズ、ブラウス。どれも、まだ着られる物ではあるけれど、誰かがきちんと着ていた形跡が洋服には残っていた。

「なんだ、古着か」

 私は肩を落とした。惰性で洋服を眺めていると、青のワンピースを見つけた。一瞬、手を止める。ワンピースをハンガーラックから外した。辺りを見回すと、ハンガーラックと深緑のソファーの間に小ぶりな全身鏡があった。首から下にワンピースを当てて鏡で合わせる。なかなか似合っていた。

「でも、春物か」

 値段がいくらか気になった。春物を買うにはまだ時期が早い。ワンピースの値札を探す。でも、ワンピースのどこにも値札は見当たらなかった。他の洋服でも探してみたが、どれも値札は見つからない。

「いらっしゃいませ」

 奥のカウンターに店員が現れた。店員もお客の私に今気づいた様子で、掛け声は反射的だった。話しかけられたら嫌だなと思って、私は視線をすぐに外した。

「ごゆっくりどうぞ」

 私はワンピースを元の位置に戻した。店内を見回す。店員は、カウンターで何かの作業に追われているようだった。特に話しかけてくる気配はない。私は、ゆっくり店内を歩き始めた。左の壁には絵が飾られていた。茶色の立派な額縁に入っているのは、夕焼けの絵だった。小さい頃に見たことがあるような夕焼けだった。この夕焼けはいつの季節のものだろう。夕焼けの絵から近くの棚に視線を移した。棚には風鈴が置いてあった。でも、よく見ると、風鈴の内側にあるはずの、風で音が鳴る部分が付いていなかった。私は風鈴を手に取って、逆さまにして眺めた。風鈴は逆さにすると、ガラスのお椀のようにも見える。私はずいぶん前にテレビで見た、夕方のニュースを思い出した。ベランダに吊るしていた風鈴の音がうるさくて、隣人トラブルに発展したという問題が取り上げられていた。この風鈴を吊るしておけば、隣人トラブルは起きなかったかもしれない。

 風鈴を元の場所に戻した。店内に置かれた雑貨を一通り眺めてから、私はあることに気づいた。洋服同様、雑貨のどれにも値札は付いていなかった。ここは何のお店だろう。店員に尋ねようとした時、カバンのサイドポケットから振動が伝わった。スマホの画面を見ると、部長からだった。私は早歩きでドアへ向かった。

「もしもし」

 右手でドアを開け、足が外に出ると同時に電話に出た。

「ありがとうございましたー」

 後ろから店員の声が聞こえた。

 

 ❇

 

「たまには同期で集まろうよー」

 同期のさゆりは、さっきコンビニで買ったスープパスタを食べながら言った。

「私はパス。集まっても仕事の話か、上司か先輩の愚痴になるだけでしょ」

「情報交換だよー。唯、そういうの大事だよ」

 最後、語尾が上がるさゆりの言葉を聞き流し、私は二個目のおにぎりのフィルムを剥がした。私もさゆりと同じコンビニで、おにぎり二個とサラダとゆで卵を買った。サラダとゆで卵は先に食べた。おにぎりは、ツナマヨと辛子明太子。辛子明太子は味が濃いので、先にツナマヨ、次に辛子明太子の順に食べる。

「それに同期で集まると、仕事のモチベーション高い人が仕事やる気ない人に、もっと頑張れって説教大会が始まるでしょ。あれ、苦手なんだよね」

「唯が言ってるの、原田のことでしょ?」

「そう。原田くん」

 同期の原田くんの名前が出て、さゆりと私は二人同時に笑った。すると、さゆりは笑った顔から何かを思い出した顔に変わった。

「同期で思い出したけど、佐々木さん、結婚するらしいよ。真由から聞いた」

「うそ! 佐々木さん、結婚するの? 同期の中で真由が一番に結婚すると思ってたのに」

「ほんと。真由もびっくりしてたよ。でも、うちらだって28だよ。結婚しても普通だよね。唯は、結婚の予定とかある?」

「あるわけないでしょ。彼氏もいないの、知ってるくせに」

 さゆりは肩をすくめて笑う。食べ終わったパスタの容器に蓋を閉めた。

「佐々木さんは、結婚しても仕事は続けるんでしょ?」

 おにぎりを食べ終えて、ゴミをまとめながら私は聞いた。

「そうじゃない? 私も真由から聞いただけで詳しいことはわからないけど。やっぱり、同期会しようよ」

 指先に細かい海苔が付いている。私はウエットティッシュで指を拭きながら、「そうだね」と答えた。

「うわっ、最悪。チョコ溶けてるー」

 さゆりの声に反応して自分の指からさゆりの指に目線を下げた。さゆりの指には溶けたチョコが付いていた。一口サイズのチョコが小分けの包装紙にべっとりくっ付いている。

「さっきコンビニで買った時、パスタの上にチョコ置いたから溶けちゃったんだ」

 さゆりは、チョコが溶けた心当たりを思い出すように顔を歪ませた。

「また? この前も肉まんとチョコ一緒にして溶けてなかった?」

「ほんと。最近ミスばっかー」

 さゆりは笑って、指に付いたチョコをティッシュで拭く。

「そういえば、私が学生の頃、コンビニのバイトで温めたお弁当の上にチョコ置いたら怒られたことあったよ」

「誰に?」

 さゆりは顔をあげて私に聞く。

「お客さんに。そのお客さん、次の日わざわざ文句言いに来てさ。まぁ、私が悪いんだけどね」

そう言うと、私は自宅から持ってきた保温タイプの水筒を飲んだ。

「そのお客さんの気持ち、ちょっとわかるかもー」

「いや、これは、さゆりが自分で置いて溶かしたんでしょ?」

「じゃあ、私は誰に文句を言えばいいのよー」

「自分にでしょ」

 私が間髪入れずにツッコむと、さゆりも「そうだけどー」と笑った。

「さゆりは学生の頃、何のバイトしてた?」

 そう聞きながら、私はコンビニでバイトをしていた頃の記憶を久しぶりに呼び起こしていた。

 大学生の頃、私は大学近くのアパートで一人暮らしをしていた。家の近所にコンビニがあって、そこのコンビニでバイトを始めるようになった。

 お昼時よく来るお客さんがいて、温めたお弁当の上にチョコを乗せて渡したことがあった。次の日、そのお客さんがまたコンビニにやって来て、レジにいる私の前に立つと静かに文句を言ってきた。

「昨日買ったチョコが溶けてた」

 最初、何のことを言っているのか分からず、私はポカンとしていた。何も言わない私を見て、そのお客さんはため息の後に怒り出した。

「普通、温かい物の上にチョコを乗せたら、チョコが溶けるのわかるでしょ?」

 条件反射で、「すいません」と私が謝ると、そのお客さんは何も買わずに出て行った。

「昨日の唐揚げ弁当とチョコの人か」

 私は、昨日のことを思い出した。確かに、私は温めた唐揚げ弁当の上にチョコ一個を乗せて、あのお客さんに渡した。アイスくらい冷たい物なら温めたお弁当と一緒にしてはいけないことは意識できる。けれど、チョコは盲点だった。温かい物の上にチョコを乗せたら溶ける。確かに、あのお客さんの言う通りだなと思って、私は学習した。

「チョコが溶けますので、袋を別にしますね」

 その日を境に、温かい物とチョコを買うお客さんにはレジ袋を別にして渡した。私は、気が利くコンビニ店員になったと思った。

 ある日、男性のお客さんが、電話で話しながらレジにお弁当とチョコを持ってきた。

「温めて」

 男性客は電話口を押さえながらお弁当をカウンターに置いた。私はレンジでお弁当を温めながら、新発売のチョコをレジに通した。男性客はまだ電話中だったので、話しかけるのも悪いと思い、私は黙って一番小さいレジ袋にチョコを入れた。電話を終えた男性客は、電子決済で会計を済ませた。それぞれ別のレジ袋に入れたお弁当とチョコを渡すと、男性客は鬱陶しそうに小さいレジ袋からチョコを取り出した。

「すぐだから」

 男性客はお弁当が入ったレジ袋にチョコを乱暴に入れると、店を出て行った。

「ありがとうございましたー」

 気持ちが入っていないお礼を添えて男性客の後ろ姿を見送った。果たして、この場合の正解は何だったのだろう。気が利くコンビニ店員だけが正解ではないことは確かだった。けれど、私は正解がわからないままだった。しばらくして、私はそこのコンビニのバイトを辞めた。

 今では、コンビニやスーパーもレジ袋が有料化された。持参したビニール袋やエコバックに袋詰めをするのは、基本的にお客さんの役割だ。お客さんは自分の正解を一番よく知っている。温かい物とチョコを別にするのも、一緒に入れるのもお客さんの判断になった。それと同時に、お客さんは温かい物の上にチョコを置くと、チョコが溶けることを学習しないといけなくなった。

「取れなーい。まだベトベトするー」

 ティッシュだけでは拭い切れないチョコが、さゆりの指にまとわりつく。私は、さゆりに自分のウエットティッシュを渡した。渡してから、やっぱり一枚取り出してから渡してあげた。

「ありがとう、唯」

 さゆりは差し出されたウエットティッシュで手を拭いた。

「唯、チョコ食べる?」

 ウエットティッシュのお礼とばかりに、さゆりは溶けたチョコを私に差し出す。

「いらない」

 私は小さく首を振った。

 

 ❇

 

「お疲れ様です。小西さん、今日はもう上がりですか?」

 会社のエレベーターを待っていると、後輩の園田くんが横に並んだ。

「お疲れ様。園田くんは、コンビニ?」

 身軽な格好の園田くんを私は一瞥した。

「はい。ちょっと気分転換にコンビニに行きます」

「気分転換なんて仕事が終わってからやりなよ」

「そうですよねー」

 園田くんは人懐っこい笑顔を見せた。

 園田くんは一個下の後輩で、私たちが2年目になった年に入社してきた。園田くんが入社した当初、同期のさゆりや真由は、新入社員の園田くんのことを「あの子、かわいい」とよく言っていた。園田くんの顔はかっこいい方だとは思ったけど、女性が男性を「かわいい」と思う感覚が私にはよくわからなかった。

 エレベーターの液晶の矢印の向きが上を指している。私たちのオフィスは8階だった。

「小西さんって、いつもお昼どこで食べてるんですか?」

 思い付いたような顔をして、園田くんは私に聞いた。

「私? 日によるから、まちまちだよ。下のフリースペースで同期と食べたり、外出先で食べてきたり。それでも駅前の台湾ラーメンは、月3回は行く。あそこのラーメン美味しいんだ。行ったことある?」

