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映画『リメンバー・ミー』所感(ネタバレなし)

ピクサーの映画『リメンバー・ミー』を観た。まだ2度目の鑑賞だけど、ストーリーや曲も含めて、ディズニー作品の中でもかなり好きな方だと改めて感じた。

舞台は現代のメキシコ。代々靴職人の家系に生まれたミゲルは音楽が大好きで、将来はミュージシャンになりたいと考えている。しかし、高祖父(祖母の祖父)が音楽家を目指して家族を捨てた過去のために、家では音楽が禁じられていた。それでも夢を諦めきれないミゲルは「死者の日」に開催される街の音楽コンテストに出場しようとするが、ひょんなことから「死者の国」に迷い込んでしまう――というストーリーだ。

現実とファンタジーが絶妙にリンク

中南米(いわゆるラテンアメリカ)では、“死”に対する意識が日本と全く異なる。日本では「死は縁起が悪いもの」とされ、話したり考えたりすること自体が避けられる傾向にあるけど、南米では「死とは生の延長」と捉えられているらしい。

特にメキシコでは、亡くなった人を偲ぶ「死者の日」の行事が今でも大々的に行われていて、現世に戻ってきた死者たちとともに明るく楽しく過ごすのが風習となっている。儀式の概要は日本のお盆と似ているけど、雰囲気や人々の心持ちは正反対だ。

「死者の日」には「オフレンダ」と呼ばれる祭壇が設けられ、食べ物、飲み物、故人の写真、マリーゴールドの花などで盛大に飾られる。マリーゴールドは、その鮮やかな色と強い匂いから、死者が迷わず現世に戻ってくるための道しるべになるとされているようだ。

『リメンバー・ミー』の劇中では、現世と「死者の国」がマリーゴールドでできた巨大な橋で繋がれているし、ミゲルが死者の国から現世に帰る際にもマリーゴールドの花が必須アイテムとなっている。

また、「自分の写真が祭壇に飾られていなければ、その故人は死者の国から現世に渡ってこられない」という設定もあり、実際の行事とファンタジーの世界観が絶妙にリンクしている。

「黄泉の国」とはエラい違い

本作の舞台となる「死者の国」も、日本的なイメージとはかけ離れている。

日本には死者が住むとされる「黄泉の国」という概念が存在する。ただ、『古事記』にあるイザナギとイザナミの逸話を聞かされて育った僕ら日本人は、「黄泉の国」に対して「地下にあるとても陰気な場所」という印象を拭えない。

実際に僕は「黄泉の国」の入り口とされる島根県の黄泉比良坂(よもつひらさか)を訪れたことがあるんだけど、初夏にもかかわらず寒々しい風が吹き抜けていて、身体がゾクゾクしたのを覚えている。

それに比べて、『リメンバー・ミー』で描かれる「死者の国」の明るさときたら驚くばかりだ。言うなれば、「死者たちが愉快に暮らす大都会」。そこには恐ろしい要素など一つもない。

生きるために書く

この作品を通じて、“死”について考えたんだけど、僕の死生観はメキシコの人たちのそれとは随分違う。おそらく、僕の考えに最も近いのは仏教的な見方だ。

誤解を恐れずに明かすと、僕は人生というのは楽しさよりも苦しみの方が多いものだと感じている。だからと言って、別に自殺願望があるわけじゃない。生まれたからには、周囲の人々に感謝しつつ、人の道から逸れることなく一生懸命に生きるつもりだけど、根底には現世に対する諦念のようなものがある。

少なくとも僕にとって、毎日生きるというのは「不安、辛さ、悲しみなどを何とか乗り越えて、僅かな安らぎを得る」ことの繰り返しだ。これまでの人生、ずっと何かに追われ続けてきた。いつも心配ばかりしてきたし、今も焦っていることの方が多い。そういう悪夢もよく見る。でも、それが僕にとっては「生きる」ということだから仕方ない。

たまに感動的な体験をして「生きていて良かった」と思う瞬間はあるけど、それは時間からすれば人生の0.01%にも満たないんじゃないかな。

だから僕は長生きしたいなんて全く思わないし、『リメンバー・ミー』の死者たちのように死後も自我を保った状態で生者のような生活を送りたくはない。この漠然とした不安から早く解放されて無になりたい。

それでも頑張って生きているのはたぶん、まだ「この世で自分にしかできないことがある」と心のどこかで信じているからだ。だから僕は、自身の頭の中にしかない物語を書き残す。売れるかどうかとか、認められるかどうかは正直二の次なんだよね。生きるために書くんだ。

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