面白い、西陣織②
前回書いておりました、以下の記事。
https://note.com/a_butterfly_way/n/ne531aad6fe23
引き続きその「面白さ」をお伝えしていきたいと思います。
②「伝統」と言いながら続けたことで、生まれた工夫の数々がある
日本の伝統的工芸品の一つでもある西陣織ですが、西陣織として名乗るのには、西陣織工業組合に所属してそこで定められた規定を満たす必要があります。
私たちも、登録番号2446というナンバーを持ってはいるのですが、老舗の方々に比べれば遥かに新参者ですし、多くを守るものがないからこそできることも沢山あると自負しています。
西陣織が「西陣織」と呼ばれるようになって、550数年ほどと言われています。
その歴史をかいつまんでいうと、西暦794年から京都には都があり貴族の方々の装束や諸々暮らしの中の必需品としてお絹はありました。
もっと遡れば、5世紀半ば頃に朝鮮半島から秦氏が入って機織りのギルドを太秦の方に作り始めたところから京都の織物の歴史は始まっています。
ですが、応仁の乱で一度京都の町が戦火にあった際に、沢山の職人さんが大阪の堺市を始め方々に散ったそうなのですが、戦もおさまった頃に、西の陣(山名宗全が陣を本陣とした)あたりに、再び職人さんたちが戻りまたギルドを築いたことにその名の由来があるそうです。
そこから、西陣織としてのアイデンティティが確立されて、令和の世まで続く伝統的工芸品の一つとして受け継がれてきました。
とはいえ、西陣織一番の受難の時期は、東京への遷都(天皇陛下が東へと移られたこと)1869年(明治2年)以降のことと聞いています。
一番のお得意様だった天皇家が京都を去られ、取り残された西陣織の職人さんたちの焦りは想像に難くありません。
その受難を超えるために、西陣織を工業化させる必要に迫られたのです。
そこで、フランスのリオンからジャカード機を輸入することを契機に、少しづつジャカード機が日本の中に根付いて行ったそうです。
この長い歴史の中で、代々受け継がれてきたものは沢山あるのですが、広がりを見せたのはその”技術”や”技法”だということができます。
西陣には沢山の工程を担う職人さんがいらっしゃいます。
絹糸を作る、絹糸を染める、金銀糸含め様々な糸を作る、機にかける経糸を作る、経糸を機にかける、経糸を継ぐ、杼・ひ(緯糸を左右に飛ばすための道具)を作る、紋意匠を作る、紋をほる、デザインを描く、機の調整や道具を作る、機を動かし織る…
などなど。思いつくままに書いただけでこれくらい出てきましたが、本当はまだもっと、いらっしゃいます。
これらは一工程に過ぎないのですが、それぞれの工程で、職人さんの手によって日々技術が積み上げられてきており、一枚の布自体が技術の結晶ということもできるのです。
近年は特にそれぞれの工程で”職人さん”が少なくなってきているのですが、令和になって着物への需要がこれまでと形を変えていく時代の流れの中にあり、またも西陣織の受難期に入っているようにひしひしと感じています。
けれど、「伝統」と言いながら、受け継がれたことの中に様々な技術があり、それが斬新なアイデアを媒介して、「あっ!」と驚くようなものになったりもするのです。
そこが、私が「面白い」と感じているところ。
こちらは、伝統的な技法「緯錦」と呼ばれるものを掘り下げてより発展して作ったものなのですが、緯糸に少し工夫を凝らして、みる角度によって色々に変化をつけるようにしたものです。
👆この動画を見ていただいたらわかるように、上下に御朱印帳を動かすことでパッと色が変わります。
例えばですが、
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そして昨年には、京都芸術大学の梅崎先生と有志の生徒さんたちとのコラボで、
本藍染めで染められた糸を使い学生さんたちデザインの布地を織らせていただく機会などもありました。
こんな布地が織りあがったのですが、パッと見てこれを西陣織だという人はほぼいらっしゃらないと思います。
麻糸はとても毛羽立っているのでとても織りにくいのですが、それでも工夫を加えることでなんとか織り上げてくださいました。
こんな風に、これまでの既成概念を取っ払ってみたら、
伝統の技術の上にありながら様々な可能性を実現していけるものだと感じています。
それが私にとって、西陣織の面白いところと特筆してお伝えしたいところでもあります。
では、また続きは次回に!!
フランスからスペインに抜けて進む、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼旅へいつか出たいと思っています。いただいたサポートは旅の足しにさせていただきます。何か響くものがありましたらサポートお願いします♪