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寓話 『 神様が消えた 』
次の瞬間、神様が消えて、みんなは動きを一瞬止めた。そしてまた一瞬の間にみんなはそろそろと動き出した。
*
その瞬間まで教会と呼ばれていた場所で跪いていたある人は、自分がどうして指を絡ませ頭を垂れているのかも分からなかった。
少しばかり重苦しい、白い装束を着ていた他の人がその人に歩み寄り、「あなたはここで何をしているんですか」と尋ねた。
「私もここで何をしているんだろう」といった含みをもったその質問を、跪いたままの人は咀嚼して、「知っている人が、痛みに苦しんでいて」とだけ応えた。
「ではその人のところに行って手を触れてあげてはどうですか」と、白い装束の人は自らの素朴な考えを述べた。それはとても自然のように思えたので、膝を折っていた人は指を解いて立ち上がり、知人のところへ走っていった。
残された人は「それで私は何をしていたのだろう」と、白い装束を一つずつ脱いでいった。ずっと身体が締め付けられていて、何より重かったのだ。
そうして、そこで一番の友人であった青年の下へ行き、彼を十字架からそっと降ろした。ずっと苦しそうにしていて、可哀想だと思っていたから、固くなった青年の身体を裸の両手で温めた。
その少し上の方から、淡いステンドグラスを通して、柔らかな光が二人を包んでいる。
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その頃、あの瞬間まで市場と呼ばれていた場所では混乱が生じていた。みんな、自分が求めるものの求め方を完全に見失っていた。
自分が求めているものについて、とにかく「くれ」とか「よこせ」と言うばかりの人もいたし、自分がたくさん持っているものと交換しようとする人、また、自らの身体や心を対価として獲得しようとする人、または何らかの論理や言葉によって調達を図ろうとする人など色々あった。
それまでみんなが握りしめていた紙や鉄は路上に散らばっていたのだが、みんなは自分が求めるものを得ようとそれぞれに躍起になっていて、何にも気がつかないようだった。
でもこんな状態が長く続くと、次第にみんなは「自分が欲しいもの」ではなく「みんなに必要なもの」を求めるようになっていった。実際の満足に辿り着くにはそうするしかないと各々が判断したようだった。
それで、あの瞬間まで市場と呼ばれていた場所は、議場や工場と呼ばれるようになり、みんなはそこで話し合ったり出し合ったり助け合ったりするようになった。
求めるものを手にするまでにずっと長い時間が掛かるようになったし、求めることや求めるものもずっと減ってしまったが、当初の混乱は鎮まって、みんなもなんだか満足そうで、何より納得して生活しているようだった。
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時間と呼ばれていたものは本当に何も残さなかった。
人間のリズムは太陽と月、そして海が刻むようになった。ときたま木々がその葉を染めたり落としたりして、地球のテンポを教えてくれた。
祭りは息を吹き返し、人々はそこで死ぬことを思い出した。踊りというものはその記憶であることも思い出された。
一方、自転と公転は、またあの自己目的的なダンスを楽しむようになった。もう誰にも縛られることなく永遠に、怠惰な偶然として円を描き始めた。
誰もが、何かを待ちながらも現在を楽しむようになっていた。駅は単なる待合室のようで、汽笛に急かされるまで自分の旅を忘れたように、ベンチで隣り合わせた人との会話を楽しんだ。
都市は急にパンクして、多くの人がそこから消えた。時間というものが許していた人々の重なりは消えてしまい、空間は一人取り残されて、自分の抱え込んだ生き物たちを不思議そうに眺めていた。
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人間はそう緩慢にそして散漫になった。
あの瞬間までは、色々な人が色々な形で、無限や彼方というものを目指していたのだが、そんなこともあまり起こらなくなった。
船は宇宙を目指さなくなり、大気圏をゆっくりと周回するようになった。それまでの人間を支えてきた、幾つもの重要な思考や発想も忘れ去られた。
同じように、それまで人々を分けていた境界は融け出して、人々が話す言葉や身に付ける品々も緩やかにバラバラになっていった。
だから国と呼ばれていた境界も揺らいで破れ、人々はただ近くにいる人々と動きや身なりを重ねていった。自分が思っていることや感じていることに通じてほしい限りで似通っていき、そうでなければ違いを深めていった。
そうしてこの星にはなお緩やかなグラデーションが保たれている。
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あの瞬間からだいぶ経った頃、ある少年がある夜、海の向こう、雲の向こう、空の向こう、星の向こう、そのまた向こうの星雲を見つめていたら、その陰でそのまた向こうを見つめて座っている一人の神様を見つけた。
不思議に思った少年は、「どうして消えてしまったの」と神様に尋ねた。そんなことを尋ねる自分にも不思議そうにしていた。
神様は向こうを見つめたまま「寂しかったんだ」と言った。少年が「でもずっと見ていたよ」と応えると、神様は「いや、君たちは見ていない。見れば無くなってしまうから見なかった」と、こちらを振り返りそうな勢いで応えた。そしてぽつりと、「私にもまた神様がいて、その人のことをずっと想っているんだ」と、星雲の、そのまた向こうを見つめながら呟いた。
少年は一度ゆっくり頷くと、神様をまた忘れ去り、そのまま視線を、星へ、空へ、雲へ、そして海へと帰し、その奥に横たわる水平線を眺めた。彼のもとに返ってきた世界で、そこから空と海とが融け出していくような気がした。