歴史を録するイメージのかけら——映画『籠城』上映会@東京藝術大学 トークディスカッション(鈴木理策×小手川将×一之瀬ちひろ)


2024年7月24日(水)、東京藝術大学上野キャンパスにて、西尾美也研究室主催のもと「歴史を録するイメージのかけら」と題して映画『籠城』の上映イベントが開催されました。上映後のトークディスカッションには、本作監督の小手川将氏、本作撮影の一之瀬ちひろ氏にくわえ、ゲストとして東京藝術大学美術学部先端芸術表現科教授の鈴木理策氏を迎えて、1時間余りにわたって本作をめぐる鼎談が行われました。以下、観客との質疑応答をふくむディスカッションの全文を記載しています。

映画『籠城』公式HP: https://sites.google.com/view/hakushito/home




左から、一之瀬ちひろ、小手川将、鈴木理策(敬称略)

映像空間と音の広がり

 小手川将:
ご来場いただきありがとうございます。本作監督の小手川将です。よろしくお願いします。今回のアフタートークには、本作撮影を担当した、写真家で、ジョナス・メカスについての博士論文を執筆中の一之瀬ちひろさんにも来ていただきました。そして、ゲストとしてお招きしているのが、写真家で、東京藝大先端芸術表現科教授の鈴木理策さんにお越しいただいております。どうそよろしくお願いします。
今日、この映画をめぐってどんな話ができるかなといろいろと考えを巡らしていたのですが、写真家のお二人に来ていただいているなら、やはり「映画と写真」かなと思いつつ、こうした広いテーマをもとに、鈴木理策さんにまずお訊きしたいことがあります。鈴木さんは2020年に『知覚の感光板』という写真集を出版されています。このタイトルはセザンヌの言葉から採られていますね。わたしはこれをある意味で集大成のような作品だと思っていますが、というのも鈴木さんの仕事の一つの軸に「絵画と写真」という対比があると捉えているからです。つまり、絵画との関係で写真という芸術の固有性について考え、制作しててこられたのかなと。一方で、個人的には少し驚いたのですが、映画に対して一定以上の、かなり強い関心を持っていらっしゃるとも、事前に打ち合わせをした際にお聞きしました。鈴木さんの映画への関心はどのようなものなのか。まずは、写真を主な活動のフィールドにしている鈴木さんの目に、古写真を多用している本作が映画作品として、どんなふうに映ったのかというのをお話いただいてもいいでしょうか。

 鈴木理策:
昨日、一度みたんですけど、モニターでみたんですね。それが、いまみた印象と音が違っていて。語りの構造(男の人と女の人の語り)と足音で空間の説明をしているのも、昨日みた時にはあまり聞き取れなかったのですが、音によって場所とか……あと時制ですよね、過去と現在の関係を表しているところとか良かったです。あとでフィクションとドキュメンタリーの話になるかも分からないですけど、残された写真を映しながら話を進めていくときに、やっぱりカメラワークが複雑になり過ぎると分かりにくくなるというのがあって。それで言うと、音やナレーションの方に空間性を持たせたというのは意図的……? もちろん意図的なんだろうけど、最初から構造としてあったのかな。

 小手川:
画面と音を分離するというのは最初からあった構想ですが、どういう音を使うかっていうのは制作しながらですね。とくにサウンドデザインを担当していただいた森永泰弘さんと話したり、作中に使われていた久保田翠さんのピアノ曲——あれは一高の寮歌をアレンジした曲なんですけど、その音を聴いたりして、映画の音をどうするかと話し合ったなかで決まっていきました。

 鈴木:
そのなかで気になったのは、最後に建物の外へと足音が出ていく時の、あの足音は女性ですよね? 

 小手川:
そう聞こえましたか。

 鈴木:
そう聞こえました。女性靴の音に聞こえて、歩幅がわりと短く、音が速いっていう印象があったんです。

 小手川:
あれは実はヒールを履いた僕の足音なんです。いろいろな音を使ってるんですけど、僕が手作業で録音したサウンドも結構あるんです。

 鈴木:
最後のナレーションは監督がやってるんですか?

 小手川:
いやいや僕ではないです。台詞はすべて、7名の出演者の方にお願いしていました。ところで映画の空間性っていうのが気になるポイントですか?

