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FF14のnote環境はもう少しどうにかならないものか

ヘッダーにSSを貼ってみた。SSはほとんど撮ったことはないが、後述するグラアプデの件においてもいい機会だったかもしれない。


私は現行のFF14に何の不自由も感じてなく、noteというサービスをそこそこ評価している。今回の記事は、そんな人は他にはいないのかなという仲間探しである。

7.0のストーリーは確かに大して面白くない上に無駄に長かった。ここは全体的には純粋に批判しかできない。一方で戦闘コンテンツはIDからして過去最高のアクションだったし、ギャザクラも相変わらず不動のMMO的快楽がある。またレベル100になったことで新たにソロクリアを狙えるコンテンツが増えたり、まあとにかくやることが探せば無限にある。そしてあまり関係ないが、先日初めて身内8人で高難易度攻略をやったりして、FF14の確かな面白さはまだまだ揺るがないなと思ったところだった。

さてnoteに関しては、現時点で極少数の「読める」そして「書ける」ソーシャルメディアであると考えている。Xはご存知の通り最近はあまりにもな体たらくで、雑多な情報が多く検索性も悪い。またオススメはご存知の通り碌でもなく、かといってフォロー欄を見るには最早ニュースサイトに劣り、とても「読める」ものではない。であれば同時に「書ける」ものではなく、というか元よりTwitterは「呟く」ものであって、画像による長文ツイートなどはそもそも合っていない。(プレミアムによる上限突破など論外。)
一方noteは、優秀なタグシステムと、運営による気まぐれな盛り上げ「お題」システムなどもあり、そして何よりこのシンプルかつ至高のレイアウトが最高。その他まあ細かい点に疑問はありつつも、基本的にはピュアな運営を続けていると評価している。シンプルに「読める」し「書ける」貴重なサービスであると言える。
結局、人が一生懸命書いた文章というものは面白い。それが一般的な個人ブログでは、これまた埋もれしまう昨今といった意味でも、noteは程よく一極集中的であり、見やすい。
またnoteの「スキ」はXのそれとは違う、まあ恐らく最後まで読んでくれたんだろうなという感覚がある。ここには見えない人々と繋がった気がした、未知の気持ちよさ、興味深いインターネット原体験的な見えない繋がりの気持ちよさが僅かながらまだある。これもまた、昨今のdiscordなどへシフトする、クローズド化していくインターネットにおいては本当に貴重だと思っている。

この様にnoteへは程よいメリットと面白さを感じている。
しかしまさかFF14においては、noteこそがSNSの愚痴の棲み分け、退避先になってしまうとは、世の中は本当に難儀である。
ここで例えば『Eturnal Return(エタリタ)』という流行りそうで一向に流行らない、しかし根強いファンは明らかにいるゲームがある。
私がいつしかこれに出会い、また一時は深くハマったのは、明らかにnoteのお陰であった。日本人プレイヤーが少なく、SNS網もあまり結成されていなかったエタリタにおいては、初心者の攻略手引やキャラについての細かい掘り下げなど、noteが良き情報交換の場になっていた。そこにはコミュニティと呼ぶには微妙な規模だが、明らかに居心地の良いデジタル空間があった気がした。
FF14の今もこうであってほしかった。


これ言うのは煽るようで気が引けるが、言わないと始まらないので敢えて言うと、一部の人達は、流石に「キレすぎ」。引退とかお気持ちに収まるどころではない、反転アンチになってしまっている。
言いたいことは分からないわけではない。やはり7.0の期待外れ感というのは大きかっただろうし、件のグラアプデも自キャラの顔が云々(詳しくは後述)は大変だっただろう。批判点が多いことは明らかだが、それにしてもやはり「キレすぎ」だという点が問題だ。
どうやらFF14の黄金拡張はmetacriticにおいて79点だったようだ。しかしここでの批判の勢いというのは40点ぐらいのガチのクソゲーと同じ気分だ。黄金のレガシーは断じてそこまでではない。もちろん積み重ねが、期待がという観点もあるだろうが、それを踏まえてもそこまで悪くない。ここに関しては世間の批判を全く理解できない。

