ビジネスメンター帰蝶の戦国記⑳
あらすじ
主人公・濃姫(胡蝶)がメンター、織田信長がメンティとなり、壁打ちしながら戦略を組み立てる戦国ライトノベル。歴史を楽しみながらビジネス戦略の基礎知識に触れる事ができます。
第5章は美濃攻略を終え、初心を見直した信長の目標に向けた動きとなります。つまり、『天下布武』とそれに向けた動きです。信長は何を基準に行動していたのか、読み解きます
第5章 天下布武
~初心回帰~
第1節 生産力の掘り起こし・楽市楽座
稲葉山城を落とした翌日、信長は稲葉山城下に禁制を出した。禁制とは、立て札や貼り紙によってやってはいけない事を周知させるものである。この場合、強盗略奪の禁止など、治安維持を宣言するものである。禁制を無視すれば処分するという宣言である。
「禁制の発布、有り難うございます」
城下の民の代表として喜平次が信長に礼を言った。
「なに、当たり前の事をしたまでよ」
と、信長は言うと胡蝶をちらりと見た。禁制の発行は胡蝶が怒るから急いだのであった。胡蝶にとっては故郷であり、知った顔も多いからである。
「攻め込んだ地での略奪を権利と称している大名もおります。当たり前ではありません」
「そうなのか」
「はい」
戦国時代においては、略奪する方が普通であった。略奪を勝者の権利としていた代表格が武田信玄である。武田信玄は生産量不足地を中心として領土拡大を続けた戦国大名である。『妙法寺記・勝山記』に記される
まず戦で勝てば、土地が増える。土地が増えれば、その一部を業績の高いものに配分する事で、戦のインセンティブとしている。ここまではどの大名も同じである。しかし、末端までそうしたインセンティブを与える事は困難である。そこで略奪を権利として保障することで、下層の兵士は先を争って攻め込むのである。略奪や女子供を攫って売る事で末端兵士の収益とするのである。富士の麓には「人市」という奴隷売買の市場があった。特に親類縁者が居れば、高値で買ってもらえる。こうしたインセンティブが末端まで浸透し、より強い軍となるのである。
またこれは、家中へのインセンティブだけでなく、狙われる側への脅しにもなる。武田に征服されれば略奪され、奴隷落ちの対象となる。だから、戦地になりそうな地域では、領主であれば自ら武田につく。つまり武田の調略に乗るという事である。そして略奪の権利を得る。町衆や寺社であれば、禁制を事前に買う。それが武田の収入になる。脅しによる武田の畏怖の信頼は、国内外に浸透しているのである。当然、抵抗した地域は略奪により既存の経済基盤は破壊される。
信長は多くの戦いで『禁制』を事前に発行し、略奪を禁じている。もちろん信長も禁制を買わせて収益化している。しかし、信長はどうやら人身売買は好きでは無かったようである。口減らしが常態化している生産量不足地を基盤とする武田信玄と異なり、信長は生産量充足地を基盤としており、基本的価値観の違いが支配戦略の違いとして現れたと考える。
「喜平次よ。お前は商売が上手いと聞く。これから美濃・尾張を豊かにするのにどうすれば良いと思う」
「こういう時代ですから、やはり領地を広げる事でしょうか」
「領地が広くなれば強くなる。だが、領地が増えれば、そこに住む人も増える。一人あたりでみれば、何も変わらん。聞きたい事は一人あたりで見て、豊かになるにはどうすれば良いかとういう事だ」
姉・胡蝶が信長に嫁いで良かった、と喜平次が思えた瞬間であった。
「そうですね。ご参考になるお話を二つお話しましょう。まずは、私の商売の話です。」
「ほう、面白そうだな」
信長はニタリと笑った。
「本美濃紙は都にも卸している美濃の名産です。その製造工程は、原料の楮を川晒しします。白くなったら、煮熟、塵取りをして、叩解します。叩解とは木の槌で叩いて繊維をほぐす事です。叩解によって出来る紙の品質が変わります。次が紙漉きです。紙漉きによっても品質が変わります。そして乾燥すれば出来上がりです」
「それで?」
「叩解と紙漉きが特に職人の腕が要求されます。私の取引している兄弟がおります。兄は1日で20枚分の叩解ができ、1日で10枚分の紙漉きを行います。1日を叩解、2日を紙漉きにする事で、3日で20枚を作ります。弟は力が強いので、1日で30枚分の叩解ができますが、紙漉きは苦手で5枚分しかできません。1日を叩解、6日を紙漉きしますので、7日で30枚作ります」
「兄は6日で40枚つくるのだから兄の方が優秀よな」