 鈴木:
空間を表すのに音でみせていたところが気になります。最初は、画面が動かない写真をみていくことと、芝居をしない男性をみていく……というかみせられるということのじれったさがすごくあって。普段、映画をみる時は、これをこう映したら次はこう撮るだろうとか、先回りして映画をみるので、前半は慣れるのにちょっと……せっかちなので、じれったいような感じがありました。だんだん慣れてきて、音やナレーションで空間だったり、この映画自体の構造みたいなことを語り始めてきたときに心地よくなってくる、そういう見方をしました。わりと叱られたいと言ってたんで、言いたいことを言って帰ろうかと思ってるんです(笑)

写真と映画における作者の意図

小手川:
もちろん、何でも言ってほしいですね。鈴木さんとしてはやはりカメラのポジショニングが気になるんですね、先回りするっていう……。

 鈴木:
先回りするっていうのはカメラワークとか、こうきたなら次はこうやって繋げて引っ張っていくんじゃないかとか、勝手に編集を始めちゃうみたいな。でもこれは皆さんやってますよ。たぶんご自身も映画をみながらやってるはずです。

 小手川:
一之瀬さんも写真家ですが同じように映画をみていますか?

 一之瀬ちひろ:
そうですね、多かれ少なかれやってるんだと思うんですけど……。だけど、たとえば『籠城』に、すごい長い銀杏並木のワンショットのシーンがあって、もう撮影したのは数年前なので、撮影者というよりは観客という気持ちで今日はみてましたけど、途中で、なんで私、この銀杏並木の映像をみてるんだっけなあ、みたいな感覚にふっとなるんですね。あまりにもワンショットが長いから。その感覚が面白いと思って、自分が今ここにいるという感覚に戻されるような感じで。この映画って要所要所で、男性がカメラを介して観客をみつめ返しているショットとか、そういうところでも似た感覚が生まれるし。それは観る人の予測を裏切るカメラワークかもしれないですね。そういうことを考えて話しながらつくっていったなっていうのを思い出しました。

 鈴木:
その銀杏並木のシーンについて、前半の方に木々が並んでいる古い写真があったんですけど、あれと同じ場所ですか。

 小手川:
あれと同じ場所ですね。

 鈴木:
最初に右耳を撮って、最後に左耳を撮ったりとか、本の表紙と裏表紙みたいな構造だなと。最後に回収していくというか、最初にみせたものをもう一度収めていくっていう構成になってたと思うんですけど、それもかなり意図的?

 小手川:
そう、だと思います……なんというか、映画の完成が2年前くらいで、定期的に上映会を開いてさまざまな方々と話す機会があって、いちおう監督した身なので作品について喋ろうとするんですけども……撮影時に何があったかとか、そういうのは記憶にある限りは話すことはできるし、けっこう覚えているんですが……どういうふうに意図してつくっていったかという質問について、それに応答するのは個人的に面白いのですが、作品そのものの構造の意図について喋るのは難しいなと常々思います。話したくない、秘密主義だっていうわけじゃないんですけど。
基本的につくっているあいだも観客としての視点が自分のなかにあって、今日も観客として作品をみていて、そうするとご指摘いただいたように円環構造になってるのに気づくわけです。これはもちろん意図的ではあるんですけど、結果的に意図になったというだけだというような感覚もあります。あれは観客としてみるなら、儀式的な形式になっているなと思いますね。秘儀、というか通過儀礼のようなもので……ご覧になっていただいたら分かると思うんですけど、一高、ひいては旧制高校っていうのは男子校で、女人禁制です。作品のタイトルになっている「籠城」という語の含意は、一高の校地を明確に区切って、その境界線をまたげるかどうかは入学できた人かどうかではっきり区別するというもので、きわめて閉鎖的です。また、女人禁制っていうのはイニシエーションの基本でもあるわけですね。そういう意味で、籠城という主題からこの円環構造が生まれてきたのだろうと思います。

 鈴木:
映像のなかで過去の写真をみせていくというのがすごく多かったので、アルバム的な、表紙と裏表紙というような印象があったんですね。銀杏並木の場面で、カメラが少し揺れるじゃないですか。頭を振っているというか。距離の近いほうが揺れていて、あれは何で?

 小手川:
あれは歩いて……。

 鈴木:
歩いて撮ったんですか? 何だか知らない生き物の動きみたいだったので何だろうと思って。すごく良かったです。

 小手川:
アルバムのようにみえる部分があったとのことですが、それはどういう印象を指しているのでしょうか?

