日々徒然24 見捨ててもいい
今この瞬間、私のお守りはこの言葉になった
「見捨ててもいい」
体の感覚は、胸の少し上のあたりが「すー」っとする風が通ったような感じ
心のモヤモヤ晴れないことろは → 息をようやく吸えて、なんだかもやが少し晴れ、空間ができたように楽になった
気がする
そして、意識してかしないでか分からなかったけれど、鼻から息を深く吸い、深呼吸をした
ここ一年近く、いや、遡って思い出してみると、ずっと私は「いなくなってしまえればいいのに」と思っていた
(多分暇だからなのか!?と問いてみたが、忙しくしている時でも、ふと意識に目を向けると、そう言っている気がする)
そして、最近では「私もういいかな。。。」「私いらないかな」
と自嘲でも、無価値感でも、あきらめでもなく、自暴自棄でもなしに言葉が綴られる
実際に口に言葉で出してみたら、その自分に関して感じた事は、とても意外だった
口に出すと落ち込むかと思ったが
むしろ「やったー!」「いいんだ」といった変な安心感さえ得られるような、奇妙な気持ちがあった
それは、カトちゃんとお話ししていて出てきた
というか、出させて貰えた
私に希死念慮があるとは思わないが、近いのか?
まず分類の基準がわからない
そもそも
いなくなりたい、死にたい、消えてなくなりたい
なんて、誰しも一度は深淵を覗く気持ちで向き合うことがある感情なのではないだろうか
だから、私はそのような感情を持って、付き合っていたとしても普通のこととして考えていた
でも、2022年に1万5千人近くの若年層(18歳~29歳)を対象におこなった聴き取り調査によれば、約45%の人が希死念慮、つまり「死にたい」と考えたことがあると回答があったそう(それもどこで、どんな声掛けで調べ、どんな場所でどんな生活をしている人達を調査したのか不明だから鵜呑みにはできないけれど)
ただ、数字だけをみて思ったのは
「あ、半分以下。みんな誰しもが死について、希望したり悩んだりすることではないのか」
と拍子抜けした
話がそれてしまったから、自分の事に戻すけれど
私は、カトちゃんには目的があって話していた訳ではなく、なんとなくずっとついて回っている「私もういいかな」的な感情があると話していただけなんだけれど
気がついたら母や祖母の話になっていた
端的に話すと、私は祖母や母の気持ちの🗑️ゴミ箱になっていたよう
そして、私もその役目をイヤイヤしながらでも、罪悪感を出して自分を叩きながら、役目を「正しさ」から果たそうと共依存している関係
と言われた
なんだか、カトちゃんにはボス、上司の存在がはっきりあるんじゃないかな
もちろん、知識に裏付けされたものは多分に洩れずある
こんな風に書いて整理してしまえば、なんのこともなく癒やされていないインナーチャイルドや因縁、自分を形成する親子関係の紐解きなんだけれど
そうではない、瞬間が多々あった
一番
自分を許すということが出来ず、許すこともいいとは思わず、しがみついているようなところを見透かされた感じ
そこには今回は触れなかったけれど、この限られた時間の中で、こんなにもコアが炙り出されたのは結構、新鮮な気持ちだった
そして今回はこれ
見捨ててもいい
だった
私にとっては、この言葉はとても爽快で
対母に限らず、自分の案件に対して
「正しいか」「間違っているか」ではなく
私に「選択権がただある」に立ち戻れる状態を思い出させてくれる言葉だった
気持ち的にフラットになりやすい、感情を挟まなくていい
一つステージが上がったような感覚
そして、改めて何を自分が選択するのか
一瞬だけれど、大きな一瞬
心の余裕が生み出される
自分に選択権がある
いい悪いは無く、その時できること それだけだ
でも、それでも感情にはやはり振り回されるが、一瞬でもステージが変わることは、選択肢が増えてモノの見方も変わるかもしれない
そうは思っても、やはりそもそもそんな「人を見捨てる」だななんて怖いこと思って、いいのだろうか
思ったら、やってしまうのではないだろうか
しかも、母を見捨てるだなんて
と葛藤が出たら
カトちゃん
「実際そうは言っても、思い描くような酷いことはできません。出来ないだろうし、しないですよ。」
そこに救われた
お守りを唱え、それが私に一瞬の余裕と爽やかさを思い出させてくれる
そして
改めて何をするか
その時、自分が選ぶものが人の道外れていようが、私はおそらくその時最善を選んでいるはず
だって誰が正しいとわかるのだろうか
正しいはそもそも、葛藤と争いの元にしかならない
選択し、自分ができることにまずは花丸をあげたい
葛藤はあるけれど
「見捨ててもいい」
意外に爽やかだった