「行ったことないです。小西さん、一人ラーメンするんですか?」

「するよ。なんで? 園田くん、一人でラーメン食べないの?」

「いや、そんなことないですけど」

 エレベーターの扉が開いた。園田くんは微笑みながら、先にエレベーターに乗り込んだ。園田くんは、私が乗る前に1階のボタンを押して、私が乗り込んでから【閉める】のボタンを押した。私はエレベーターの中で園田くんの横に並ぶと、右肩に掛けていたカバンを左肩に掛け直した。

「明日の昼、そこの台湾ラーメン一緒に行きませんか。俺、行ったことないんで行ってみたいんです」

 私は右に顔を向けた。人、1人分空いた横に園田くんは立っていた。そして、やや斜め上に園田くんの顔があった。

「いいよ」

 とっさに、「いいよ」の後に「別に」を言わなかった自分に安心する。「別に」は、言われるとあまりいい気持ちがしないから言わないように気を付けていた。

 途中、エレベーターが止まった。扉が開くと、他の課の男性社員2人がエレベーターに乗り込んだ。お疲れ様ですと、男性社員は小さく会釈した。私と園田くんも会釈をしてから半歩後ろに下がる。エレベーターがまた動き出した。チラリと園田くんの方を見ると、園田くんはスマホを見ていた。私は前を向いてマフラーの匂いを嗅ぐように顎を引いた。

 エレベーターが一階に着いた。男性社員2人の後に続いて、園田くんが先にエレベーターから降りた。右がコンビニの方向だ。

「小西さん。明日、昼出る時間わかったら教えてください」

「あ、うん。わかった」

「お疲れ様でした」

「お疲れ様」

 園田くんはペコリと頭を下げると、スーツのポケットに手を突っ込んだ。寒そうに肘は横腹にぴったりとくっ付いていた。肩をすくめて園田くんは足早にコンビニへ向かっていった。私は、カバンを左肩から右肩に掛け直し、駅の方へ向かう。

「園田くん、一人ラーメンできないんだ」

 マフラーに顎を埋め、私は誰にも気づかれないようにクスッと笑った。

 

「台湾、行ったことあるんですか?」

「ないよ」

「それなのに台湾ラーメン好きなんですね」

「いや、台湾ラーメンの発祥は名古屋だよ。それに、そんなこと言ったらイタリア行ったことないのにラザニア好きなのと同じじゃない?」

「ラザニアって、イタリアの食べ物なんですか?」

 そう言って、園田くんはいつもの人懐っこい笑顔を見せた。よく笑う子だな、と思った。さゆりや真由が園田くんのことをかわいいと言っていた感覚が少しわかりそうな気がした。

 台湾ラーメンのお店を出ると、私たちはコーヒーショップに寄った。カフェラテかソイラテかで悩む私の横で、園田くんはアイスコーヒーを頼んだ。

「寒くないの?」

「ラーメンの後は、いつもアイスコーヒーが飲みたくなるんですよね」

 そう、園田くんは言った。昼時だったので店内は混んでいた。コーヒーはテイクアウトにして、私たちは飲みながら会社に戻ることにした。

「小西さんは、彼氏さんとラーメン屋に行ったりするんですか?」

「彼氏だった人とラーメン屋に行ったことはあるよ」

「小西さん、今は彼氏いないんですね」

「園田くんは? 彼女、いるんでしょ? 園田くんモテそうだよね」

「俺? 全然ですよ。彼女もいないし」

「でも、園田くん、自分がかっこいいことはわかってそうだよね」

「そんなことないですよ」

「じゃぁ、自分がモテることはわかってるでしょ?」

「だから、モテませんって。多分ですけど、小西さん、俺のこと誤解してますよ」

「別に、自分のことをかっこいいとかモテるって客観的にわかってることは悪いことじゃないと思うけどな」

「じゃぁ、小西さんは自分のことをかわいいと思ってるんですか?」

「自分のことをかわいいと思っているというより、自分が客観的にどれくらいか、なんとなく把握はしてるよ」

「どれくらいなんですか?」

「中くらい」

「なんか、その回答ずるくないですか?」

 思わず私は声に出して笑ってしまった。園田くんは困っているような、笑っていいのかよくわからないような顔をしていた。さっき、ラーメン屋で向かい合っていた時よりも、横並びで歩いている今の方が話しやすかった。

「やっぱ、外でアイスコーヒーは寒いっすね」

 アイスコーヒーを持つ園田くんの右手を見て、私は園田の顔を見た。なんとなく、園田くんは炭酸が好きそうだなと思った。

「園田くんって、」

 園田くんはアイスコーヒーを飲みながら私の方に顔を向けた。

「いや……。外でアイスコーヒーは寒いだろうね」

 炭酸は好きかと聞けなかった。突然、炭酸が好きかと聞いたら変な人だと思われそうで、つまらない返答を選んだ。さっきまで散々変なことを言っておいて、急にブレーキをかけてしまう。でも、さゆりや真由だったら、あの二人なら園田くんに炭酸は好きかと聞けるんだろうか。

 信号の前で私たちは立ち止まった。この信号を渡ると会社へは2分もかからない。少しずつプライベートな雰囲気からオフィシャルなスイッチが入っていく。園田くんは、なぜ私をお昼に誘ったんだろう。会社では話せない仕事の話があったんじゃないのか。聞いてみようと思ったけど、やっぱり聞くのを躊躇った。代わりに違う質問をした。

「園田くん、なんで台湾ラーメンに行きたいと思ったの?」

 少しだけ、園田くんの回答に期待する。園田くんは信号の方を向いて少し黙った。

「俺、台湾ラーメンって食べたことなかったんで」

 そう言って、園田くんはいつもの笑顔を私に向けた。信号が青に変わる。園田くんの顔が前に戻る。

「行ったことないなら」

 一人で行けばいいのに。声には出さずに、そう思った。私は横断歩道を渡りながら、答えがわからない自問自答を繰り返すだけだった。

 

 ❇

 

「毎年新入社員が入ってくるとさ、年々、必死になって後輩と話すようになってくるよな。こっちが後輩に質問して、話聞いて、話広げて。それを入社1、2年の奴らは当たり前みたいな顔してさ」

「でた。ヨッシーの後輩のグチ」

 そう言うと、運ばれてきたサーモンのカルパッチョを取り分けるため、マキちゃんはトングを持った。ヨッシーは何も言わず、4枚重なっている小皿をマキちゃんの方に寄せた。

「小西もあるだろ? そういう、自分の立ち位置が変わってきたなって実感する瞬間」

「あるよ。私も飲み会とかで質問されるより、質問する方が増えた。後輩に話振ったり、広げたりするよ」

「だよな」

 同意を求めて、満足げにヨッシーはビールを飲んだ。

「でもさ」

 カルパッチョを取り分けながら、マキちゃんが話し出す。

「新入社員でも自分から話す子は話すよね。ちゃんと気も使えて、先輩の話を聞く子もいるし。中には、先輩から話を振ってもらうことを当たり前みたいな顔して全然喋らない子もいるけど。自分は質問されたことに答えるだけでいいと思って、すかしてる子とか」

「そうそう。聞かれたことしか答えない奴いるよな。俺の話なんて興味なさそうでさ」

 マキちゃんはサーモンと水菜をきれいに盛りつけた小皿を私に渡してくれた。

「ありがと、マキちゃん。でも、私は、そういう質問に答えるだけの後輩を見ていると、私も昔そうだったなって思うけどね。それって、会社の先輩後輩だけの話じゃなくてね。学生時代のバイト先でも、年下の自分に先輩たちが色々質問してくれたり、会話を広げてくれたりしたでしょ。先輩から話を振ってもらう機会が多いから、それが普通のことだと私も思ってた。でも、本当は目上の人たちが年下の私に話を合わせてくれていたんだなって、今ならわかる。それに、ヨッシーの後輩の子も変に後輩の自分が先輩に色々聞いたり、話したりするのも失礼だと思っているのかもしれないよ。だから、聞かれたことに答えるだけの方が無難だと思っているのかも」

 私は箸を手に取り、ドレッシングがかかったサーモンの上に水菜を乗せて口に入れた。水菜の茎はシャキシャキして美味しかった。私は口の中の物を飲み込んでからビールを飲んだ。

「でも、ちょっとは先輩とコミュニケーションを取ろうという努力を垣間見たいけどな」

「なら言えば? 後輩に」

 マキちゃんは大学生の頃と変わらず、ヨッシーを適当にあしらう。

「先輩とコミュニケーションを取ろうという努力を俺に垣間見せろって、後輩に直接言えば良いじゃん」

「そんなこと言ったら、うざい先輩みたいだろ」

「今でも十分うざい先輩みたいだよ。面倒くさいね、ヨッシーって」

 大学時代から全く変わらないマキちゃんとヨッシーのやり取りを聞きながら、私はまたサーモンに水菜を乗せた。水菜の葉の部分にドレッシングが絡まっていた。箸を小皿の上に置いて、ビールを飲んでから私は口を開いた。

「ヨッシー、こう考えるのは? よくさ、ご飯とか奢ってくれた先輩が「俺にお礼とか返さなくていいから、お前に後輩ができた時その後輩に奢ってやれよ」みたいなこと言う人いるでしょ。それと同じことを思うようにするの。後輩との会話でヨッシーに努力を垣間見せない後輩には、「俺に努力は垣間見せなくていいから、お前に後輩ができた時お前はその後輩に努力を垣間見せてやれよ」って思うようにする」

「なるほど。唯が今言ったの、それ良い先輩っぽいね」

「別に後輩にわざわざ言わなくていいから、後輩との会話中に後輩が努力を垣間見せなくてヨッシーがイラッとした時に「お前は後輩に努力を垣間見せてやれよ」って心の中で思うだけ。でも、そう思うだけでも気持ちは楽になりそうじゃない?」

「確かに。先輩が後輩にご飯を奢っていく継承みたいに、努力の垣間の継承をするってことね。ヨッシー、それで決まりだ」

 私とマキちゃんは同時にヨッシーの方に顔を向けた。

「なるほどねぇ」

 サーモンのカルパッチョを食べ終えたヨッシーは、手羽先の唐揚げを咥えていた。ヨッシーはこの話にはもう興味がなさそうだった。私とマキちゃんは同時にビールに手を伸ばした。