 鈴木:
映画のなかに写真が出てくることで、映画が撮られた時の時制よりもさらに奥に入る感じ。映画自体も過去なんだけれど、そこに写っている写真によってさらに過去に行っちゃうような。撮影の構成上でシンメトリックに右と左で撮ったり、同じようなカットがあったりすると、全体がレイアウトされているというか形が整えられているという印象がありました。

 一之瀬:
時制が変わる感覚っていうのは、たとえばどういうところに感じられたのですか。

 鈴木:
古い写真をみて、っていうところですかね。たとえば写真を撮るときでも、手に持って物として写すというときと、複写的に写すときで、写真のなかをみせているのか、写真をみている状態をみせているのか、時差やズレがあると思います。
日頃、写真を撮っていて感じる写真と映像の徹底的な違いは、映像自体が持っている運動、その時間の流れが、自分の身体が今ここで動いていく時間と一緒に進む感じがあることです。写真の場合は、写真をみて何かに気づいたり、それこそ記憶の深さみたいなもので、その内容に対して自分が何かを思い出したり、明らかに自分だけの内部の時間とのやり取りになっていて、その差は圧倒的にあるんだと思っています。だから写真を映像で映したときのこの時間の在り方というのはまたちょっと独特なんでしょうね。

 一之瀬:
そうですね、本当におっしゃる通りだなと思って、そういうことを撮影のときもよく話し合いながら撮影していました。いま鈴木さんがおっしゃったことでおもしろいなと思ったのは、この映画をみていると写真をみているときのように過去の時制を感じるという……たしかにそういうことを私たちも考えながらつくっていたところがあるんですけど、それは写真をみるときに一番意識されるものなのかなと思って。たとえば私が鈴木さんの写真集をみるときに、写真をみて過去の時制に入っていくという感覚って持つか……持つかな?

 鈴木:
僕はできるだけそれを持たせないように撮るというのが目標になっているんですよね。だから写真自体のイリュージョンで、違う場所、違う時間をあなたもいまみているというふうにできると面白いと思っていて。自然を撮るのも、具体的な事物や事柄が写っていると時間が刻印されてしまうので、そういった対象はできるだけ避けるところがありますね。自分がみているということに重ねてきたんですよね。
写真って、僕も始めた当初は、一生懸命に過去の名作なんかをみて、みやすい構図だったり、シャッターチャンスだったりを学んでしまう。たとえば、歩いてきた人を画面の真ん中で写した写真は、狙って撮ったことがわかる。そうすると、それを撮った人と、それをみる人の会話が非常にシンプルになる。それが嫌なんですよね。ここをみてください、というやり取りみたいで。理想としては、自分もいなくなりたいというか、撮影者の存在が消えている状態で作品が出せると面白いなと思っています。こう言うと、場所を決めて、わざわざ大きいカメラを担いで行って、構図を決めてシャッターを押しているんだから、自分が消えるなんてありえないと言われるんですけど、まあその矛盾は引き受けながら、それでも試みたいなと思っていて。自分を消すことを写真の上では目標としているんですけどね。

 小手川:
自分を消すことと過去の時制を感じさせないことは関係するんですかね。

 鈴木:
うーん……そうですね、結局みている人が、いま自分がみている、というふうに思ってもらえるといいかなっていう、そのことが、僕(撮影者)が消えるという……。

 小手川:
それが映画的な写真ということでしょうか……?

 鈴木:
映画的かどうかはちょっと分からないんですけど、写真が持っている主観と客観が混ざりあう、流動的な、写真をみる人によっても主観と客観の度合いが揺らいじゃうみたいなことを扱っているのかな、と思いますけどね。

 一之瀬:
鈴木さんの写真はだいたい横位置で……。

 鈴木:
最近ね、縦位置で撮れるようになったんですよ。

 一之瀬:
そうなんですか(笑)

 鈴木:
諦めてるというか(笑)

 一之瀬:
縦位置って撮影者の、構図をつくっている人の意図が見えてしまう、そういうことを時々考えていて。カメラがもともと横位置でつくられていることが多いからだと思うのですが。だから縦位置で撮るのが恥ずかしいと思ったりすることがたまにあるんですけど……。自分を消したいみたいな感覚って何ですかね。

 鈴木:
写真のなかに自分の意志みたいなことが現れていない方が、イリュージョンという方法、写真がイリュージョンとして成立するということに近づけるかなと思っている。あと、縦位置は断定的になってくるんですよね。われわれの世界の見方というのは、目が横についていて、横に広がっていて。ですので、縦に構図を決めるとやっぱり入れないものと入れたものが極端に現れるというか、強調されるので断定的になっているんですよね。縦位置に写真を撮るというのもある種のテクニックというか、構図のつくり方的にはちょっとした腕前が必要なんだろうなと思います。これをしっかりやっていくと意識的になっているものが出ちゃうので縦位置はほぼずっと撮らなかったんですが、最近なんか上をみていることが多いのか、よく分かんないですけど、縦位置で撮ってもなんとか大丈夫かなっていう、そういう感じですけどね。写真の話ですいません。