「はい。信長様は計算が早いですね。21日あれば兄が140枚、弟が90枚、合計230枚納品されます。では、弟に兄の分も叩解させたらどうでしょう」
「兄が毎日、紙漉きをすれば、210枚つくれるな」
「はい。弟は兄の分を叩解するのに7日。残りの14日で60枚作る事ができます。合計で270枚。40枚納品が増えます」
「適材適所ということだな」
「はい。生産量が増えれば豊かになります。それぞれの長所を活かし、短所の負担を小さくするのです」
「商売が上手いわけだ」
こうした生産量の最適化は、数学的に解く事ができる。第二次世界大戦でオペレーションズリサーチとして研究が進み成果を挙げた。その後、多くの最適化プログラム(アルゴリズム)が生まれ、コンピューターの発展により日常生活の中で利用されている。
「適材適所です。それで信長様、この二人、実は商売が苦手なのです」
「だからお主と取引するのだろう」
「そうです。ですが、中には一人で商売までやろうとする職人もおります」
「商売は商人に任せればよかろうに。適材適所だろう?」
「そうなのですが、商人も相手が信用できるかどうか見ております。信用の高い商人のところには、多くの者が話をもってきます。ですから、いきなり買ってくれ売ってくれと言われても相手にしません。だからと言って、職人が悪い商人と取引すれば騙され搾取されてしまいます」
「商人に任せようにも任せられないという事か」
「はい。相手にされないか、或いは、搾取されるか、という選択肢です」
「使えないなら仕方あるまい」
「そうは言われましても、そういう職人、特に見様見真似で物を作る小器用な者は多く居ます。そうした者たちの生産物は、お公家様やお武家様には品質が悪くて売れませんが、下々の者には売れます。下々の者の生活が豊かになります。信長様の言われる”一人あたりで見て豊か”とは、そう言う事と理解しましたが如何でしょう?」
「まあ、そういう事だ」
ようやく信長にも喜平次の言いたい事が見えてきた。
「良い商人と取引できないから自分で売ろうとする。ところがです、手続きやら諸役やらが手間で、そういう中途半端な者は売りたくても市に出る事ができません。適材適所から外れた者にも生産力があるのですが、活かされていません」
「ふーむ」
そもそも生産量が足りていない時代である。見た目が悪くても使える物はどんどん使えば良い。それで経済が底上げされる。競争になれば、中途半端な職人も腕を磨き、品質も向上して商人の目にかなう職人が出てくるかもしれない。それが喜平次の視点である。
「近江の石寺新市をご存知でしょうか」
「近江の石寺というと六角の支配地よな」
「はい。石寺新市では『楽市』と称して、私たちも市に紙を出品する事ができます。それゆえ、人が近江以外からも集まっております」
「その『楽市』にすれば、人や物の往来が増えるというのだな」
「はい」
信長は少し間をおいて考えた。
「だが、わしの利益にはならんだろう」
「そのままでは、おっしゃる通りです。では、こう考えては如何でしょう。100人から租税を10取ると1000になります。1000人から2とると2000になります。どちらの租税が多いでしょう?」
「話が上手いな」
「恐縮です。やりかたはいろいろあります。なにも一律にする必要もございません。他国よりも魅力的であれば、人も物も、富も集まります。数が集まるなら、それぞれから少しずつ頂いても、十分な大きさになります。私どもはそれを薄利多売と称します」
「それだけか?」
信長は何か思いついたようで、試すように喜平次を見た。喜平次はその顔を見て、商人の顔になる。
「戦の物資も容易に集める事ができます」
「ふむ。その楽市とやらをもう少し詳しく聞かせろ」
「はい。楽市の基本は、治安維持です。出店に制限を設けませんので、楽市なのですが、不埒な者も集まってきます。ですから、喧嘩口論の禁止、押し売り・押し買いの禁止です。先日の禁制を商売の現場にも適用するという事です。これに諸役免除を加えると楽市と言って良いでしょう」
「楽市というと、皆は理解するのか?」
「楽市という言葉は、一部の者にしか通じません。ですので、内容をそれぞれ札書きされるのが良いと存じます。それに他にも条件や禁制を加えて、内容を調整する事もできます」
「どういうことか?」