「町田くんの分、どうする?」

 町田くんに料理を残しておくかマキちゃんが聞くと、あいつが来たらまた頼めばいいと、ヨッシーは2本目の手羽先を食べながら言った。

「唯、サーモン食べちゃお」

 マキちゃんは小皿にまたサーモンを盛り付けてくれた。

「お疲れー。遅れてごめん」

 声の方に振り返ると、外の寒い空気を身にまといながら町田くんが現れた。

「おぉ、町田。遅いぞ」

 ヨッシーは手羽先のタレが付いた指をおしぼりに押しつけながら、町田くんのために席を奥に詰めていく。私の前にヨッシーが座った。

「小西さん、久しぶり」

 町田くんはコートを脱ぎながら斜め向かいの私に笑った。

「町田くん、ビールでいいよね?」

 町田くんの返事を待たずにマキちゃんは店員を呼ぶ。俺もお代わり、とヨッシーがマキちゃんに空のジョッキを渡した。

「加島ゼミ同期、乾杯!」

 町田くんとヨッシーのお代わりのビールが運ばれてきて、4人揃って乾杯をした。みんながジョッキを置くと、改めて料理の注文をしようとヨッシーが言った。

「鍋、あるよ」

 ヨッシーが持っているメニュー表を覗きながら、町田くんは遠慮がちに指差した。マキちゃんが店員を呼び、手際よく注文をする。

 注文を終えると、話題はヨッシーの彼女の話になった。最近、ジム仲間の人と飲んでいたら、隣の席で飲んでいた女の子たちと仲良くなって、そのうちの一人と付き合い始めたらしい。その彼女は辛い物が大好きで、デートは決まって激辛料理ばかり食べていると、ヨッシーは言った。とにかく汗をかくから、いつもデートには厚手のタオルを持っていくと言ったヨッシーに、「ノロケかよ」とマキちゃんはツッコんだ。

「ガスコンロ、失礼しまーす」

 場が和んできた頃、店員がやってきた。何のためのガスコンロかと思ったら、さっき町田くんが鍋を注文していたのを思い出した。火力を調整するツマミが、町田くん側に向いてガスコンロは置かれていた。店員が離れると、ツマミを自分の方に向けるため、マキちゃんは黙ってガスコンロを動かし始めた。

「町田は、最近どうなの? 仕事、忙しそうだけど」

「うん。忙しいのは、忙しいかな」

「町田くん、今、仕事はどんなことしてるの?」

 マキちゃんは特に興味もなそうに聞いた。

「俺、フリーだから仕事内容は結構バラバラなんだよね。でも、前からやっているフリーペーパーの仕事は今も続いてるかな。企画が色々あって、そのフリーペーパーの雑誌の中に人生相談のコーナーがあるんだ。読者からの相談に答える感じで。俺、最近そのコーナーの担当になったんだ。でも、人生相談って言っても、真面目な相談だけじゃなくてポップな相談もあっておもしろいんだよ。何だっけな。【親しらずを抜こうか悩んでいます】とかいう相談もあったな」

「いや、町田くん。うちの弟、最近親知らず抜いたんだけど、全身麻酔して入院したからね。親知らず抜こうか悩んでいる相談って全然ポップじゃないから」

 マキちゃんは訂正するかのように町田くんに言った。

「そうだね。悩んでいる人からしたら相談は全て真剣だよね、ごめん」

 町田くんは丁寧にマキちゃんに謝ると話を続けた。

「よく雑誌とか新聞で、人生相談の回答者って有名人が多いでしょ。芸能人とかテレビに出てる社会学者とか。でも、うちの雑誌は一般の人にも回答者をやってもらっているんだ。会社員の人とか、町工場のおじさんとか。もちろん、有名人にオファーする時もあるんだけど、基本的には俺がおもしろいと思った人に回答者をお願いして良いことになっていて。回答者が全然知らない人って、逆におもしろいとか、一般の人だから回答に親しみがあるって読者からも言われているんだ。そういえば、加島先生にも頼んだこともあったな」

「へぇ、おもしろそうだね」

 質問をしたマキちゃんが全然聞いていない様子だったので、私が代わりにリアクションした。

「町田は、いいよな。見た目もよくてフリーで色々活躍して、おしゃれなフリーペーパー作ったり。お前、絶対合コンでモテるだろ。さすが加島ゼミのエース」

「ヨッシー、絡まないの」

 小さい子をなだめるように、マキちゃんがヨッシーを諭すとみんなが笑った。笑いの中で、斜めに座る町田くんと目があった。ヨッシーたちのやり取りで笑った顔から、町田くんは改めて私に笑顔を向けた。

「お待たせしましたー」

 店員がガスコンロの上に鍋を置いた。ツマミを捻って火を付ける。

「お肉によく火が通ってから、お召し上がりください」

 店員の説明を聞き流し、マキちゃんが早くも菜箸に手に伸ばした。

 

「じゃ、俺らこっちだから。小西は、途中まで町田と一緒だろ?」

「うん、お疲れ」

 ヨッシーとマキちゃん、町田くんと私で並ぶように向かい合った。町田くんは、持っていたスマホをコートのポケットに入れてから、ヨッシーとマキちゃんを交互に見て言った。

「ヨッシー、牧野さん。今日は誘ってくれてありがとう。楽しかった」

「町田、今度は合コンしようぜ」

「あんた、彼女いるでしょ」

 ヨッシーとマキちゃんの掛け合いに町田くんは笑った。

「じゃあね」

 私たちは手を振って別れた。

「みんな、変わらないな」

 ヨッシーとマキちゃんの後ろ姿を眺めながら、息を吐くように町田くんは呟いた。

「うん」

今日みたいな、寒い12月の夜。みんなと一緒に過ごした日々を思い出す。大学生の頃、格安居酒屋でよく無茶な飲み方をした。酔っ払って店を出ても、12月の夜の寒さは一気に酔いを冷ました。けれど、ちゃんと歩いているつもりでも何でもないところでフラつく自分に、やっぱり酔っているんだとわかった。朝まで浴びるように飲んだ頃の思い出話をしながら、町田くんと私は改札に向かって歩いた。人混みの中、時折、町田くんの左腕が当たる。

「小西さん、今彼氏いるの?」

「ううん、いない。もう、かれこれ二年いないね」

「そうなの? 意外だね」

「意外って、どういうこと。町田くんは? いるの?」

「うーん」

「え?」

「彼女、いるけど……」

「けど?」

「忙しくて、あんまり会えてないかな」

「そっか」

 町田くんの左腕が私の右腕に伝わる。直接触らなくても、町田くんのコートの質感がわかる。

「ねぇ、町田くん。彼女がいるのに、いるけどっていう言い方、ずるいよ」

「え?」

「彼女がいるなら、いるよ、だけでいいのに。いるけどって言い方だと、誤解を生んでトラブルの元だよ」

 エスカレーターを上り、駅のホームに着いた。風が当たって足元が寒い。

「そうだね。俺って、ずるいね。前にも誰かにそんなようなこと言われたことあったな」

 普段は面と向かって言えないことを、お酒を飲んだ時にだけ言ってしまう私の方がずるいと思った。電車が来た。後半の町田くんの声がよく聞こえなかった。電車が来たおかげで、町田くんが言ったことに私は返答をしなくて済んだ。

 電車に乗り込む。車内は比較的空いていた。町田くんと極端に距離が近くなることもなく、ある程度の距離感を保って会話ができそうだった。ドア付近に私たちは立った。電車のドアが閉まり、私は外を眺めていた。ほんの4秒くらいの沈黙だった。

「小西さん、さっきの話なんだけど」

「え?」

 さっきの話と言われて、自分の顔が強ばるのがわかった。ずるいと、町田くんに面と向かって言ってしまったことを早くも後悔した。けれど、町田くんはそんな私に気づくことなく話を進めた。

「俺、最近、仕事で人生相談の企画担当してるって話したでしょ? その回答者、小西さんに引き受けてほしいんだ。本当は、もっときちんとした形でお願いしたかったんだけど、申し訳ない」

「人生相談?」

 町田くんはヨッシーたちと居酒屋で話していた仕事の人生相談について話し始めた。最近、SNSでも人生相談のページが見られるようになったと、スマホの画面を私の方に向けた。町田くんの話に相槌を打ちながら、私は全く別のことを考えていた。

「彼女、いるけど」

 そう、町田くんは言った。恋人がいる事実は変わらないのに、町田くんは可能性をこちらに残した。ずるい人だな、と思った。でも、その町田くんのずるさは恋愛において有効なアイテムだと私は知っている。そして、このアイテムは強い。私は自分の経験を経て、恋愛でずるい人と結ばれることはしんどいことを知った。ずるい人の前では、関心のない振りをすることでしか自分を守れない。だから、始まりそうな何かを自分で終わらせる。でも、まだ何も始まっていないのだから終わりも何もないのかもしれないけれど。

 町田くんの人生相談の話に相槌を打ちながら、私は、ずっと『さっきの話』ばかり考えていた。側から見れば、私と町田くんは同じ内容について会話をしている男女に見えるんだろう。

「小西さんの発想とか考え方って、おもしろいと思うんだ。俺、大学時代、小西さんならどう思うんだろうとか考えたりしたんだよ。だから、雑誌の人生相談、小西さんなら良い回答ができると思うんだけど、どうかな?」

 気づくと、人生相談の概要の説明は終わっていた。

 大学時代と聞いて、テストの前になると友達にノートを貸してあげていた大学生の頃の町田くんをふと思い出した。ろくに授業を受けていない人が友達からノートを借りて、ノートを貸してくれた友達よりもいい成績を取るようなことは町田くんの周りでは起きなかった。町田くんは真面目に授業を受けて、誰よりも良い成績を取っていた。頭がよくて、文化祭ではバントでベースを弾いて、おしゃれな居酒屋でバイトをしていた町田くん。頭がいいのも、ベースが弾けるのも、おしゃれな仕事をしているのも、それは今も変わらない。

「私で良ければ喜んで。ちなみに、どういう系の相談だっけ?」

「本当? ありがとう、小西さん。色々あるけど、主に人間関係と恋愛相談が多いかな」

「恋愛相談か。彼氏いない私なんかが答えていいのかな」

「そんなこと気にしないで。小西さんが思った通りに答えてくれていいから。大学の時、小西さんが話してた彼氏の話、覚えてる? 1年生の時だったかな。今くらいの時期だったと思う。バイトの忘年会であった、お酌の話」

「お酌の話? 全然覚えてない。私、なんか言ってた?」

「授業が終わって、そのまま一緒に帰った時に小西さんが話してたんだよね。バイト先の忘年会で違和感があった話を彼氏にしたらすごく嫌な顔されたって」

「えー、そんなことあったけ」

「俺、その時のことすごく覚えている。細かい内容は俺も忘れちゃったけど、小西さんの考えていることっておもしろいなと思った」

 電車が私の最寄り駅にもうすぐ着きそうだった。町田くんもこのまま電車一本で帰れるらしい。

「今度、改めて連絡させてもらうね。次は二人で飲もうよ。今日、久しぶりに小西さんに会えて嬉しかった。ありがとう」

 私が降りる気配を感じて、町田くんは先に切り出した。

「うん、こちらこそ。また飲もう」

 電車のドアが開くと、私は小さく手を振ってから電車を降りた。後ろでドアが閉まった。私は改札に向かってゆっくり歩き出した。五歩目を踏み出す時、私は電車の中の町田くんに振り返った。すると、町田くんと目が合った。町田くんは何でもないように私に手を振った。電車の中の町田くんが私より先に前に進んで行く。電車が去ったホームは、お祭りが終わったような静けさに変わった。