 一之瀬:
写真の話から映画の話にちょっと戻すと、実は先日事前に鈴木さんとお話しさせていただく機会がありました。それで今日この映画をみながら、先日の鈴木さんとの話を思い返していたんですけど、この映画は私にとっては写真をみることについてずっと考えていた作品だったなって、そう思いながら観ていました。でもこの作品の制作者が——監督もいたし、他にもいろんな制作者がいて、それぞれが違った視点や考えを持ってこの作品に関わっていたので……ここで、個人制作である写真と映画の制作の違いの話をさせていただきたいんですけど、映画は多くの制作者が関わる集団制作なので、一つのことを言おうとしていない作品が出来上がる可能性があるだろうなと思います。たとえばこの映画には何度も「正しく記録しなければいけない」っていうセリフが出てきますが、正しさって何なんだっていう話をいろんな制作スタッフの人たちと何度も議論しましたし、特権的な一高生の歴史を語ることが正しさであると言えるのかという話もみんなでしましたし、そういう制作過程が映画のなかに現れて、複数の言葉が現れるっていうこの映画の構造につながっていったのかなと思っています。

 小手川:
いま思えば——映画は基本的に集団制作ですが——制作しながら出演の方とかカメラマンの一之瀬さんとか、音を担当してくれた方々やプロデューサーも含めてけっこう議論した時間はあったんですけど、そこには、より良い演技をしようとか、より良い音をつくろうという方向とはまた別の、ある意味で映画から少し離れた思索の時間もあった。つまり制作中、同時に二つのベクトルの議論があったと言えると思うんです。たとえば正しさとは何か、とか……このような大きな問いに本作が正面から答えられているわけではないんですが、制作中にそういう議論をする時間がつくれたというのは素晴らしいことだったと思います。一般的な、たとえば商業映画の制作現場ではなかなかそんな時間はとれないのではないでしょうか。

記録と編集の可能性

 鈴木:
これはどれくらいの撮影期間があったんですか?

 小手川:
撮影自体は9月からの二ヶ月半〜三ヶ月くらいで、その間で点々と撮っていたって感じでしたね。資料撮影はミニマムな体制でできるので、かなり時間はかけてもらいました。他の撮影は、制作スタッフの予定を合わせたりする必要もあったし、そんなに時間も取れないので、人物撮影と声の収録あわせて全部で五日間だったと思います。

 鈴木:
二回、フィルムが出てきましたよね、動画が。ああいう映像っていっぱいあるんですか。

 小手川:
ほとんどないですね。あれが使える映像としてほとんど唯一だった。写真は結構あるんですけど、動画として残っているものはほとんどない。

 鈴木:
出てくる写真の順番は? 古い方が前半に出てきているとか、時間が同じように進んでいくとか、そういうわけではないですか?

 小手川:
必ずしもそういうわけではないです。

 鈴木:
ほぼ戦前、戦中のものですよね。

 小手川:
そうです、基本的には1935年から1945年までに撮られた資料を使っている。

 鈴木:
1935年……昭和10年ですよね。真珠湾攻撃が昭和16年だから6年前くらいですか。

 小手川:
そうですね、太平洋戦争の開始からは6年前ですが、すでに日中戦争も満州事変も起きていて、非常な時代がもう始まっていた時代です。
一之瀬さんはなにか制作中に話し合ったことで覚えていることはありますか?

 一之瀬:
企画の段階でそもそも男性の声だけでやるというところで始まっていたのが、途中から女性の声を入れることに変わったというのをすごくよく覚えていますね。あと、声の役の方たちと何度もワークショップをして、声の割り振りを議論していたというのも覚えています。誰が記録することに対して批判的であるのかとか、誰が素朴に正義を語るのかとか、そういう話をしていましたよね。

 小手川:
鈴木さんの話を引き継ぐわけではないんですが、一之瀬さんは普段写真を撮っていますよね。今回が初めての動画撮影だったわけですが、その点では、あんまりそのことは議論にならなかったというか、写真家の一之瀬さんにムービー撮影をお願いすることに関しては、どこか当然かのようにお願いしていたところもちょっとあったんですけど、ムービーを撮ることについて一之瀬さんが考えていたことをちゃんと聞いたことがなかったので、この機会にお訊ねしてみたいです。

 一之瀬:
撮影そのものについての違いは特に意識していなくて……多分、違うこととしたら……まあ写真撮影のときも考えていることではあるんですけど……写真をみる、記録写真をみるという経験を、映像でどう撮るかということは考えていました。撮り方のバリエーションというか。写真を手に持っているのかとか、鈴木さんがさっきおっしゃられた時制の話にもつながると話だと思います。それと、これは編集の話ですけれども、その……説明しにくいけど……実際に撮影したショットと、写真を複写撮影したショットをどうつなげるかっていう話はすごくよくしましたよね。それがムービー撮影にしかありえない議論だったし、写真を撮影するときには、動画と静止画をつなげるっていうことを考えることはないので、これが時制にも絡んでくる、っていうのを考えるのがおもしろかったです。

 鈴木:
文字を写している状態って結構あったんですけど、その長さはどうやって決めるんですか? 一応読んでみる? 読めるスピードにするっていうか。

 小手川:
もちろんカットによりますけど、読んでもらうのをそこまで期待していない場合もあり、必ずしも可読性は基準になっていません。前後のつながりやリズム、全体のなかでどれだけこの部分が必要か、ということを大切にしていました。

 鈴木:
編集でのタイミングやきっかけ、繋いでいく部分はどういう感覚だったんでしょう? 動画と写真とか……一度、白いシャツ着た男の人と、その次に写真になった時に、ちょっと似た顔だなって思ったことがあったんですけど、そういったこともあったりするんですか?