「例えば、国境に近い所で楽市を設定すれば、他国から人を呼びやすくなります。他国の富を自国に誘導する事になります。それによる取引が増えれば、国境にある関所の通行料が増えます。楽市での冥加金をゼロにしても元はとれるはずです。足りなければ少し出店料をとっても良いでしょう」
冥加金とは言わば売上税(消費税)である。
「他には?」
「そうですね。例えば、他国で借金借米をしているものが定住するならその返済を免除すると言えば、人が多く集まるでしょう。他国の借金借米の踏み倒しです。これまでの戦で借金借米をしているものは多くいますから。人が集まれば、復興も進むのではないでしょうか」
兵士が兵役に出る時、通常は手弁当である。つまり武器や食費は自分の出費である。干し飯などを持参して参戦するのである。大きな知行を与えられた武将は良いが、小さい知行しかない兵士や末端の兵士は、借金借米をすることがあった。それで褒美が得られないと借金借米を返せなくなる。他にも飢饉など生産量が不足した時には借米をする。そして限度を超えると、夜逃げすることが多かった。
一方、稲葉山城を攻略する時に、市街地に大きな被害が出ている。信長にとっても課題であった。喜平次の提案は、楽市を使って、行き場を無くした者を集めれば、城下の復興ができるのではないかというのである。
「面白いな。試してみるか」
「是非。まずはお足元の加納(円徳寺)でお試しください。もともと市があった場所です。宣伝する必要もなく、口伝てで話は広がると思います」
「あい分かった」
喜平次は、信長にメリットがある事を説明して、楽市の設置を勧めた。当然、自分の利益のためでもある。
信長には商人など個人の動きをいちいち直接命令する事はできない。そこで個人にとって有利になるようなインセンティブを働かせる事で、個人の動きが自国に有利になる様に、楽市を利用したのである。
数日後信長は城下の加納(円徳寺)に立札を立てた。
喜平次の提案は、適材適所と未活用資源の掘り起こしであった。
適材適所は通常、人材活用で用いられる言葉である。人材の最適化は得意不得意や人間関係をよく考慮して行うことになる。機械など性能が数字で決まっているような場合は「最適化」と呼ばれる事が多く、コンピュータープログラムに向いている。例えば、ゴミ回収車の最適な巡回ルートを決めるようなプログラムである。利益や売り上げの最大化、リスクやコストの最小化も同様である。
注意点は、プログラムは与えられた条件によって答えが決まる事である。人間が正しく問題を教えれば、正しく答えてくれる。間違った条件を与えれば、間違った条件に沿った答えを返してくる。最初に正しく問題・課題を定義する事は全てにおいて重要な事である。これは相手がコンピューターであっても人間であっても同じである。
未活用資源とは、自分が活用できると認識していない物事の全てである。そして、最適化プログラムの結果が意図しない物になったり、現実と異なる結果になったりするのは、入力条件の間違いだけでなく、そうした認識の欠如に伴う前提条件の入力不足に依る事もある。
(ビジネスメンター帰蝶の戦国記㉑に続く)
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参考:第5章
書籍類
信長公記 太田牛一・著 中川太古・訳
甲陽軍鑑 腰原哲朗・訳
武功夜話・信長編 加来耕三・訳
武田信玄 伝説的英雄からの脱却 笹本正治・著
歴史図解 戦国合戦マニュアル 東郷隆・著 上田信・絵
富士吉田市史資料叢書10 妙法寺記 より 御室浅間神社所蔵勝山記
楽市楽座はあったのか 長澤伸樹・著
インターネット情報
小氷期
https://www.aori.u-tokyo.ac.jp/research/topics/2017/20170104.html
https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/656/656PDF/takahashi.pdf
戦国時代の奴隷
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/00bc52b26b9fa6e0fde2415f5f0ef4cb822ae462
https://sengoku-his.com/218
本美濃紙
https://www.city.mino.gifu.jp/honminoshi/docs/about.html