 町田くんの言葉はどれも使い慣れていて、言い慣れていた。言われると心地良かった。最後、町田くんのストレートな「ありがとう」に、私はうまく打ち返せなかった。「こちらこそ」で全てを誤魔化した。

 最後、名残惜しそうに電車の中の町田くんに振り返ってしまった。目が合うとは思わなかった。町田くんは、きっと、彼女にも同じことをするんだろう。期待をしそうな私がいた。目が合うと笑ってくれた顔、スマホを持っていた手、着ていたコートの質感、「いるけど」と言った声。でも、すぐにその思いを打ち消そうとする。

「仕事の依頼をしたから、か」

 町田くんの好意的な言動を一瞬にして嫌らしく変換した。期待で膨らみそうな風船にすぐ針を刺す。この作業には慣れているつもりだ。

 改札を出る。こんな時間でも人通りは多い。大学生らしき男女のグループが向こうから歩いて来た。かつての自分たちのような男女の笑い声とすれ違う。さっき町田くんと喋った会話を思いかえす。

「町田くんが言っていた、お酌の話ってなんだろう」

 すると、突然フラッシュバックのように記憶が蘇った。小さい亀裂が裂け、水が溢れるように、ありありと私は当時のことを思い出した。

 バイト先のお酌の話って、あの話か。一緒に働いていた社員の子たち、レジ袋が置かれていた在庫室。休憩室の匂い。あの頃の私と彼。立て続けに記憶が蘇る。そして、当時の痛みがチクリと今も胸に染みた。ずっと忘れていたのに消えない、ザワザワとした嫌な胸の音が鳴った。

 一通り脳内で記憶を辿ると、また町田くんの声が再生される。

「あの話、覚えててくれてたんだ」

 嬉しい気持ちが芽生えた瞬間、期待で膨らみそうな風船に私はもう一度念入りに針を刺した。

 

 ❇

 

 年が明けると、町田くんからメールで連絡があった。新年の挨拶から始まり、仕事の依頼に関することが丁寧に書かれていた。メールの最後は、今度また飲みに行きたいという言葉で締められていた。

 メールにはファイルが添付されていた。開くと4ページのフォーマットだった。1ページ目には、回答をする際の文言の注意事項などが記されていた。2ページ目以降は、1ページに一つずつ相談が記されていた。相談には全部で3つ回答するが、そのうち選定された一つが雑誌に載るらしい。

 3つか。思ったより相談が多かったことに少し戸惑ったが、私はとりあえず添付されていた4ページ全てを印刷した。私用のものなので、印刷ボタンを押すと、すぐにコピー機の前で待機した。印刷した書類を取って席に戻る途中、デスクに座っている園田くんと目が合った。なぜか、すぐに視線を外してしまった。

 あれから、園田くんとは何度かランチに行くようになった。二度目のランチを園田くんから誘われた時、てっきり台湾ラーメンを気に入ってくれたのかと思ったら、園田くんのおすすめの店に連れて行かれた。手打ちパスタが評判のイタリアンのお店だった。さゆりが好きそうなお店だなと思った。メニューを見ると、ティラミスのデザート付きランチセットがあった。

「ティラミス、美味しそう」

 ティラミスを食べてみたかったけれど、二度目のランチでデザートセットを頼むのはなんだか浮かれているみたいだな、と思った。だから私はティラミスを諦めた。結局、ドリンク付きのランチセットを選んだ。

 次の日、さゆりにその話をした。デザートセットを頼むのは浮かれているみたいだと話す私に、さゆりは笑って言い放った。

「浮かれているみたいじゃなくて、浮かれていたんでしょ?」

 違う、と私はすぐに否定した。

「私、ティラミスがあんまり」

 慌てて私は付け加えた。

「唯、かわいいね」

 さゆりは優しく言った。きっと、新入社員の園田くんのことをかわいいと言っていた『かわいい』とは違う。

 さゆりに指摘される前から、私はきっと気付いていた。仕事の話をするわけでもないのに、園田くんがなぜ私をランチに誘うのか。園田くんから二度目のランチの誘いに浮かれている自覚があったからこそ、私は意識しすぎてデザートセットを頼めなかった。

「イタリアに行ったことあるの?」

 パスタを食べ終えてから、私は園田くんに聞いた。

「行ったことないです」

「イタリアに行ったことがないのに、パスタが好きなんだね」

 私と目が合うと、園田くんはいつもの人懐っこい笑顔を見せた。パスタのお皿が下げられて、セットのコーヒーが出てきた。

「この前とは違うね」

 コーヒーを一口飲んで、私はそう言った。この前とは違う。歩きながらではなくお店で、横並びではなく対面で、私たちはコーヒーを飲んでいる。

「今日は、アイスコーヒーじゃないんだね」

 ホットコーヒーを飲む園田くんに私は笑いかけた。園田くんのいつもの笑顔が見たくて言った自覚があった。

 パソコンを消して、さっき印刷した書類をカバンに入れる。部長のデスクに行き、今日は打ち合わせの後は直帰で、もう会社には戻らないことを告げた。

「ミドル食品との打ち合わせ行って来まーす」

 オフィスを出て、廊下を歩き、エレベーターの前に立った。後ろから、園田くんが声を掛けてきてくれたらいいな、と背中が期待をする。でも、期待をした時に限って声を掛けられた試しがない。エレベーターの扉が開く。私は誰もいないエレベーターに一人で乗り込んだ。【閉める】のボタンを押しても、諦めずに期待をする私をエレベーターの扉が静かに閉めていった。

 

 相変わらず、館林さんは打ち合わせを切り上げるのが早かった。帰り際、エレベーターを待つ間館林さんにお正月の過ごし方を聞かれた。

「実家に帰って食っちゃ寝でした」

 そう言って私は笑った。

「ですよね。お正月くらいゆっくりしたいですよね」

 館林さんは、なぜか開き直ったように同意をしてくれた。それがなんだか可笑しくて、私も何度も笑って頷いた。

 毎年、お正月は実家に帰った。実家の安心感と、同級生の結婚の報告を受けて過ごすお正月は3年前くらいから続いている。休みが明け、実家から一人暮らしの家に戻ってくると、いつも少しだけ寂しい気持ちになった。でも、すぐに一人の楽さに慣れる。仕事が始まると寂しさが忘れられるからちょうどよかった。

 時計を見ると、7時10分前だった。館林さんとの打ち合わせは、30分以上早く終わった。館林さんは、きっと私より年下だけど仕事ができる人なんだろう。余計なことを省き、打ち合わせはいつも短いのに濃い内容について話す。素直に見習いたいと思った。

 駅に向かって歩いていると、この前舘林さんとの打ち合わせの帰りに寄った雑貨屋が見えた。夜、ここの道を歩くのは初めてだったことに気がついた。雑貨屋で見つけたあの青いワンピースは、まだあるのだろうか。時計を見ると7時ちょうどになっていた。私は雑貨屋のドアに手を掛けた。カウンターには、この前もいた店員が立っていた。外の冷気を感じて、顔を上げて「いらっしゃいませ」と店員は声をかけた。

 私は一直線にハンガーラックに向かった。この前の青いワンピースを探す。けれど、ワンピースは見当たらなかった。もし、あのワンピースが高価な物だったらどうしようかと悩んだが、結局、私は店員に声をかけた。

「すみません。前、ここに来たときに青いワンピースがあったんですけど、あのワンピースはまだありますか?」

「申し訳ございません。あのワンピースはもうないんです」

「……そうですか」

 私は残念そうに、視線をハンガーラックに戻した。すごく損をした気分になった。本音を言うと、あの青いワンピースが私はどうしてもほしいわけではなかった。たまたま打ち合わせの後に立ち寄っただけで、今日あのワンピースを買うと決めていたわけではない。けれど、自分がちょっと気になっていた物が誰かの手に渡ったとわかった途端、ものすごく惜しいことをした気分になる。大して欲しい物ではないけれど、人の物になると欲しくなるのはなぜだろう。そんな気分は恋愛でも起こることがあるな、と思った。

「だから不倫とか略奪が起こるのか」

 そう確信しそうになったが、ちょっと飛躍し過ぎかもと思い直した。

 用件が終わってしまった私は、前回聞き損ねた質問を店員に尋ねた。

「ところで、ここは何のお店なんですか? 値札とか見当たらないですけど、アンティークショップですか?」

 私は店内を見回し、店員に目線を戻した。

「ここは、ヒント屋です」

「ヒント屋?」

「はい。ここに置かれている物は、売り物ではなく全てヒントなんです」

 そう言いながら店員はカウンターから外に出てきた。何かの勧誘でもされるのかと思い、思わず私は身構えた。けれど、私の反応に慣れているように店員は手短に説明を始めた。話を聞くと、どうやら怪しいお店ではないことがわかった。そして、ずっと店員と思っていたこの人は、ヒント屋の店主だと知った。

「へぇ、ヒント屋さんか。珍しいお店ですね。でも、本当にお金は払わなくていいですか?」

「はい。お金に代えられない物が大事なヒントになります」

「そうは言っても、利益がなければお店の経営は続かないですよね」

「みなさん、そうおっしゃるんですが、私は早期退職をしまして貯金や退職金を切り崩しながら細々とやっております。ですので、どうぞご心配なさらず」

 店主の話に私は少しだけ羨ましさを抱いた。私も歳を重ねて、仕事の重圧から解放された後、利益にはならなくてもやりたいことをやっている大人になっているんだろうか。でも、それを実現させるためにも今はがむしゃらに働くしかない。

「もし今、私が悩みを打ち明けたらヒントをもらえることはできるんですか?」

「もちろんです」

 店主は話を戻すようにキリッと笑った。

「ヒントをもらった後は、今度は私がここにヒントを持ってくればいいんですよね?」

「そうです。その通りです」

「そしたら、今からお願いしてもいいですか?」

「どうぞ」

 店主はカウンターの椅子を勧めてくれた。

「よかったらコートも脱いで、楽にしてくださいね」

 店主はカウンターの中へ戻っていく。私はコートを脱いで、自分が座る椅子の背もたれにコートを置いて座った。

「よかったら、コーヒー飲みませんか?」

「はい。ありがとうございます」

 私は軽く頭を下げた。店主はヤカンに火をかけた。店内にほのかにコーヒーの香りが漂い始める。カウンターにコーヒーが置かれ、店主がノートを開いた。

「では、早速お話聞かせてください」

 店主がこちらを見て聞いた。

「あれ?」

「どうかされましたか?」

 間を持たせるように私は店主が淹れてくれたコーヒーを一口飲んだ。それから、思わず笑ってしまった。

「悩みって、私の悩みって何だろう?」

 店主が首を小さく傾げた時、所在が分からない不透明の部分を私は話し出していた。

 

