『 りえ返裏、 い願 』 話寓
それではあなたは、その女性を惨殺したということですね?
閑静な住宅街の大通りの終わりに面した小さな派出所で、初年の勤務を終えようとするばかりの新米巡査は、当然の如く腑に落ちない様子で、ビニールのカバーに覆われたスチール製の机の向こう、目前に座る女による唐突なる自発的告白を事務的に要約し、更に重ねて繰り返した。
それではあなたは、その女性を惨殺した、ということですね?
要約して問うた巡査自身が頷きながら質問していた。女はリズムを合わせて再度はいと答えた。女はこの女当人曰く、別の女を殺してからこの派出所に辿り着いたようだった。白い絹か麻のような軽やかな繊維のワンピースを着流して、深いコバルトのフラットシューズを軽やかに突っ掛けて、他に手荷物も無い様子であり、何よりその白と碧と肌のアイボリーの何処にも鮮血の斑点など拵えてもいない女が、女を殺してから歩き、そしてこの派出所を選んで入り、自分が何をしてからこの空間に流入したのかを、その空間に居合わせた一人の男に告げるという、ただそれだけの矛盾だらけの顛末がここに起こっていた。
巡査が言えることも問えることも一つしかなかった。それはそれではあなたは、その女性を惨殺した、ということですねということであり、若い新米巡査はそれ以上の追求もそれ以前の否認と拒絶も出来ないでいるような、心理的な宙吊り状態にあった。というも事態や全体の雰囲気は妙な塩梅の上に立っていたのだ。まず持って目前の状況、女の風采の現況からしても、その向こう扉の向こうに伺われる、いつも通りに継続されている何気ない日常の閑静さからしても、やはりこの街ではまだ何も起こってないはずだった。外をパトロールする先輩巡査もいつものように、路に座す浮浪者や公園に屯する高齢者、そして学童への道を行く子供らを眺めそして声と気を掛けながら、同じ様に感じているだろう。いや、そのように感じていることさえ感じることのないような透明な日々の日常性が、この街の今の確かとして継続されていることだろう。日々なる闖入者のために用意された、机の街側に置かれた椅子に座す女によってその街から少しばかり隔てられながら、若い一人の新米巡査は凡そそのような事柄と心象を頭腔に巡らせつつも、しかしながら一方でそれと同時に、風采を越えて目前の女から迸る、見えにくい力、静かな迫真と確かな強度を犇々と感じながら、どうもしかしながら確かにこの街では何かが起こったのかもしれないと、思うことをやめられないで目前の女に同じ質問をした。
それではあなたは、本当に女性を惨殺したん、ですね?
しかも通りがかっただけの女性を
今日の明け方に
はい、と女は答えた。私は未明の街でその女性とすれ違おうとした時に、その女性を殺さなければならない、殺して裏返さなければならないと思ったのです。そうするか傍をそのまま通り過ぎるかのどちらかしかありませんでした。巡査は頷きながら見るようにして聞いている他なかった。彼女は未明の街の街路の薄明かりに照らされた薄闇から、白い絹か麻のようなワンピースを襞のように揺らしながら、その中からこれまた白いアイボリーのような肌を滑らせた足の先に淡いコバルトの靴を履いてかたこと、何かを呟きながら私の前から私の前へと歩いて来ました。私は、街を滑り行くそのような女性を、これまた私も動いていたのですが、カメラのように眺めながら、この一点から裏返してこの女性を殺さなければならないと思いました。最初に焦点を合わせ眺めておりましたのは胸です。どうもそこに重要なものが仕舞われているようでした。それは様子からして波打つ小箱のようなものでしょうと言われました。そこに、確かに仕舞われ、裏返されるを待たれるものが、仕舞ってあるようなのです。私はしまったと思いました。私は何も持っていない。