 一之瀬:
それ、めちゃめちゃ小手川くんが意識してたところじゃないですか。この写真の人は乙幡さんに似てる。だから、お互いにみつめ合っているみたいなモンタージュも想起させるようなつなぎにする、とか。

 小手川:
うん、まあ、みてると似てくるんですよね。似てきちゃうというか、じっとみてると全員同じにみえてくるというか。

 鈴木:
それは全然わからないですね……。

 小手川:
なんというか、出演の乙幡さんに個別のキャラクターをつくってもらったわけではなくて、どこか全員に似るようにしてた部分があります。

 鈴木:
映画の編集のひとつの正しさとしては、編集したことがわからないようにする。それを意識的に外していくと急に生々しくなってくる。たとえば、北野武の初期の映画って、普通ならここで終わるだろうというところで切らずに、その後もずーっと撮っている。そうすると、何かのアクションが終わった後もそのままみせられると、段々と本当だったんじゃないかって、もちろん本当じゃないんだけど、妙にリアルになってくる。映画の、向こう側の話だったのに、編集のルールから外れてずーっと映されると、そこに自分がみている気持ちが入ってしまって、ちょっと怖い感じでリアルになっていく。それは本当に面白いと思います。映画をみていると、カメラは次はこっちからかなとか、せっかちにみちゃうってさっき言ったけど、そういうある種のリテラシーが映像をみる経験に染み付いているので、そのルールを外されると、一気にリアルに感じてくる。
それは映画の編集もそうだし、演技みたいなことも、やっぱり素人が映画に出てきたときの面白さっていうのもありますよね。上手な人が役になりきって演技していると、こちらがその役柄を了解しながらみる安心感があって、そこにあまり上手じゃない演技者が出てきても、妙にリアルに感じられるという不思議さがある。映像が全て映し出すという……映画は、全部映っているものの中の、ある部分に目が行くように編集して進めていくところがあると思う。映画の編集の面白さっていうのはすごく影響しますよね。

 小手川:
そうですね。全部が映るというか、細かいところまで映っちゃうっていうことは撮影していてよく思うことです。まあ、映ってるものは全て映っているっていう感じ。他方で、今回の作品が扱っているのはかなり大きな主題なわけです。戦中の一高といっても、その周辺にはいろいろな歴史的な出来事があって、資料もたくさんある。それら遺されたもののなかから選択して資料も写真も撮影しなければならない。そもそも時代設定も1935年から1945年までと決めることでしか撮れなかったと思います。つまり全ては撮れないという意識とともに映画をつくっていたんです。撮れるものしか撮れない、見せられるものしか見せられない。
あと、編集に関して言うと、音はすべてアフレコです。セリフの録音と撮影自体は並行してやっていたんですけど、たとえば映像の編集の時は最初、音無しで編集していました。すでに書かれた脚本の構成があって、どういうところにセリフが入るかなど事前に決めていたんですけど、編集してみるとしっくりこないところもあった。音と映像がぴったりとくるところを発見しながらの編集っていうのが今回の面白かったところでした。

 鈴木:
小さな声で喋る、ささやき声が入ってきてましたけど、あれは最初から決めてたんですか?

 小手川:
あれは録音してるときに実験して、面白いなと思って、録音させてもらって、みんなで聴いて、これは良いじゃないかと思って入れました。実際発声してもらって、発声したのを聴いて、じゃあ次はこうしてみようっていうふうにやってましたね。ささやき声は録音して発見した声の一つです。

 一之瀬:
声の出演者は7人いるんですけれど、そのなかにはいわゆるプロの役者さんも混ざっていて、かと思えばまったく演技経験がない学生もいて、そのグラデーションが、さっき鈴木さんがおっしゃられたような、素人の人が演技をするリアルさにもつながっている。統一されていない、まちまちな声が重なるっていうのが、どこまで意図したものであるかは別としても、この映画の面白さとして現れているのかなと思います。