 ❇

 

「俺、ああいうの、全然想像つかないわ。唯は子どもとか興味ある?」

 水族館で大きなエイにはしゃぐ親子連れを見ながら、そう彼は言った。3歳くらいの男の子が、幼い声で「あっち」とエイを指差していた。私は、ただただ親子連れを眺めているだけで何も言わなかった。

 最後に付き合った彼氏は、結婚願望が無さそうな人だった。私は、当時25歳になったばかりで、彼は4つ上の29歳だった。いわゆる飲み会ってやつで知り合って、意気投合して付き合うことになった。一緒にいて楽しい人だった。でも、今思えば、どこかでやっぱり無理をしていたのだと思う。私だけでなく、彼も。だから、私の26歳の誕生日に、水族館でのデート中エイにはしゃぐ親子連れを微笑ましく眺めていた私に、彼はわざわざあんなことを言ったのだろう。仮に、私があの親子連れを見て彼に結婚を催促するような発言をしたのなら彼のあの発言もわからなくはない。いや、それでもあの突き放すような言い方はないとは思うけど。

 彼は怖かったのかもしれない。私が親子連れを見て、彼との将来を想像していることが。彼が怯えるその将来には、愛や幸せ以外のものの比重が重かった。責任とか、我慢とか、自由が奪われる恐怖とか。

 あの時、私はあの親子から彼との将来を一ミリも想像なんてしていなかった。子どものお父さんが裏生地らしいデザインの服を着ているのかと思ったら、本当に表と裏を逆に着ていたのだ。後ろの首の辺りに、Lと書かれたタグが見えた。お父さんが洋服の裏と表が逆だと気づくのはいつだろう。きっと本人が気づいた時、エイにはしゃいだようにお父さんは無邪気に自分のお茶目さに笑うのだろう。背中にタグを見せながら、お茶目にはしゃぐお父さんがなんだかすごく微笑ましかった。

 彼は、自分から私に投げかけた質問の答えなど興味無さそうに、親子の側から立ち去った。立ち去って行く彼の横顔を見て、私は冷静に彼との別れを決断した。

 後日、同期のさゆりや真由、大学の友達のマキちゃんに別れたことを告げた。

「なんで?」

 みんな口を揃えて別れの原因を聞いた。水族館での彼との出来事を話すと、さゆりと真由は、「それはないね」と言った。でも、マキちゃんの反応は違った。

「あなたとの将来を考えていたわけじゃない。お父さんの背中にタグが見えて、それが可笑しくて笑ってたの」

 そう言えばよかったのに、とマキちゃんは納得しない顔で私に詰め寄った。

「あなたとの将来を考えていたわけじゃない、と言った相手との将来も、きっと笑えないよね」

 私は冷静にマキちゃんに言い返した。努めて明るく笑った。

 彼氏と別れた理由や原因を誰かに聞かれた時、わかりやすい話に偏ってしまうことはよくあることだ。大概の人は、聞いた話だけが別れた原因の全てだと思ってしまうだろう。私だって人から聞いた話で、「そんなことで別れるのか」と思ってしまうことがある。でも、本当に別れる理由なんてものはもっと別のところにも転がっているのだと思う。

「お待たせ、って唯は言わないよね」

 水族館で、トイレから戻った私に彼は言った。彼の言葉には明らかに誰かとの比較が含まれていた。

「誰と比べてるの?」

 聞きたいけど聞けなかった。彼との距離感は縮まらなかった。

 人に話す程ではないエピソードの中に、別れる原因って転がっているんだと思う。一度くらいなら刺されてもそんなに痛くはないけれど、刺され続けると地味に痛いところに別れる理由はあるのかもしれない。

「今日のお土産で、エイのぬいぐるみ買ってかえろうか」

「やったー!」

 親子連れの水族館のお土産がエイのぬいぐるみと決定した側で、私は誓った。昔の恋人に未練があって、結婚願望がない人とはさっさと別れて可能性がある人に切り替えようと私は強く誓った。でも、2年経った今。結婚どころか彼氏もいない、そんな状況だ。

 

 店主は時々メモを取りながら、私の話を聞いていた。チラッとメモを覗いたが、字が汚さすぎで読めなかった。

 私はコーヒーに視線を落として話を続けた。

「私、元々、異性と話すのが得意じゃないんです。だからと言って、相手の話を、うんうんと黙って聞き役に徹するのも苦手で。頑張って聞き役に徹していたこともあるんですよ。でも、やっぱり好きな人とは何も気にせずいろんなことを話したいです。でも、恋人になる前の段階でも、自分が話す時にこれを言ったら相手に嫌われるかな、とか考えちゃって、うまく会話ができなくなるんです。一緒に食事をしても自分が頼みたいものを素直に頼めなくて、これを頼んだら変かな、とか色々考えちゃうんです。やっぱり、過去の恋愛を引きずっているんですかね。自然体でいるって難しい。どうすれば好きな人の前でも、いつもの自分でいられるのかが分からないんです」

 冷めたコーヒーを一口啜った。ソーサーにカップを戻す時、添えられたスプーンが一瞬カップの下敷きになった。

 正直、自分が何に悩んでいるのか、わからなかった。何の相談をしているのか自分でもよくわからない。過去の恋愛の話をしているのに、町田くんのことが頭に浮かんだり、園田くんとの具体的な話を避けながら、ずっと園田くんのことを考えて話していた。着地点が見当たらない。まとまらない話をダラダラと話している感覚があった。

 私の悩みは、過去の恋人に言われて傷付いた話なのか。それとも、好きな人にどう距離を詰めればいいのかわからない話なのか。自分が何に悩んでいるのかがわからないというのが一番厄介だった。自分が何に悩んでいるのかを正確に把握できれば、あとはもう解決に向かうだけだ。

 店主は腕を組んで考えていた。そんな店主を見て、これで今日の夕飯のこと考えていたらおもしろいな、と全然おもしろくないことを私は考えていた。

 すると、店主はくるりと後ろを向いて、近くにある冷蔵庫に手を伸ばした。冷蔵庫の扉に付いているマグネットを外して、ペラリとメモ紙を取った。そして、私の前にその紙を置いた。

「今回、私が差し上げるヒントはこちらになります」

 私はメモ紙を手に取ると、書かれている文字を目で追った。

【玉ねぎスープのレシピ】

 中学生くらいの男の子が書いたような字で、玉ねぎスープのレシピが書かれていた。決して綺麗な字とは言えないが、丁寧に書いたことは伝わる。説明書きの横に玉ねぎや鍋のイラストが描かれていた。

「レシピ、ですか」

 どんなヒントが渡されるのかと期待していたが、まさかレシピを渡されるとは思わなかった。私が拍子抜けしていると、店主は静かに言った。

「ここではヒントの期限などはございません。ゆっくりヒントと向き合ってみてください。この玉ねぎスープのレシピに何を思うかは、あなたの自由です。今度またお店に遊びに来てください。その時は、きっとご自分のヒントを持ってこられるだろうと私は思います」

 顔を上げると店主と目が合った。

「私からは以上です」

 これ以上何か聞いても、はぐらかされそうな笑顔だった。

「わかりました。ありがとうございます」

 私はもらったヒントが折れないように、今日印刷した書類が入ったファイルの中にメモ紙を丁寧に入れた。

「上手くいくといいな」

 独り言のように私は呟く。

「大丈夫」

 店主はゆっくり頷いた。なんだか店主は年の離れた友達のようだった。私はお礼を言って椅子から降りた。椅子から降りたと同時に私のコートが床に落ちた。

 

 ❇

 

 会社を出て、私の3メートル先に園田くんの背中が見えた。今日は金曜日。明日は休み。時計を見ると19時36分。条件は全てクリアしていると思った。しかし、一番の不安要素は今日園田くんに予定があるかもしれないということだ。断られても傷つかないように。自然体を心がけて、園田くんに近寄るため歩調を早めた。

「園田くん、お疲れ」

 園田くんはパッとこちらに振り向いた。

「小西さん、お疲れ様です」

「寒いね」

「寒いっすねー」

 園田くんは持っていたスマホをコートのポケットにしまった。

「金曜日って、街が少し浮かれている気がするよね」

「明日、休みですもんね」

「そうだね……」

 いけ。

「園田くん、もし今日予定なければ、これからご飯行かない?」

 断られても傷つかないように。

「いいっすね。行きましょう」

 園田くんはあっさりと答えた。私は自分の顔がニヤつくのがわかった。ニヤついていることを隠すようにマフラーに顔をくっ付ける。

「どこ行こっか。園田くん、何食べたい?」

「やっぱ、肉っすかね」

「肉か。牛? 豚? 鳥」

「うーん」

「焼き? しゃぶ? 串、鍋」

 私はコートのポケットから手を出して、指を折ってみせる。

「なぞなぞみたいですね」

 園田くんは楽しそうに考えた。

「焼きは、焼肉でしょ。しゃぶは、しゃぶしゃぶ。串は焼き鳥。鍋は……。鍋? 鍋って何ですか?」

「鍋は鍋だよ。もつ鍋とか。鍋にも肉は入ってるから」

「鍋は、鍋か。うーん、鍋の気分じゃないですねー」

 園田くんは少し考えるように上を向いた。

「小西さん、煙の匂い平気ですか?」

「洋服? 平気だよ」

「じゃぁ、焼き鳥で」

「そっち? 焼肉じゃなくて?」

「あ、焼肉も煙出るか。いや、この前、小西さんの部署の飯塚さんたちと行った焼き鳥屋が美味しかったんですよ。そこ、行きませんか?」

 

 金曜日だからか、園田くんが教えてくれた焼き鳥屋は混んでいた。テーブル席は空いていなくてカウンターの席に通された。

 席に着くと、飲み物だけ先に店員に聞かれた。二人ともビールを注文した。ビールを待つ間、それぞれメニュー表を見つめた。園田くんは自分が持っているメニュー表を私に見せながら、「これ、美味いっすよ」「これも美味いっすよ」を繰り返した。私はその度、「じゃぁ、それで」と「じゃぁ、それも」を繰り返した。