彼女を裏返すためのものを何も持たずに未明の街に出てきてしまった。しかし彼女との距離は後五センチに十五メートル、考えている暇はありません、私は私が既に持っているもので彼女を殺めそして裏返そうと、この時に決意しました。その時に距離は十五センチから三メートル、距離は重要ではありません、実際には常に伝わっていました。彼女から私に、私を殺めて裏返して欲しいと、願いのようなものが、伝わり、伝われ、気が付くと蔦のように絡み合っていたのです。私達は遠い昔に半分こされた片割れ同士のように感じました。彼女との間が手の距離に鳴った時、私はパチンと拍手を聴いた気がして、そのままねえと彼女に声を掛けていいかい、お前を殺してもいいかい、殺して裏返してもいいかいと、問われる前から代わりに答えてしまっていたのです。彼女は三白眼の白の向こう側からうんと力を返してきました。なので私はそこから始めて、彼女の白目の下から指を挿れて彼女の動きを停止させてから、朝の夕闇に照らされ始めた街の街路に、起きる彼女を寝かせながら、誰かの夢の中でやるように、彼女を裏返し始めました。
巡査は外の風景を視野の周辺で眺めながらその中心を女に奪われていた。外の街では街の外がいつものように表立ってる。何も起こらない平穏の午後に戦争のチャイム鳴り、私はいつもこれかなと手に触れる距離にある目前の具体物にふんわりと語り掛ける。
それで、その女性を殺した、んですか
はい、彼女の死は一時的に通過される必要がありました。私は左心房を薬指で貫いたのです。爪の硬さを噛み締めながら、必要あらば歯で骨を噛み砕きつつ、同じものを違うと言いながら、違うものに同じと語りながら、人差し指を眼窩から抜き出した後にびくりびくりと動かなくなった彼女の一々を解体して行きました。咽頭を破るように切開し、その腔をまだのたうっている厚い声帯をごそりと取り出し、振動を発している内に食べました。何か意味のある内にそれを身に含みたいと思ったのです。弾力は抵抗として私の舌に歯にそして通過する時に私の喉に、私の声帯にも膜越しに感じられました。ですのでまだその名残のある今では、私の発する振動は彼女のものでもあるだろうと思います。私は裏返されてから今ここにいるのです。裏返されたまま今ここに、外では秋が裏になりました。
確かに外では裏に秋がなっている
若い巡査は視線を語り手に戻した
次には下腹が裏返されました。暫くの間に何も身に摂れられなかった内臓は、ただその匂いだけを発し、ただそれだけのための熱を放っていました。それは純粋な肉の匂いと熱と言えました。それにそのまま触れたことがあなたにはありますか。甘い、淡い、柔らかな海のような質感が手中に収められているのに、私は野蛮な悦びを抱いていたと思います。私は出来るだけを口に含んで咀嚼し嚥下しました。海が温かい液体となって咽頭を押して流れていくのを聞いていました。それは波というより海底へと下る潮の流れのように感じました。南の方の奥深くへと落ちて行く、太く暖かな海水の帯。それがすとんと私の下腹に収まり、そこからまた出ていく過程をむしゃむしゃと経ているような、また音が、私の肉膜に響いていました。この時点で残されているのは重要なものが仕舞われているはずの胸腔でした。頭の方はそのままにしておいた方がいいとこの時に通りがかった方に教わりました。胸骨や胸腺のことは何かの本で見知っていましたので、私はその接合部、切れ目に焦線を併せてそこらにあった煉瓦の角を彼女の胸部に打ち付けました。