 鈴木:
遊園地再生事業団を主宰した宮沢章夫さんは、芝居をつくっていくときに、上手な役者さんと、演技経験の少ない人を一緒に舞台にあげていました。見ていると明らかに変なんですよね、噛み合わないから。だけど、噛み合わないときに、テレビとか出るような有名な役者さんの上手な芝居が変にみえてくるということが起こってきて。宮沢さんにわざとなのかをきいたら、いろんな人がいるっていうのが面白いということを言ってましたね。

観客との質疑応答

 観客A:
以前に一回、別のところで上映したのを拝見したんですけど、そのときは制作に関わった別の方が登壇されてたんですが、映画っていうよりかはどっちかっていうとプロジェクトみたいな印象が強い作品だなって前から思っていて。プロジェクトを進めていくときにどれくらい作り手側に作品作りの自由があったのか、っていうのと、まあ監督がもちろん中心だとは思うんですけど、小手川さんの意思みたいなのがどれくらい反映されているのかっていうのが前から気になってて、もし答えられるのであれば教えていただけると嬉しいです。

 小手川:
ありがとうございます。自由度について言うと、結構自由にやらせてもらっていたと思います。こうしろああしろとはあまり言われなかったですね。つまり、このカットはダメだとか、こういう場面を撮影しなきゃいけないとかの厳しい指示はなかったです。僕の意思がどれほど反映されているかどうかは……一之瀬さんはどう思いますか(笑)

 一之瀬:
何と言ったらいいんですかね、集団制作のものなので、色々な人の意思が反映されていると思うんですけれども、映画として誰か一人の主体が立ち上がるのだとしたら一番近いのは小手川さんだろうなと思います。

 小手川:
実際セリフを読んだ方とか、撮った方とか、音楽をつくった方はそれぞれいるわけで、そういう意味では当然、すべてが僕のコントロール下にあるわけではないですけど、こういうふうに撮ってほしいとか、こういうふうにセリフを読んでほしいとか演出したのは自分で、また制作の全員と関わっていたのもたぶん僕、あとプロデューサーの髙山さんですね。まあいろいろ自分のやりたいことを多方面にお願いすることばかりでしたが、ともかくも僕が作品の完成を決定する立場にはありました。これでお答えになっているかわかりませんが……。

 観客B:
自分は藝大の工芸科で制作している者なんですけど、こんなことを自分も言われるのがすごい嫌だなって思うんですけど、結局君は何が言いたいのって言われるときがすごい嫌で、いま登壇されてお話を聞いているなかでも、何かはぐらかされているような感じがちょっとする。本当に聞かれたくないことを聞いてしまうんですけど、何か一言で言うとするならば何を伝えたかったんだろうって。初めてこういう映画をみて、歴史的背景に対しての知識もないし、どういう文脈の上でこういう映画をつくってらっしゃるのかもやっぱりよく分かってないんですけど、素人目線からみて、何を自分は受け取ればいいのかなっていうことをお伺いしたいです。

 小手川:
何を伝えたかったかっていうのは、そうですね……それはつくっていくなかで考えていたことでもあるのですが、他方で、こうやって上映活動していて、アフタートークなどを経て、その過程でも、何を伝えたかったのかを考えてきました。まあ映画は結局みてもらわないといけない、つくって終わりではなく、観客にみてもらわないと存在しないものなんです。要するに、みていただいたみなさんのおかげで考えたことをいま話している、と思って聞いてください。この作品は日本のある時期の過去の出来事を扱った映画であって、それはとても困難な時代ですね。いいかえれば、現在というポジションに立ったとき、30、40年代の日本という歴史的な時空間は、非常に考えることが難しい時期です。つまり、この時期は日本の歴史においてある種のトラウマであり、そこにどうアプローチするかということを……困難さを抱えつつの一つの歴史化の方法を伝えたかった。いま、そうした歴史のトラウマにどう触れうるかっていうことを伝えたかった、と言っていいんじゃないかなと思います。

 観客C:
今回の制作にあたって、複数の声があったと思うんですけど、登場しているのは一人。そうなると参照している一高生の人物って具体的に一人だったんでしょうか。それとも集団の記憶というふうに位置づけて制作していたのか、気になっています。

 小手川:
個人の誰かにフォーカスしたというわけではないです。お言葉を借りれば、集団的記憶の方に重きを置いていますが、そこにもいくつかレイヤーがあると思っています。たとえば、作中に登場していた手書きで文字の書かれた紙の資料がありますが、あれは毎年、自治寮の委員会の人が書き残した会議の記事録や、何日に何があったかなどを事細かに記録した寮日誌です。この文言を書いたのはごく一部の一高生ですが、その奥にはいろんな人の声や振る舞いがあるわけですね。ここには、言葉自体の記憶があり、その言葉を書いた人間の所作があり、彼らが思考し、歩き、そして彼らの声が実際に響いていたであろう駒場の建物があり、さらには空間そのものがきいていた言葉がある。それらが合わさった意味での集合的時間、あるいは集団的記憶が今回の映画の主人公に当たるんじゃないかなと思います。