「注文いいですか?」

 ビールが運ばれてきたタイミングで、園田くんは店員に注文をする。注文を終えると、店員は調理場に向かって大声で何か言いながら去っていった。

「あ、」

 メニュー表をテーブルに置くと、園田くんは私に顔を向けた。

「俺、適当に頼んじゃいましたけど、注文した中に小西さんの苦手な物とか食べられない物ありました?」

「え?」

 園田くんは私を見て聞いた。私は園田くんから視線を外し、笑わないように気をつけながら小さい声で答えた。

「パクチー」

「え?」

「私、パクチー苦手」

「パクチー……」

 園田くんは私の回答に初め戸惑いながら、最後は意図を汲んで笑った。

「ささみの梅和えに大葉入っているんで小西さんは食べられないですね」

 園田くんはふざけて言ってみせた。

「大葉とパクチーは全然違うでしょ」

 私は口角を上げて笑った。

「乾杯しましょう、乾杯」

 園田くんは笑いながらジョッキを持ち上げた。

「小西さん、乾杯」

 コン、とジョッキがぶつかった。ジョッキに隠れて私は園田くんの顔を見た。園田くんと初めて飲むお酒の席に浮かれている自覚がはっきりあった。焼き鳥屋にパクチーがないことはわかっているのにつまらないボケをした。しょうもないボケで浮かれている自分の照れを隠したつもりだった。

 2杯目の私のビールと、3杯目の園田くんのハイボールが来て、私は少しずつ解放されていった。園田くんにいつから彼女がいないのかを聞くと、就職して2年目で別れたから4、5年くらいだと言った。別れた理由を聞くと、彼女は大学の後輩で、いわゆる環境が変わって別れたやつです、と言って園田くんはハイボールを飲んだ。

「よくあるやつね」

 それ以上は聞かず、私もまたビールを飲んだ。

 横見ると、私の左隣に私たちと似たような男女が座っていた。彼らはどんな関係なのだろう。それは向こうも同じことを思うのだろうか。

「俺、大学生の時めちゃくちゃ太ったことがあって」

 園田くんは、大学時代つけ麺屋でバイトをしていたことを話し出した。賄いでつけ麺ばっかり食ってたらすぐ太りました、と園田くんは笑った。

「小西さんは大学時代、何のバイトしてました?」

 園田くんは右耳の裏を掻きながら私に聞いた。

「私も大学生の時、色々バイトしたなー。コンビニでバイトしたこともあったし、居酒屋でなぜかキッチンやらされたこともあった。でも、はじめてのバイトはホームセンターのバイトだったんだ。そこのホームセンターはバイトより社員の方が多いところでね。その社員の中に、当時私と同い年の女の子が2人いたの。彼女たちは高校を卒業してそこのホームセンターに就職した子たちだった。私は大学生でバイトだったんだけど、社員の女の子たちとは同い年っていうのもあって仲が良かったの。3人でクリスマスパーティーやったり、よくみんなでうちに泊まりに来たことあった。12月の下旬頃だったかな、そこのホームセンターの会社で忘年会があったの。社員の人たちは全員参加することになっていたんだけど、バイトの人は自由参加で。ある日のバイトの休憩中、いつもみたいに私たち3人で喋ってたのね、社員の子2人と私で。そしたら、2人のうちの1人の子が明日の忘年会の話をし始めて。私は、その忘年会の日、予定があって行けなかったから「どこのお店でやるのー?」とか聞いたら……。いや、ごめん。これ全然大した話じゃないからいいや。ごめん、つまらない話をして。気にしないで。なんか、いきなり話すスイッチ入っちゃった」

「それで?」

 慌てて話をやめようとする私を園田くんは遮った。

「本当、大した話じゃないから」

「それで?」

 園田くんはもう一度遮った。話の途中なのに、話を止めれば誰だって続きが気になる。そうやって、自分の話を聞いてもらいたくて気を引く為に言っている面倒な女だと思われてないか心配だった。

「大した話じゃなくてもいいです。小西さんの話聞きたい」

園田くんと目が合って、私は降参するように前を向いた。話し出す前にビールを一口含んだ。

「それで、社員の女の子の一人が言ったの。明日の忘年会で、店長とか先輩にお酌するのだるいなーって。そしたら、もう一人の女の子も「だよねー。うちら下っ端だし、お酌しなきゃいけないもんね」って言ったの。「お酌してたら、飲み会でまともにご飯食べる暇なんてないよねー」って。なんかね、二人の会話聞いていて、私「あれ?」って思ったんだよね。その時の二人の顔が妙に得意げというか、「まぁそういうもんだからね」って納得している二人に私は話がついていけなくて。「なんで後輩だからってお酌しなきゃいけないわけ?」って、彼女たちが憤っていたら、なんとなく気持ちはわかるの。でも、そうじゃなくて。やりたくもないお酌をすることが、さも社会人を全うしているかのような二人の言い方に私はすごく引っかかって……」

 カウンター越しの調理場で焼き鳥の煙に炎が混ざった。一瞬ライトが付くように、パッとオレンジの炎が灯される。その炎はすぐに消え、どこか儚げに見えた。

 あれから、ずっと考えていた。ヨッシーたちと飲んだ帰りの電車で町田くんから言われて思い出した懐かしいこの話を、ずっと誰かに話したいと思っていた。その誰かは、さゆりでも真由でもマキちゃんでもなく、園田くんだということを私は気づいてしまったんだ。それなのに、さっき園田くんに話すのをやっぱり躊躇ってしまった自分を少し情けなく思った。

 園田くんの横顔を一瞬見て、私は話を続けた。

「後輩だからお酌をしなくちゃいけない、そういう世界があることは知ってる。私だって、失礼がないように最低限のマナーや気配りが飲み会で必要なことは覚えたから。でも、それって相手を敬うとか日頃の感謝とか、そういう気持ちから自然に発生するものだと思うんだよね。ただ後輩だからって嫌々お酌を義務付けられるのとは少し違うというか。「後輩なんだから先輩にお酒注いで」って言う人に、なんで後輩だからやらなきゃいけないんですかって聞いたら「後輩だから気を使いなさい」みたいな答えが多分返ってくるでしょ? 後輩は先輩をたてろ、みたいな意味が含まれていると思うけど、でもそれって本当に答えなのかな。勘違いしてほしくないのは、後輩が先輩に失礼なことをしていいって言っているわけじゃないの。それは先輩後輩に関わらず、大前提に人として失礼がないようにすることは大事だよ。でも、お酌をしないことってそんなに失礼に値するのかな。お酌をするのって、お酌する人が相手に敬意とか尊敬の気持ちがあるからするのであって、お酌そのものを後輩が押し付けられることには、ちょっと疑問が残るんだよね。飲み会の場で、お酌っていう形だけが残っちゃって、とりあえず後輩がやらなきゃいけないみたいなことになってると思うんだ。だから、変な風習に困っている人とか不快感を抱いている人もいると思うんだよね。お酌をしてたら、ご飯がまともに食べられない飲み会なんて変だよ。後輩だからって理由で。でも、もちろんお酌が好きな人もいるよ。そういう人が悪いって言っているんじゃないの。お酌を手段としてコミュニケーションを取れる人もいる。でも、うまく立ち回れない人だっているでしょ? 器用に生きられない人だっている。私が言いたいこと伝わるかな。つまり私は何が言いたいかって、その社員の女の子たちが理不尽なことに疑問を持たずに、ただ耐えることが社会人であると捉えているように私には見えたの。それが、私には違和感を覚えてしまって。でも、私も働き始めて彼女たちが言っていた言葉の意味もわかるようになった。そういう処世術を身につけることで得することもある。元々、自然にそういうことができて可愛がれる人もいる。だけど、私はね、園田くん。形だけの敬意っていらないと思うんだ。本当に尊敬する人や感謝している人には、自然とそういう振る舞いになるものだと思うし。でも、私は当時大学生で、彼女たちになんて言えばいいのかわからなかった。社会人でもない私に偉そうなことを言われたくもないとも思ったから」

 園田くんはテーブルに肘を付き、両手を組んで聞いていた。園田くんのまつ毛が揺れる。園田くんのまつ毛が長いことは知っていた。今見ても、やっぱり長いな、と思った。

「でも、この話私が大学生の頃の話だから。10年くらい前のことで今は飲み会で後輩だからってお酌をさせるのはパワハラだ、セクハラだって厳しくなってきたよね。こういう話自体、古い感覚になりつつあるのかな。でね、ごめん。この話、まだ終わりじゃないんだ。実はここからが本題で……」

 園田くんは不意を突かれたような顔をしてハイボールを一口含んだ。うん、と頷いて黙って私の話の続きを促した。

「それでね、この話を彼氏に話したの。当時付き合っていた彼氏に。バイト先でこんなことがあって、違和感があってさ、って話。私が思ったことを今みたいに一通り話したんだ。そしたらね、当時の彼氏が言ったの。「唯って、そういうタイプの人なんだ」って。そういうタイプって、どういうタイプ? って、思ったんだけど。彼の言い方は冷たかった。面倒くさい奴だなって思ったのかな。彼の中ではっきりと私は何かに分類されたんだよね。今思えば、意見をしにくいような話をしてしまった私が悪いのかもしれないけど。「そういう重い話じゃなくて、もっと楽しい話しようよ」とも彼に言われた。「じゃぁ、楽しい話ってたとえば何?」って私、聞いたの。そしたら、「今日ケーキ食べたんだ、みたいな話」って言われて。「今日ケーキ食べて美味しかったみたいな、たわいもない話?」って彼氏に聞いたら、「そうそう。そういうケーキみたいな話」って言われた。何だ、それって私思って……」

 大きめの一口でビールを飲んだ。そして、私は気持ちをぶつけるように強調して話を続けた。

「私はね、その彼に社会人の女の子たちを一緒に非難してほしかったわけじゃないんだよ。ただ、私が話した話題に意見をくれたり、彼の考えを話してほしかった。私に同意なんてしなくてもよかったの。たとえば、先輩ばっかりで居心地の悪い飲み会はお酌で間が持つから、実はその女の子たちはお酌が嫌じゃなかったかもよ、とか。形だけの敬意の何が悪いの? とか。なんでもいい。解釈や考えを聞きたかった。だって、解釈や考えを聞くことで彼のことが知れるでしょ。私は彼を知りたかった。

 確かに恋愛関係の始まりは、「今日、ケーキ食べて美味しかった」とか「今度、一緒にケーキ食べよう」みたいな、たわいもない会話から二人の関係がスタートするのかもしれない。でも、いつまでケーキの話するの? ケーキ食べて美味しかった話から、お互いのことってどれくらいわかるの? ……ケーキが悪いんじゃないよ。ケーキは美味しいものだから」