巡査は自分が、筆を執ることを忘れていたことに気が付き、簡易の調書の片隅に朧気な人体骨格を素描しながら、誰か他に通りがかったのですかと、目前に座る女に問うたら、女ははいと答えて巡査の後ろを指差した。その方は私が裏返される時にいつも傍に居てくれるのです。間違いがありそうな時には私に諭し、間違いのない時には事態を眺めながら筆を執ってくださります。であれば調書の必要はないなと、若い巡査が右手に握った筆を落とすと、スチール机にボールペンの頭がカツンと響いて、インクのボールは中に引っ込み、代わりにぽたりと一滴の赤インクが、調書の片隅に素描された人体の骨盤のあたりに、ぽたりぽたりと垂れては広がった。そのボールペンは黒であり垂れたインクの滴は一滴のはずだった。何かが間違っているねと、巡査の耳元に背後から、他の誰かの囁きが告げられた。
何かが間違っていると
この時に巡査は思い始めた
女は暫く惰性で喋り続けた。自分の手が女の胸腔に掛かり数層の肉膜が破られて骨に達し、言われた通りに狙い澄まされた打撃によって胸骨が全体から分けられ、要を失うことで開かれた華のように肋骨が咲き、血潮の巡る赫赫とした双肺がその中にあるそのまた向こうに包まれながら、うねる小箱のような心臓がまだまだ脈を打っている。送り出された血液は上下にある失われた各部から空へと溢れ、黒いアスファルトに沿うように広がり、女の死骸を街路へと縛り付けているようでした。私は彼女をいよいよ解放しなくてはならないと思いました。女は語気を強くして巡査とその後ろにいる他の誰かに訴えを進めた。私は遂に彼女の左心房に指を触れたのです。それはまだ脈々と拍動を保っていました。そこから連なる太い血管の全てを歯で断ち切ってもそれはそのように動いていました。私はこれを裏返し、彼女を解放しなくてはならないと思いました。若い巡査は赤いインクを指に擦って肌に馴染ませている。私は左心室と左心房の双方に指をあてがい、ぬらりと煌めきながらぬるりと滑る赤黒い肉膜に爪を立て、その構造を否定するようにして破り、中の液体を外に出しました。小さな小箱は小さな平面となってしまい、それはまだ波打ちながらも動きの種類は変化したようでした。私は、彼女を解放し、失ってしまったと思いました。跪きながら胸の前に掲げたその肉膜の生地にまだ通っている太い血管の入り口を眺めながら、入り口を埋める濃い鮮血が空気に触れて黒色に変化していくのを眺めながら、私はその腔に管にするりと呑み込まれ、呼吸し、気がつくと元の場所に還っていました。私は彼女を願い、殺め、裏返して解放し、還って来たということを理解しました。そしてこのことを誰かに理解して聴いて欲しいと、思って最初に目に入った交番に流れ込んできたのです。赫のインクが掌の垢と混じって黒ずんていくのを見ていたところ、何かがおかしいと思い始めていた若い巡査は、それでも彼の常識にとり、最期に尋常である質問をした。
死体はそのままでしょうか
自分の目の前にいる女はまたいいえと答えた。自分の目の前にいるおんなはその女は裏返されることで裏返りとなったのでこの世界にはもう居ないと答えた。巡査はその日初めてのひとりごちをした。その女は裏返されることで裏返りとなり、だからこの世界には居ないのか。それは間違ってなどいない。間違っているのは、彼の背後から静かな異なりと囁きが齎される、間違っているのは、未だこの目前の女が解放されていないことだ。部屋の外では西から昇る太陽が空に夕焼けを写し、これから始まる夜の一日に人々がささやかな音色を醸し始め、この始まりと終わりの向こうから、最期に騒音を掻き消す岩のような静けさが訪れようとしているのを聴いていた。知っていた。私はこの女を願い、裏返さなければならない。若い巡査はそう思い、その後ろの誰かもうんと頷いた。
***
閑静な住宅街を散らばらす都市近郊の駅の街の、表口からすぐ傍にある警察署に、一人の女が歩を進めて門をくぐり、居合わせた女をさっき殺したと、受付にいたばかりの別の女性に告白した。西の空へと沈む太陽は夕焼けを空に写し、夜へと向かって終わろうとする一日を静かに祝福していた。