 一之瀬:
ちょっと付け足しをすると、制作者が基本的に全員研究者であるということもあって、歴史的な資料に研究者として向き合うときの感覚を各自が投影していた部分もありますよね。研究対象と研究者の関係性というレイヤーもあったかなと思います。

 観客D:
映画に関してはまったくの素人なので、制作の技法などに関してはわからないんですが、なので内容的なところを中心に。一高というものに関しては、自分が関西人というのもあってまったく認識がなかったんですね、それで今回初めて籠城主義とかを知って、要するに彼らは日本社会のなかでは当時優れたエリート中のエリートという存在で、将来の日本を担っていくような存在であるということですよね。彼らが寮生活で、閉鎖的な独特な生活を送っていると。彼らの存在が、当時の世界のなかでの日本を喩えているようなイメージにみえました。たぶん日独伊三国同盟の頃のものだと思うんですけど、旗の下で学生たちが集まっている写真がありましたが、あれは今から歴史を振り返ったら間違った方向に日本が進んでいくという時代ですよね。そこに主人公の「私」、男の子が一生懸命に、若いからアイデンティティを模索していって、一高の人たちに自分自身を重ねよう、彼らを理解しようとするんだけれども、でもそれは本当に正しいのかどうか——さっき正しさは何かという話も出ましたけれども——そういった迷いは非常にうまく表現できているんじゃないかなと思いました。
ナレーションの男声と女声がずっと同じセリフを繰り返すというのはやっぱりみていてイライラしてきたんですよね。そのイライラというのがやっぱり効果になっているのかなというのは思いました。だから私は、素人なもので、これを映画としてどう受けとめるかというのはちょっと難しいものがあるんですけれども、私なりに今回の映画をみて、籠城主義というもの、そこに若い大学院生の男の子がアイデンティティを求めようとして、もがいてもがいて、最後地下室に彼がいるんですよね、結局アイデンティティをみつけることもできずにこれからも模索してもがき続けるんだなと。そういった感じがよくわかって、そういう意味では非常に面白く拝見しました。ありがとうございました。

 小手川:
籠城主義だなんて聞きなじみもない言葉だとは思います。作品の前半部で触れられていますが、1935年に本郷から駒場に一高が移転して、実際に駒場の一高は1950年3月まで続くんです。それで、作中に使用した資料に新籠城主義という、「新」の字がついたものがあったと思うんです。あれは校地が移転したから、新天地の駒場という場所で、籠城主義に代表されるような一高の伝統をどう引き継ぐかということが問題になっていたんです。
それは基本的な方向性として、過去の伝統に連なるようなしかたで、どうやって偉大なる伝統を異なる場所に移植するかというモチベーションだったんです。でも、あの「新」という字を付けたことで、意識的にか無意識的にか、旧籠城主義が存在することになり、古い籠城主義と新しい籠城主義のあいだに線が引かれるわけですよね。つまり、伝統をどう引き継ぐかという問題を立てるときに、同時にそこに断絶線を自ら引くという身振りがあったわけです。少なくとも僕が知る限りでは、この亀裂に駒場の一高生は目をつぶる部分があった。駒場の一高は、そうした断絶がないかのような統一性に執心した時代でもあって、それは一高に限らず、たとえば明治維新後の急速な改変を経て、1920年ぐらいからみられるような日本史の動きと類比できるかもしれない。一高という非常にスペシフィックな対象から、そうした大きな歴史がみえてくる可能性もあるだろうと、いまご感想にあったような、この学校が一つの時代を象徴しているというのを聞いていて、そんなふうに思いました。

 鈴木:
監督としては、それを批判的に捉えているんですか?

 小手川:
批判的……まあ自分は大概批判的に物事をみるところはあると思うんですけど、過去を批判的に、と言うと、すごい大上段に構えるようなところもあって、つまり現在から見直して間違っていると言うことは簡単であり、そのような批判はしたくない。たとえば駒場には当時と同じ建物が残っていて、当時の出来事を肯定するかしないかというのと別に、ただそれがある、存在しているということが事実としてある。そうしたいくつかの事実を否定することはできないわけです。そういうことは考えていますね。