「わかるよ」

 園田くんは静かに頷いた。園田くんの優しい相槌が私の喋りを滑らかにさせる。

「それから、私、彼と何を話していいかわからなくなった。私の話って、つまらない話なんだって自分を責めたりもした。だって、私が話したお酌の話が彼にとって『重い話』なら、私の話なんてほとんど『重い話』になっちゃうよ。何か話せば、また私は彼に分類されるかもしれないと思うと言葉が出なくなった。彼に話す前に考えるの。これは、『ケーキの話』かな? たわいもない話ってどんな話をすればいいんだろう、って。これは、『お酌の話』かな? また重い話って言われないかな、って。考えると、どんどん彼と会話ができなくなった」

 私が一呼吸置くと、隙を見つけたように園田くんは口を開いた。

「小西さんの話を俺は重いと思ったことはないですけど、『お酌の話』って要はその人の意見を求められる話ってことですよね。普段、自分の意見を言わない人からすると重い話と受け取られるのかもしれないですね」

 園田くんの要約には優しさが含まれていた。私の言いたいことが園田くんに伝わっているのだと、私を安心させた。

「私、たわいもない話が嫌いなわけではないよ。むしろ幸せを感じる瞬間って、たわいもない会話だと思う。でも、たわいもない会話に幸せを感じられるのは、たわいもない関係じゃないから思えるんだよ。付き合うってさ、その人のことをもっと深く知りたいからだと思うんだ。相手はどう思うんだろうって気になるし、好きだから相手をわかりたいし、好きだから自分を知ってもらいたい。時には衝突することもあるよ。でも衝突しても良いんだよ。だって違う人間なんだから。衝突を避けて、相手の表面しか見ないで、ケーキ食べて美味しかったって話はもう十分。私は一歩踏み込んだ話がしたいよ、園田くん」

 最後の言葉は園田くんに向けて言っているようで、自分に向かって言っているのだと気づいた。

 横を見ると、私の左隣に座っていた男女はいなくなっていた。久しぶりにこんな長いこと喋ったような気がした。でも「言わなきゃよかった」と、いつもの後悔はしなかった。でもそれはお酒の力なのか。酔いが冷めたら、園田くんに話したことを後悔するんだろうか。

 園田くんは上の方を向いて何かを考えていた。ハイボールを飲んで十分に間を持たせてから口を開いた。

「『ケーキ』の話って楽ですもんね。傷つかないし、それこそ衝突もないし。小西さんは『お酌』の話をしたのに彼氏はそれに向き合わなかった。拒絶というか、逃げたというか。「そういうタイプなんだ」って小西さんのことを分類したのも言葉は悪いですけど捨てる方に分類したんだなって、俺は思います。人間関係でもあるじゃないですか。この人は自分とは違うタイプ、この人は自分と似たタイプ、みたいに分ける感じ。その彼は自分とは違うって切り離して捨てる方に分類したんだと思います。それも一種の拒絶というか、逃げというか。拒絶とか逃げって聞こえは悪いですけど俺はその彼の気持ちもわからないこともないです。拒絶とか逃げって結局は自分を守る防御ですから。

 あと、小西さんの話聞いていて思ったんですけど、小西さんがお酌の話をした時、単に彼のタイミングが悪かったのかなとも思うんですよね。疲れていてちょっと色々考えるのがしんどいって時あるじゃないですか。でも結局その彼とはうまくいかなかったのは、関係を築くスピードとか関係の築き方とかが小西さんとは違ったのかもしれないですね。波長が合う、合わないってありますから。『ケーキの話』8割、『お酌の話』2割の会話がちょうどいい人たちもいれば、『ケーキの話』2割、『お酌の話』8割の人たちもいる。だから小西さんとその彼とは配分が違っただけですよ」

 そう言うと、園田くんはジョッキを握った。でも握っただけでハイボールを飲もうとはしなかった。右横を向くと、黙ったままの園田くんが言うか言わないか悩む顔で上を見ていた。すると、園田くんは話し出す前にハイボールを呷った。

「それと、前から思っていましたけど小西さん自分の話をつまらないとか変に考えない方がいいっすよ。過去に小西さんは彼氏に踏み込んだ話をしたのに拒絶されて傷付いたんだと思います。俺だって、好きな人に自分の話を重い話って言われたら悲しいですよ。でも、だからって小西さんそんなに自分を責めなくていいんです。自分の話が悪いんだって思わなくていいんです。俺は小西さんと喋ってる時楽しいですよ。もっと話をしたいと思う人です。なのに、俺と話している時も小西さん自分が話し過ぎたと思うとサッと自分を抑えるでしょ? なんで距離取ってくるんですか? 俺、小西さんが色々話してくれたらすごく嬉しいのに。もっと自由に話してくださいよ。小西さんがおもしろい人なの、俺知ってますから。『お酌の話』もっとしましょうよ。『ケーキの話』だって小西さんとなら俺は楽しいから」

 そう言って、園田くんは照れくさそうに残りのハイボールを飲み干した。きっと、園田くんのハイボールは炭酸が抜けていると思った。私も釣られるように残り2センチのビールを飲み干した。私のビールも炭酸は抜けていた。空のジョッキにビールの小さな泡が降りていく。そのスピードはやけにゆっくりだった。

「園田くん、ずるい」

「え、俺?」

 園田くんは首を前に突き出して笑った。「なんでぇ」と独り言のように園田くんは笑う。返答に困って間を埋めようとジョッキを握ったけれどビールが残っていなかったのでおしぼりで口を拭いた。園田くんに言われて嬉しかった気持ちを私は素直に言葉にできなかった。ありがとう、と照れ臭くて言えなかった。園田くんは率直な人だ。ずるい人ではない。ずるくない人をずるいと言ってしまう私が一番ずるいのかもしれない。

「そろそろラストオーダーになります」

 店員が後ろに立っていた。

「小西さん、同じのでいいですか?」

 園田くんは私のジョッキを指した。注文をする園田くんの耳をこっそり盗み見た。盗み見る園田くんの耳はいつも左耳だった。店員が去っていくと、園田くんは前を向いた。

「なんで俺がずるいんですか。全然ずるくないっすよ、俺」

「園田くんはずるいよ」

 園田くんはケラケラと笑った。

「園田くんって鈍いよね。さっきから口説かれてることに気づいてないし」

「口説かれてる? 誰に?」

「私に」

「え? 小西さんに口説かれてる?」

 意味がわからないといった顔を私に向けて、園田くんは聞いた。

「そんな話してましたっけ?」

「してたよ。私、さっきからずっと園田くんのこと口説いてるのに」

「え? 俺、小西さんにずっと口説かれてたんですか?」

「そうだよ。だって私さっきから『お酌の話』しているでしょ。あれは口説いてるんだよ」

「え? あれ、口説いてたんですか?」

 独特っすね、と園田くんは小さい声で呟いた。

 園田くんが前を向いたので今度は私が園田くんの横顔を見つめた。園田くんの長いまつ毛が動く。まつ毛に触れたい、そう思った。

「園田くん。最後に独特の口説き文句言っていい?」

「え? ……はい。どうぞ」

 園田くんは口元を緩ませた。私の顔を覗くように言葉を待った。

「この前打ち合わせの帰りにヒント屋キタミってお店に行って、玉ねぎスープのレシピをもらったの」

 顔を向けると園田くんと目が合った。

「ヒント屋? 玉ねぎレシピ?」

 園田くんは考えるような顔をした。

「園田くん、今度うちに来て一緒に玉ねぎスープを作らない?」

 一瞬の間をあけて園田くんはいつもの顔を見せた。

「やっぱ、小西さんって独特っすね」

 園田くんが笑うと、店員がハイボールとビールをテーブルに置いた。

 

 ❇

 

 カウンターに置かれたフリーペーパーに店主は手を伸ばした。

「大学の友達にフリーペーパーで働いている人がいて、その友達から人生相談のコーナーで回答者を頼まれたんです」

 私は店主が持っているフリーペーパーを無言で取ると、人生相談のページを開いた。アンサーと書かれた文字の横に小さい枠の中で笑う私を見つけると、「本当だ」と店主は笑った。

「それで、ここに持ってくるヒントをどうしようかなって考えていた時に閃いたんです。悩み相談をヒントとして持っていくのはおもしろいかもって。悩んでいる相談者に他の人の悩み相談をヒントで渡すって、ちょっと斬新でしょ?」

 自慢するように私は言った。そして、A4サイズの紙を2枚、カウンターに置いた。

「今回、フリーペーパーで回答した相談は全部で3つだったんですけど、そのうちの一つがここに載って、残り2つは採用されなかったんです。だから、その残り2つの相談をヒントとして持ってきました。あ、ちゃんとフリーペーパーで働いている友達にも許可は取りました。個人が特定できないようにしてもらえれば問題ないって」

 私は2枚の紙を交互に見つめた後、紙を重ねて店主に差し出した。

「悩み相談がヒントですか。おもしろいヒントですね。素敵なヒントをお持ちくださり、ありがとうございます」

 トントンと2枚の紙を揃えてから、店主はカウンターの下にヒントを入れた。

「よかったら、これもどうぞ」

 私はフリーペーパーを店主に差し出した。

「ありがとうございます。あとで、ゆっくり読ませていただきますね」

 店主はペコリと頭を下げた。

「ところで、今回差し上げたヒントはどうでしたか? お役に立ちましたか?」

 私はクスッと笑って、あの日の夜のことを思い出した。店主が首を傾げたので、まずは園田くんとの経緯について私は話し始めた。

 

「小西さんってやっぱりおもしろい人ですね」

 あの日の夜。園田くんと行った焼き鳥屋で、私は園田くんに回りくどい告白をした。園田くんも私と同じ気持ちだった。園田くんは私とは対照的にストレートな表現で気持ちを伝えてくれた。

焼き鳥屋を出ると、園田くんは真っ直ぐ駅に向かって歩き出した。私は少し苛立っていた。もっと園田くんと一緒にいたかった。私は帰りたくない気持ちのまま、園田くんに付いて行くように駅まで歩いた。

「小西さん。来週の土日、空いてますか?」

 途中、園田くんが私に聞いた。ぶすっとした顔のまま、私は何も答えなかった。もっと一緒にいたい。素直な気持ちは言葉にできなかった。私は帰りたくない気持ちを不機嫌な態度をとることでしか表現方法を知らなかった。不機嫌な私に、園田くんはきっと困っていただろう。けれど、二人の間で起こる意図的な沈黙が私たちの関係が始まった合図のようでもあった。

 困った顔で園田くんが私を見ているのがわかった。園田くんは鼻から息を吐いて、それから口を開いた。

「俺の気持ちは変わらないんで、いいですよ。でも、小西さんに「酔っぱらってたから」って言い訳されて無しになるのが嫌なんですよ」

 園田くんはなるべく明るく言っていたけれど、真剣に話していることが私にはわかった。だから今度は本当に何も言えなくなってしまった。

 一人で乗った電車に揺られながら、フワフワした頭で園田くんの言葉を考えた。確かに、今日このまま勢いで私が園田くんと一緒にいたらお酒を理由に言い訳をしてしまいそうな自分が想像できた。お酒を理由にさせないためにも、園田くんは一度ここで休符を打った。私が思っていたよりも園田くんは私のことをわかっているのだと他人事のように感心した。