私は”メタ”を知りたい。この場合の”メタ”というのは、ゲームの中では見ることのできない評価やコミュニケーションなどといった、盤外の情報である。
今、全てのコンテンツにおいて”メタ”を意識しないことは不可能である。常に”外”のコミュニティや運営を意識してしまう。この感覚は形状し難いのだが、都会に住みながらベランダで自給自足を試みるみたいな、オンラインゲームをやるのに外的要因または評価を気にしないみたいな……そんなことは無理だ。
自分だけは絶対評価など気にせず、真髄があればそれを味わえればいいのだが(前回記事でそんなことを書いた)、結局は、自分という者は大多数におけるどこに位置するか、外れているのであれば何故という理由は調べてみても面白いはずだ。
であれば批判とは向き合い自分の中で議論しても面白いと思う。嫌なら見るなと言うが、完全なる自己完結のための答え合わせとして逆によく見るのは面白いと個人的には思っている。
しかし残念ながら殆どは議論にすらなれない。結局、全体において個人的に気に入らない部分はこれに尽きるかもしれない。投稿の殆どはお気持ちという観点ですら残念ながら成り立っていない、重ね重ね言うが「キレすぎ」ていて批判にもなっていない。勿論客観的な意見もあり、例えば皆がなぜウクラマトをここまで受け入れないかなどはnoteを通してよく分かった。考察を超えた”気分”を理解するには、そういったものはやはり参考になる。
しかし一方、その他ネガティブな投稿群は、場を盛り下げることに加担しているだけだ。もっというとネガの火を絶やすな、みたいな。

グラフィックについて、この点は非常に興味深いと言わざるを得ない。この内容はこれまでと少し筋がずれる。
この批判的や怒りというのは軒並み「ウチのコ」という感覚から起きていると見受けられる。私のような者からすれば、尋常ならざる愛を感じる。
自分のスタンス的には、あまり違いは分からない方だった。というかそもそも最初から興味がなかった。自キャラというのは、あくまでこの現実に在る”わたし”の実体験を成す器であって、ある程度のファンタジー的ルックスを様相していればなんでもよかった。
しかしたかがゲーム、されどゲームにこれを感じられるのは、人が成し得る犬や猫、またはドール趣味に対する愛情のようなものに似ていて、私には少し測り知れない。そういった感情を垣間見ることが出来たという点では、やはり本当に興味深かった。
驚く一方、どうしても違和感はある。この少ないキャラクリの幅でよくアイデンティティを見出せるなという疑問である。このパーツ数、スライダーであれば、詳細に色は違ったりしても、割とそこそこのバリエーションしか存在しないはずだ。実際、自キャラはラヴァ・ヴィエラ(人口ランキングにするとそこそこ下位にあたるらしい)だが、容姿がかなり似ているNPCを黄金中で2,3体以上見かけた。
似通った顔であってもかけがえのない自キャラというのであれば、そこにはきっと自分なりの冒険や体験といった付加価値があるはず。しかしこの場合は矛盾している気がしていて、何故ならそこには、多少顔が変わったところで魂は変わらないことの意識があるのだから、やはり尚更自キャラというのはそこに存在しているのではないかというのが総じての疑問である。
そもそもこの唯一無二の顔がというのであれば、もう分からない。もっと単純に、「前のほうがよかった」という一言であれば分かる。
ここまで来ると、もう、「不変」という概念に対する気の持ちようというレベルの話にもなってくると思う。人間の細胞は十数年に一度は丸きり入れ替わるだとか、この漫画家はデビュー時はこんな絵で、あのバンド売れてから変わったよな、といった様な……。私は『あげくの果てのカノン』という漫画で、人は意外にもコロッと変わってしまうことについて考え、そしてまた変わってしまったのであれば緩く諦めることを学んだ。
10年選手のオンラインゲーム、またはスクエアエニックスという大企業に対しての「不変」の覚悟は、これはあなたは持っていただろうか?


今日は結局、最近あまり見ぬ「こちら側」の人間をここで探したいだけだ。
繰り返すが、FF14を取り巻くnoteの環境がせめてもう少しポジティブであればよかったのにな、という願いだ。


以下は余談だが、「スクエニは相変わらず人助けとか善の判断が高学歴的で、職場は努力で溢れているのだろう」と常々思うことがある。個人的にはこれを面白く感じているが、もしFF14がオンラインゲームとして狂っている部分が多くあるとしたら、原因はここではないだろうか。



追記
書いてから1ヶ月、このタグの更新を特に見ていましたが、タイトルのどうにかなるかどうかでは言えばもう全くどうにもならない笑
noteにおけるハッシュタグFF14というものは実質「死んだ」と思っていいと思います。

まずそもそも論点が違いました。本質的にはFF14の話はもうほとんどされてなかったです。この空間は例えるなら阿片窟とかに近いようでした。

生き返るチャンスがあるとすれば、やはり有名配信者がこぞってプレイしたりすることで、本当に縁のなかった新規が大量参入してまるっと土壌が入れ替わる可能性ぐらいではないでしょうか。
逆に言うと、今後ストーリーがどれだけ良かろうと、グラフィックが変わろうともう関係はないでしょう。もう阿片のパイプ離せません。


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