 鈴木:
最後に電車、道のシーンがあって、今でも正門を入っていくとあの空間に行けるという印象を残した終わり方だったなと思いましたね。

 観客E:
興味深く拝見しました。たまたま共同脚本を担当されている高原さんの研究課題を知っていたので、一高生の悩みや煩悶などがテーマになったというのは承知しているんですけれども、一方で、小手川さんはふだんロシア・ソ連映画などの研究をされていて、そこの問題意識との接続があったのでしょうか、ということが一つ。
もう一つありまして、質疑応答のなかで集合的記憶というテーマが出てきたかと思うんですけれども、ちょっと仕事と関係なくもないテーマでして、集合的記憶というところに関心があるので参考に教えていただきたく、このテーマとの関連で参照した書籍や概念があれば教えていただけたらなと思いました。

 小手川:
高原さんは共同脚本で入っていただいた方で、一高を研究していて、いま博論を書いています。原案にもクレジットされているのですが、その原案となったテクストでは、彼自身の一高に対する愛情みたいなものを自伝のような形式で書いてくれているんですね。そうした文章をどう僕が読むか、読み換えるかが彼と僕との共同作業にあった。現代において一高生に同一化するということはアナクロニズムなわけです。僕の目には彼のテクストのスタイルが、駒場の一高生が本郷時代を、あるいは本郷の一高生が建学の伝統につながるようなしかたで自分より何世代も上の人たちを回顧していきながら書かれた言葉と共鳴しているかのようで……つまり、異なる文脈で、まったく違う時代に書かれた言葉だけど両者がかなり重なっている部分があるように思えた。一高生、あるいは一高に関する資料に接するうえでの研究者としてではない態度を僕は彼から学んだ、というのが大きいと思いますね。
もう一つ、集合的記憶について参照した概念があるかといえば……ないと言ったら嘘になる気がするんですけど、でも制作中に何かの概念を中心に立てましょうといったことはなかった。たとえば共同体などをキーワードとして挙げてはいたけど、何らかの概念と接続したり参照項を明示したりせずにいましたね。

 一之瀬:
あえて哲学者の名前を挙げて、特定の著作で言われている概念を中心にすることはなかったですよね。でも、どうですかね、読んでいる本などはだいたい共有されちゃっているっていうのはありますよね。

 小手川:
制作スタッフにはいろんな人がいるんですけど、僕と一之瀬さんは表象文化論コースに所属します。プロデューサーや音楽担当の久保田翠さんも同じコースの出身で、出演していた乙幡さんや宮城嶋さんも同じコースのほぼ同期です。このように製作陣のかなりの部分が表象文化論コースに関わりのある人間で構成されていたので、それによって自然と共有されていた文献みたいなのはあるでしょうね。

 一之瀬:
あると思う。田中純先生ですかね。ジョルジュ・ディディ=ユベルマンとか。ベンヤミンとか。

 小手川:
そうですね、おそらく……すみません、ちょっと曖昧なお答えになってしまいました。振り返って、集団的記憶だなとか思ったりすることはありますが、制作時に掲げていた概念や読み合った文献はなかったという感じです。

 鈴木:
次回の上映会はいつ?

 小手川:
特に決まっていませんが、いつでもどこでも作品を携えて行きますので、お声がけもお待ちしております。


登場者プロフィール

鈴木理策
写真家、東京藝術大学美術学部先端芸術表現科教授
1963年和歌山県生まれ。東京綜合写真専門学校研究科修了。写真を中心とする作品を制作している。主な展覧会に「写真と絵画-セザンヌより 柴田敏夫と鈴木理策」(2022年、アーティゾン美術館)、「意識の流れ」(2015-2016年、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館・東京オペラシティギャラリー・田辺市立美術館)、「熊野 雪 桜」(2007年、東京都写真美術館)など。第25回木村伊兵衛写真賞、第22回東川賞国内作家賞、2008年日本写真協会年度賞など受賞。

小手川将
映画作家・映画研究者。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程在学中。現在の主な研究対象はロシア・ソヴィエト映画、とりわけアンドレイ・タルコフスキーについて。論文に「観察、リズム、映画の生──アンドレイ・タルコフスキー『映像のポエジア』の映画論における両義性」(『超域文化科学紀要』26号、2021年)など。監督作品に『グッバイ・ガール』(2016年)、『籠城』(2022年)。

一之瀬ちひろ
写真家。東京大学大学院博士課程在籍。1975年東京生まれ。写真集に『きみのせかいをつつむひかり(あるいは国家)について』(FREAKS、2019年)、『STILL LIFE』(PRELIBRI、2015年)など。個展に「きみのせかいをつつむひかり(あるいは国家)について」(銀座ニコンサロン、大阪ニコンサロン、2019年)など。グループ展に「みえるもののむこう」(神奈川県立近代美術館葉山、2019年)など。2014年JAPAN PHOTO AWARD受賞。論文に「光と運動のテクスト─ジョナス・メカス『ウォールデン』における重なりあうホーム」(『Phantastopia』、第2号、2023年)など。博士論文としてジョナス・メカス論を執筆中。

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