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後悔が照らす新たな道――ADHD治療薬で得た「見える」自分

ADHDの治療薬を飲んで、不注意、多動性、衝動性といった症状が緩和されました。その一方、自分がいままでADHDとしてしてきたことがフラッシュバック。猛烈な後悔と反省が押し寄せてきて困っている。

正直、今までは自分が何をどのように失敗していたのかを、まともに振り返る余裕すらありませんでした。ADHD特有の「今、目の前にあること」へ全力で向かい、衝動的に行動し、結果として何度も同じ過ちを繰り返してしまう。そのたびに周囲の人を困らせたり、失望させたりしてきたにもかかわらず、当時の私は「なぜこうなるのか」を深く考える前に次の行動へと移っていたような気がします。

 しかし薬の効果が出て、頭の中がクリアになると、これまでの自分の行動がまるでスローモーションの映像のように、ひとつひとつ明確に浮かび上がってくるのです。あの時、なぜあんな軽率なことを言ってしまったのか。どうしてあの場で堪えきれず行動してしまったのか。相手の表情や、その後気まずくなった空気、残念そうな視線が、今さらながらありありと思い出せます。そんな「過去の自分」が次々とよみがえるたび、後悔と自己嫌悪が胸に込み上げます。

 薬を飲む前は、「自分はどうして人と同じようにできないんだろう?」という漠然とした自責感や、不安、孤独感がありましたが、それは常に「現在進行形」の苦しみでした。その苦しみは、大抵はすぐに新たな刺激や行動によって押し流され、明確な形を持つ前に消えていく感覚でした。しかし、今は違います。「過去」という一本のフィルムが急に鮮明な映像として上映され、自分という存在が社会の中でどう振る舞ってきたかが可視化されてしまった。これは、まるで長年溜め込んだツケを一気に払うような行為にも感じられます。

 このような過去の記憶との対峙は、当然ながら辛いものです。なかには「今さら気づいてどうするんだ」「もう手遅れじゃないか」という自己批判も浮かんできます。けれど、一度立ち止まって考えなければなりません。今、この瞬間をどう受け止めるべきなのか。自己否定するだけでは、これまでと同じ「堂々巡り」が始まってしまうかもしれません。

 今、私が取り組むべきは、「後悔」ではなく「理解」なのかもしれません。過去の行動は、今さら塗り替えることはできませんが、それがなぜ起こったのかを知ることはできます。ADHDによる脳機能の特性、物事の優先順位をうまくつけられない、感情的インパルスの抑制が難しい、環境からくる過剰な刺激への過敏な反応――そうした生物学的・心理的な背景を理解してはじめて、過去の自分の行動は「理由のない失敗」ではなく「特性に伴う困難」であったことが分かってくるのです。

 理解することは、過去を免罪することではありません。過去の行動が誰かに迷惑をかけた事実は消せないし、それに対する申し訳なさや責任は残ります。ただ、理解は自分を一方的に責め立てるのではなく、今後どう行動すれば同じ過ちを減らせるのか、という建設的な思考へと向かわせてくれる可能性があります。

 また、こうして後悔や反省が起きてしまうこと自体、実は私が成長している証拠でもあります。薬によって思考の整理が可能になり、自分の行動を客観的に見つめ直す力がついたからこそ、今この感情が湧き上がっているのです。もし、今の自分が過去の自分を責めることばかりに囚われているのであれば、視点を少し変えてみたい。これは、未来の自分がよりよい行動をとるために必要な「準備期間」なのだと。

 過去を思い返して落ち込むたびに、私はこう問いかけるようにしています。「この過去の経験から、これからの自分は何を学べるだろうか?」たとえば、人間関係での行き違いを思い出したら、今後は相手の立場をより考え、話す前に一呼吸おいてみる努力をする。集中できずタスクを放置した経験を振り返ったら、タスク管理ツールやタイマーを導入してみる。そうした小さな工夫は、過去の後悔を無駄にしない「実践的な知恵」となるはずです。

 もちろん、すぐには気分は楽にならないかもしれないし、時にはまた過去の失敗に苛まれることもあるでしょう。それでも、私は今後の人生を通じて、この「客観視できる力」と共に生きていくしかありません。そして、それは必ずしも悪いことではないはずです。薬を通じてクリアになった視界は、自分自身をより正確に理解し、成長していくための道標になってくれると信じています。

 今、猛烈な後悔と反省に飲み込まれているかもしれませんが、それは次のステップへと進むための大切な通過点なのかもしれない。ADHDの治療薬がもたらしたのは、単に症状の軽減だけでなく、自分自身をより深く理解するためのチャンスなのだ、と。私はそう考え、今日も一歩ずつ前へ進んでいこうと思います。

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