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花束みたいな恋をしている
『花束みたいな恋をした』を観た。あまりにも適齢期ドンズバだった。
私には現在、交際して3ヶ月の恋人がいる。
性格、気質、趣味、苦手な食べ物、コンビニで選ぶおにぎりなど、わりと全ての感覚が一致する。一緒にいて会話が尽きることはないし、会った翌日でもすぐまた会いたくなってしまう。会うまでの感覚が中3日空くだけで軽く絶望してしまう。さながら、出会ったばかりの麦と絹のような我々だ。
現状、お互いに不満は全くないし、互いにこれ以上の恋人はいないと確信している。なんの不安もなく数ヶ月先の予定を立てられるし、同棲の計画も立て始めている。明言はしないものの、その先にぼんやり見えている結婚だって、お互いにうっすら意識している。
こんなに素敵な恋人がいる今が、楽しくてたまらない。3ヶ月経っても互いを求める気持ちは枯れないし、むしろ強くなっている。この楽しい状態がずっと続き、未来永劫一緒に過ごせるのだと、純粋に信じていた。
しかし、この状態は「恋愛というパーティの最高潮」にしか過ぎないのではと、映画を観て痛感した。麦と絹だって、交際当初は互いの全てに惹かれあっていたし、2人でずっと一緒に暮らす未来を願っていた。この状態がパーティの最高潮で、いつか終焉を迎えるなんて信じていなかった。
でも、2人の恋愛には終わりが来てしまった。理由はいくつかあるだろうが、人生のステージを上がることによる価値観のずれが、最たるものだと思う。学生の時と同様にカルチャーを愛し続ける絹と、愛する人とずっと一緒に暮らすため、カルチャーを捨て社会に取り込まれることを選んだ麦。この選択肢の違いが価値観のずれを生み、「一緒にいてもなんの感情も湧かない」ほどの隔たりを生んでしまったのだろう。
翻って我々は、社会人になってから出会った。作中の2人のように、学生から社会人といった大幅なステップアップはもう訪れない。社会人になることによる価値観の更新が完了した状態で交際を始められたので、映画のような価値観のずれは起きないだろう。
ただ、確信は持てない。社会人になってからだって、恋人が絡まない部分でステージが変わることはいくらでもあるだろう。我々にそんな機会が訪れたとして、それでも価値観のずれが起こらないと言い切れるのか?仮に起こったとして、それを乗り越えて関係を元に戻せる胆力があるのか?その時も今と同じ熱量で、お互いを求め続けられているのか?
現在の私はおそらく、パーティの熱に浮かされた状態で恋人との関係を考えている。社会人になり、ある程度地に足をつけて考えていると思っているが、それでも浮かれた部分はいくらでもある。「ずっと一緒にいられる」と、一点の曇りもなく信じちゃっている点などだ。
映画を観て、ちょっとした2人のずれで、こんな信念は簡単に壊れてしまうと知った。それが怖くてたまらない。お互いに好きだし一緒にいたいと思っているにもかかわらず、他でもないお互いの意思により、別れを選んでしまうかもしれないのだ。そんなことは絶対に起こってほしくないし、決して起こしたくない。絶対に嫌だ。
しかし、望むと望まざるとに関わらず、別れる未来が来てしまうかもしれない。あんなに全てがフィットしていた麦と絹だってそうだったのだから。
大好きな恋人と交際したてという今の段階で、この映画を観ることができて本当によかった。可能性として想像することはあるが、実感としては全くない「別れ」を、ざらっとした手触りをもって理解することができた。
別れを理解することと、実際に別れるかどうかということは話が別だし、この映画がフィクションであることも十分に理解している。しかしそれでも、大好きな恋人同士の幸せなひとときから、幸せが崩れて別れを選ぶまでの年月を追体験できたことに、大きな意義があったと感じている。麦と絹の結末は、現実を生きる我々にも降りかかるかもしれないからだ。
でも私は恋人と別れたくないし、恋人を手放したくない。この恋を「綺麗な花束」として終わらせたくない。
この先の我々がどうなるかは全くわからないし、思わぬところで人生のステージやお互いの価値観が変わり、予想もしていなかった隔たりが生まれてしまうかもしれない。
そうなったとしても、対話を重ねて隔たりを飛び越え、大好きな恋人と一生一緒にいたい。パーティの最中の私は、そんなことを考えている。