 

「おめでとうございます!」

 園田くんのことを報告すると、音が鳴らない拍手をして店主は祝福してくれた。園田くんとの馴れ初め話を話している間、私は切ったばかりの前髪に触れた。

「私、自分の話をするのが苦手だったんですけど、私の話に相手がどう思うかって、こっちがコントロールできることではないから気にすることはやめました。よく、人が話している話題に「そんなこと普段から考えてるの? 疲れない?」みたいなこと言って、話を折ってくる人っているじゃないですか。彼はそういうこと言わないんです。彼の前では、私は正直でいられるんです。この話つまらないかなとか、余計なことを考えずに会話ができる。多分、それは信頼というシンプルなことに尽きるんですけど。もちろん、意見が食い違うこともあります。ケンカもします。でも、いいんです。思ったことをそのまま話せる、それが私にとっては大事なんです」

 水滴が付いたグラスを持ち上げる。店主に出されたアイスコーヒーは苦かった。けれど、ストローならリップが剥がれることもないだろう。コースターにアイスコーヒーを置くと、ヒントの話を思い出し、話題を変えた。

「店主からもらったヒントのレシピで玉ねぎスープを作りました。まぁ、味は普通でしたけど」

 レシピをもらった時からスープの味は想像ができた。良くも悪くも期待を外すことなく、出来上がったスープは想像通りの味だった。

「私の家に彼が来て一緒に玉ねぎスープを作ることになったんです。彼と二人でキッチンに立つと、彼は早々にビールを飲み始めました。唯も飲みなよって言うから私も玉ねぎの皮を剥きながら彼と一緒にビールを飲んで……」

 思い出すように、私はまたクスッと小さく笑った。

 鍋でお湯を沸かしながら園田くんは冷蔵庫に寄り掛かってビールを飲んでいた。普段、会社では見ることのない彼のパーカー姿は、男性というよりも男子らしさを感じさせた。

「私、幸せだなと思いました。二人でキッチンに立って彼とビールを飲みながらご飯を作って。ずっと続くといいなって思ったんです。ずっと彼の隣にいられたらいいな、って。私、無意識に彼との未来を想像していたんです。でもそんなこと考えるのはすぐにやめました。だって叶わなかった時に辛いから。私が変なことを考えているのに気づかれないようにしていたら、彼が何気なく言ったんです。

「キッチンで飲むのって楽しいね。これから、もっとメニューのレパートリー増やして一緒に作ろう」って。なんか、その言葉に胸がいっぱいになって。私、思わず泣いてしまったんです」

 今振り返ると、キッチンで流した涙の理由は何だったのだろう。過去の恋人に言われた胸の古傷が疼く涙でもあった。園田くんとの未来を口に出せなかった自分の弱さにうんざりする涙でもあった。園田くんを愛しいと思う涙でもあった。想像した未来が現実になることを強く願う涙でもあった。一つに絞りきれない感情が涙になって溢れ出した。

 私が泣いてしまって料理は一旦中断された。園田くんは鍋の火を消した。私は涙を流しながらビールを飲んだ。そんな私を園田くんはどんな顔で見ていたのだろう。

「泣いている私に気づいて彼黙ったんです。何かを察したんでしょうね。そしたら「玉ねぎのせいだね」って静かに彼が言ったんです。「玉ねぎ切ったら涙出るよね、玉ねぎのせいだね」って」

 すると、園田くんはゆっくり私を引き寄せた。コン、と缶を置く音がした。何も言わず、園田くんは優しく私を抱きしめた。思いのままストレートな表現ができるのは園田くんの強さだ。そして、その強さはとても温かい。涙を拭いて、啜った鼻に手を当てると指先からほのかに玉ねぎの香りがした。泣いている自分が恥ずかしくて私は目を強く拭って笑顔をみせた。

「玉ねぎ、まだ切ってないけどね」

 まな板の上で洋服を脱がされたように皮だけ剥けた玉ねぎが白い肌を見せていた。

「本当だ」

 園田くんはパッといつもの人懐っこい笑顔を私に見せた。

「ありがとう、園田くん。大好き」

 この言葉以外に、園田くんにかける言葉が思いつかなかった。

 

 グラスに入っていたアイスコーヒーの氷がほとんど溶けて、コーヒー風味の水に変わった。

「よく人から「彼氏のどこが好きなの?」って聞かれた時、優しい所とかおもしろい所って抽象的なことを答えてもよく伝わらないし、だからといって具体的な話をすると「そんな所が好きなの?」とか言われることあるでしょ? でも、好きになる理由とか相手の好きな所って、うまく表現できないところに転がっていると思うんです。泣いている私に彼が玉ねぎのせいだねって言ってくれた話を友達にしたら、「えー、玉ねぎ?」って笑われました。でも私は彼の言葉が嬉しかったんだけどな」

 キッチンで泣いている私に「どうして泣いているの?」と園田くんは理由を聞かなかった。何も聞かず、園田くんは「玉ねぎのせいだね」と言った。園田くんが言った、玉ねぎのせいという言葉は「誰のせいでもないよ」という意味として私は受け取った。泣いている時こそ、誰かのせいして泣いてしまいたい。泣いている時こそ自分のせいだと自分を追い詰めてしまう。

「玉ねぎのせいだね」

 玉ねぎは、そんな嫌な役割を全て担ってくれた。誰かのせいにしても自分のせいにしても良いことなんてない。それだったら一旦全部玉ねぎのせいにしてしまおう。園田くんらしい、優しい強さが私を包み込んだ。

 誰だって誰かのせいにしたい時がある。けれど、誰かのせいにしながら生きることは、その誰かに捉われながら生きることでもあるのだ。それは、自分のせいだと思って自分を否定しながら生きることと同じくらい苦しいことだと思う。

「玉ねぎのせいだね」

 これから先、自分を含めた誰かのせいにして泣いてしまいそうな時、私はまたこの言葉を思い出すだろう。その時はまた玉ねぎスープを作ろう。店主からもらったヒントのレシピを参考にして、玉ねぎをザクザク切りながら思いっきり泣くんだ。そして、この涙は玉ねぎのせいだと思うことにしよう。

 アイスコーヒーのグラスの下のコースターは厚手の紙で出来ていてグラスの水滴で湿り気を含んでいた。水滴がコースターに染み込むのを見届けてから私は顔を上げた。

「答えって何なんでしょうね。私、自分の悩みが何かもはっきりしないままヒントをもらったので、何か明確な答えが見つかったかと聞かれたら正直今はわかりません。でもね、店主にもらった玉ねぎスープのレシピがあったから私は彼と玉ねぎスープを作った。「玉ねぎのせいだね」って言葉も彼からもらえました。生涯、大切にしたい言葉をもらったんです。もし店主がくれたヒントが玉ねぎスープのレシピじゃなくてロールキャベツのレシピだったら、私はまだここに来れていないのかもしれない。だから全てに意味があるんだと思います。だから、答えなんてこんなくらいで十分なのかもしれない。玉ねぎスープのレシピをヒントにくれたこと、本当に感謝しています」

 ありがとう、と私は言うと、店主の言葉を待った。口を塞ぐようにコーヒー風味の水を一口飲んだ。

 店主は少し考えるように視線を上げた。よく、話し出す前に上を向く園田くんの癖を思い出した。店主に気づかれないように、私が小さく笑うと店主が口を開いた。

「同じ言葉でも人によって受け取り方は違います。同じ言葉でも心に響く人もいれば、そうじゃない人もいるでしょう。それはヒントも同じだと私は思います。同じヒントでも答えが見つかる人もいれば、そうじゃない人もいる。何を感じ取るかは人それぞれなのです。それに答えなんていつも明確でスッキリするものばかりではありません。明確な答えなんて実は誰もわからないことだったりするのです。みなさん、何かしらの生きづらさを感じながら生きています。そんな生きづらさを感じる中で誰のせいにするのではなく、玉ねぎのせいと思えたあなたの強さが答えなのだと私は思います」

 そう言って、店主はニッコリ微笑んだ。切ったばかりの自分の前髪を照れ隠しのようにそっと触れて、私もニッコリ微笑んだ。

 店主は空のグラスを指さして、アイスコーヒーのお代わりを聞いた。時間を見ると11時40分だった。私は首を横に振って2杯目のアイスコーヒーを断った。

「これから、彼とお花見ランチに行くんです」

 私はショルダーバッグを手に取ると、お礼を言って店を出た。外に出ると、心地よい風が全身を包み込んだ。季節はすっかり春だ。

 そういえば、初めてヒント屋で見つけた青いワンピースは、今の季節にぴったりの春物だった。あのワンピースをヒントにもらった人は、どんな風に悩みを解消したんだろう。

 あの青いワンピースを思い出すと、私は町田くんのことを思い出した。町田くんに依頼された悩み相談の仕事が無事に終わると、一度、仕事のお礼と題して町田くんに食事に誘われた。町田くんの行きつけのパエリアが美味しいスペインバルのお店に行った。食事中、話の流れで私は彼氏ができたことを町田くんに話した。すると、町田くんはパエリアを食べる手を止めて、「乾杯」とワインが入ったグラスを持ち上げた。

「でも残念だな。俺、小西さんのことちょっと気になってたから」

 照れる素振りも見せず、町田くんはまたパエリアを食べ始めた。町田くんの言葉を聞いて、私は誰かの手に渡ったヒント屋の青いワンピースが思い浮かんだ。

―たいして欲しい物ではないけれど、人の物になると欲しくなるのはなぜだろう

二度目にヒント屋に行った時、青いワンピースがないとわかった時の私と目の前でパエリアを食べる町田くんが重なった。骨付きスペアリブを頬張りながら、私は何も言わず口元だけで少し笑った。

 さっき来た道を歩く。ヒント屋の看板はもう見えない。春の暖かさが足元を軽くする。すると、ショートカットの女性とすれ違った。思わず私は振り返った。信号の前で止まったショートカットの女性は、青いワンピースを着ていた。女性のワンピースが一瞬ヒント屋で見かけたワンピースに見えた。私は彼女に目を凝らした。けれど、形はよく似ているが袖の部分に花柄の刺繍が入っていてヒント屋のワンピースとは別物のワンピースだった。

 信号が青に変わる。女性は颯爽と歩き出した。彼女が歩くと、ふわりと風でワンピースの裾が揺れた。ショートカットの彼女には青いワンピースがよく似合っていた。


悩みのヒントを差し上げます ヒント屋キタミ【完】へ続く

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