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晴着でつながる人とその思い

先日髪の毛をカットしにいきました。

私はいつもショートヘアなのですが、着物を着た時にできるだけ衿に髪がかからないように襟足は短くしていただいています。

注文らしい注文はほとんど言わないのですが、「キモノを着るので、襟足だけ短くおねがいします」と毎度お伝えするので、私の仕事についてはなんとなく理解してくださっています。

だからということもあってか、担当してくださった美容師さんのむすめさんが嵐山へ”十三詣り”に行ってきたときのお話をしてくださいました。

京都では十三詣りという風習があるのですが、女の子が数え年の12歳になったとき渡月橋という橋を渡り法輪寺さんというお寺へお詣りにいくというものです。

帯の仕事に携わっている私としては、ついつい、「お着物で行かれたのですか?」とか、「どんなお着物をお召しになったのですか?」などと、興味津々でお伺いしていました。

そうしたら、当日お召しになったのはご主人のお母さまのお着物で、少しシックなものだけれどお嬢様がとても気に入られたものがあり、そのお着物で支度されて十三詣りへ行かれたとのことでした。

そしてとても素敵なことに、そのお母様の一枚のお着物は、親戚の方々が色々な形でお借りして着ていらっしゃるお着物だということでした。


そのお話を伺っていて、着物の良いところってそういうところですよね、って頷いておりました。

私の実家は帯を制作する仕事をしていますが、母方の祖父は呉服屋、父方の祖母もまた丹後でちりめんの機をうごかしていました。

なので親族一同、様々な形で”キモノ”とは携わっているので、私がいま着せてもらっている着物は、母のもの、祖父が祖母のためにつくったのもの、叔母たちが譲ってくれてたものなどでタンスのほとんどが埋まっています。


今思えば、親族で商いができるほどに皆キモノの仕事に携わっていますw

デザインするひと(私たち)、織る人、仕立てる人、染める人、京刺繍を施す人…みななにがしかの職人が身近にいました。そういえば。


そして、やはり晴れ着になると、娘たちは一枚の晴れ着をみなで着まわしていとこの姉たちが袖を通したものが、末の私のところへと回ってきている着物も数枚あります。

私の娘が卒業式やお正月などに袖を通す晴れ着も全ていとこのお姉さんたちとそのお子さんたちがみな着飾って写真を撮ったものばかりです。

一枚のキモノを作り上げるまでにとてもたくさんの手間暇がかかった布地たちなので、みな大切に着てそれを次の世代へと手渡そうとしてきました。

少しよごれたなら洗いにだして、丈が合わないのならすこしほどいて直して、随分と色茶けてきたのなら全部一枚の布へとほどきもう一度美しく染め直して、仕立て直す。

そんな風に、一枚の布が丁寧に生まれ変われる工程があるのが着物文化のよいところのように思えます。

洋服とは違って、少しおなか周りが大きくなっても、合わすところをちょっとずらすだけで何もなかったかのようにルンルン♪で着られるのも良いところです。

そして何より、少しくらい恰幅のいい方が魅力的に着こなせるのがお着物の素敵なところだととも思えてきます。


僧侶が一枚の布をつぎはぎしながら使い続けるという『糞掃衣』(ふんぞうえ)という布の在り方も時に見聞きします。

修行僧ではない私たちですが、『使い捨て』文化にはない”物を大切にするこころ”を受け継いで、次の世代へと喜びといいものとを手渡せる大人になりたいものだと思いながら、スッキリ軽くなった襟足をみて、また「着物を着たいなぁ」と思うこのごろなのでした。


フランスからスペインに抜けて進む、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼旅へいつか出たいと思っています。いただいたサポートは旅の足しにさせていただきます。何か響くものがありましたらサポートお願いします♪