
リアルTwitterおじいちゃん
2024年2月27日、昼時のことである。僕は出先で腹が減り、手近な「丸亀製麺」に入った。いつも頼む「とろ玉うどん」を注文し、別皿に大量の揚げ玉を盛ると、席に着く。
食事を始めると、後ろの方から大きな声が聞こえてきた。振り返ってチラリと見たところ、70~80歳くらいの高齢男性が、誰彼構わず店内の客に絡んでいる。
背丈は160~165cm程度。小汚いウィンドブレーカーを着ていて、競馬場にでもいそうな雰囲気を漂わせていた。「大きな声」と言っても、決して怒声ではなく、人々の隣に座って何やらメモを渡しながら、しきりに熱弁をふるっている。ただ、どの人も怪訝な顔をして、「関わり合いになりたくない」というオーラを放っていた。
僕は気にせず食事に戻ったんだけど、少しすると、いきなりテーブルが陰になった。人の気配を察して顔を上げ、右に目を向けると、先ほどの高齢男性が微笑みながら立っている。手にはルーズリーフを切って作ったと思しきメモが握られていた。
「ここはね、富士山が綺麗に見えるんだよ」
入れ歯を着け忘れたような聞き取りづらい声だ。
「はあ」
僕は男性からメモを受け取り、書いてある文字を見た。ペンを持つと手が震えるのか、ミミズが這ったような字だったけど、読めないほどではない。そこには「吾妻山公園、滑り台、しゃすいの滝、最乗寺」と記されていた。「しゃすいの滝」の横には小さく「酒の滝?」と書かれている。
「この吾妻山公園というのは二宮にあってね、水仙と菜の花の名所なんだ。子どもが喜びそうな、大きな滑り台もある。あれは108メートルだったかな…いや、102メートルかもしれない。とにかく良いところだよ。この“しゃすいの滝”というのは“酒の水”と書くんだけどね、“日本の滝百選”にも選ばれてる。富士山もこんな近くに見える。行って損はないよ」
なし崩し的に話を聞くことになったが、高齢男性のプレゼンはそれで概ね終わったようであった。
「二宮という場所は聞いたことがありますよ。湘南の方でしょう」
僕が話を繋ぐと、高齢男性は嬉しそうに頷いた。
「そうそう。そんなに遠くないから、すぐに行けるよ」
そのあとも男性はいくつか話をしたが、要するに最初のプレゼンの焼き直しだった。僕は基本的には相槌を打っていただけで、時間としては10分程度だったと思う。
高齢男性が去っていくと、中年の女性店員がやってきて、「すみません」と僕に謝った。おそらく彼女としては、「あなたを煩わせるお客を放ったままにして申し訳ない」という趣旨だと推察する。もしかするとあの高齢男性はこの店舗の常連客で、無下にはできないのかもしれない。
ただ、僕は特に次の予定があるわけではなかったし、高齢男性のことを不快には感じていなかったので、「全然大丈夫ですよ」と返した。
それよりも僕は、あの高齢男性の言動に興味を抱いた。彼のようにいきなり他人に話しかける人間は、人と人との関わりが希薄になった現代の日本では珍しい。何があの男性を駆り立てているのだろうか。
僕はあの男性の態度から、自己顕示欲のような“器の小ささ”を一切感じなかった。あの情熱は、暇潰しとも思えない。彼は純粋に、吾妻山公園の魅力を伝えたくて仕方ないのだ。大勢の人に配れるよう、わざわざ手書きのメモまでたくさん用意して、「丸亀製麺」で待ち構えていたわけである。
そこまでして伝えたいと思うほど、吾妻山公園という場所は魅力的なのだろう。少なくとも、あの男性にとって素晴らしい思い出の地であることは確かだ。もしかしたら、亡くなった最愛の奥さんと一緒に訪れたのかもしれない。僕はいつもの癖で、勝手に妄想を膨らませた…。
話を戻すと、僕が思うに、あの高齢男性の行為は本質的にSNSと同じだ。X(旧Twitter)には、「この店のケーキが美味しかった」とか「このバンドのライブが最高だった」とか、自分の感動を不特定多数の“赤の他人”に向かって叫ぶ投稿が溢れているじゃないか。僕が出会った高齢男性は、「自身の感動を皆に伝える」という行為を現実世界でやっていたわけだ。
ただし、この高齢男性の場合、結果的には「不特定多数」でも、行動としては1人の人間に向かって話しかけているわけだから、少々事情が異なる。1対1の対面となると、相手としても「聞かない=無視」であり、邪険にしているようで居心地が悪い。でも、いきなり話しかけてきた“知らない人”に気を許すのも憚られる。だから多くの人が、この男性に対して“困惑”することになる。警戒されたり、驚かれたりするだけならばまだしも、場合によっては文句を言われて喧嘩になる恐れだってある。
一方のSNSでは、大勢いる不特定多数の人に向けて“勝手に”話しているわけだから、インフルエンサーでもない限り、誰からも何の反応も示されないのが普通だ。これをリアルに落とし込むと、選挙の際の街頭演説が似ているかもしれない。
インターネットの世界では、ほとんどの人が匿名で活動しているから、素性が割れていない安心感から、「知らない人間からいきなり話しかけられる」という事象に対する抵抗感が少ない。こうした“リアル”と“バーチャル”の違いは大きいだろう。
とはいえ、あの高齢男性はスマホすら持っているか怪しかったし、SNSのアカウントなんて絶対にないと思うから、「できるだけ多くの人に向けて、確実に自分の感動を伝えたい」との欲求を満たすためには、リアルに対面で話しかけるくらいしか思いつかなかったんだろうね。
ちなみに、家に帰ってから調べたところ、滑り台の長さは102m。「しゃすいの滝」は「洒水の滝」と書き、使われているのは「酒」という漢字ではなかった。確かにこれは「日本の滝百選」に選出されている名瀑で、その水も「全国名水百選」に選ばれているという。機会があったら、吾妻山公園を訪れてみようかな。