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人セイ『 濡れるよ 』



蛙の声や夜の音を聞こうとバルコニーへ行こうとすると、濡れるよ、と、父かその友人に声掛けられた。

私は肌を濡らして気を晴らしたい一心であったので、ハンカチ持ってるから、と応えて、その部屋を逃れるように出て行った。

あの部屋には蜂がいて、蜂がいるのはいいのだが、ヤモリが壁の外できゃっきゃと喉を鳴らし、それは内膜に音楽のように響いて、私に外の世界への広がりと、外の世界からここを求める力の働きを教えてくれる。

蜂も力もヤモリもいい、それに世界の聞こえも、しかしあるべき忌避は蚊のような雑音、夜の闇に浮く不快のような雑音だ。それは私の肌が冷たく濡れて香油垂らされることを望まない。見知った標的を失ってしまうから。

濡れるよ、と、私の出た部屋の一隅から声が漏れてくる。作りの大きいこの人家ではバルコニーが大きく、床自体の面積は各部屋を優に超える程だ。ここで雨に濡れて眠ることも陽を浴びて起きることも、そして空を切って走ることさえ出来てしまう。

バスタオル持って行こうか、友人からその父か、それか母か娘が私に応える。私は夜の闇をこだまして夢のリズムを形作る蛙たちの音色に、うんと溜息をついたばかりだった。

今すぐに持って行くから、そこで待っていて。濡れることを恐れた女が濡れることを恐れたバスタオルを持って来る。そのような翁か、翁であることを忘れた狒々が常に室内から私を覗き、伺っている。

私は終生風に乗ることは無いし、龍穴に呑み込まれることも無い。彼の言う龍とは単に力の作用のことなのだろう。目玉を入れない龍が時たま描かれるがそちらの方が正しい。彼らはこの地平に於ける眼差しを本当は構成していない。彼らの意図と眼差しを知るにはそれに触れる必要がただそこにある。後は成るように成るってだけだ。

身を浸してみなければ分からない引力が、穴の方から発生していて、それが穴として成立していて、穴を通してその向こう側の、見えない世界の力が自らを開示している。引き込んで押し出そうという、最も原始的な形で。

私は時たま驚きながら、この目玉のような構成世界が、きちんと視神経を通って広大な情報世界に開かれて行くこと、そしてそのような膨大に身を晒すのは、実としては死であって、ボトルネック越えることの苦痛のみが当座の生となること。

ねえ濡れるよ、バスタオル置いとくよ、前世からの友人がいつも通りに囁いてくれる、あいつはいつも通りに今生でもさ、内地のお部屋の鼓膜みたいだ。ドライブスルーに匹敵する慎ましさで雄鶏が朝を告げている。朝が来る朝が来る、夜が明けて朝が来る光が、私の目には今見える。古代の文明圏では彼らの抒情をこれ程までに意訳した。

ところ戻って龍穴の前、又はその中か手前、自分の身を引き込もうとする水の体積の一歩一歩が進んでいくのを感じる。穴を通して海の呼吸が一所一局に現前する。幾つものあらゆる浸食作用によって山の麓に築かれた地下宮殿がそこにある。しかし浸食以外の自然作用とは何だろう。私は貴方の世界に入植を許されない有罪の種族の、目ぼしい大義も持たない流浪の一頭山山羊です、

私がそのように水に力に自己紹介すると。水を通して力を教えてあげよう。一番素直な H2O がさ、君の肺胞と脳髄を満たすことで教えてあげるよ。この先の世界は広くて深くて疾くて重いぞ、君達は絶対にそのままで衝撃に耐えることが出来ない。穴を通過する際の擦り傷で間違えてしまうだろう、それはメッセージなのに。大丈夫のシグナルだから、いいかいそのような穴の真空地帯、新たな領域への通り道では、それまでの酸素は存在を許されず、お前の言葉はあぶくとなって、絶対的な平等を浮上するのみとなるのさ、そんなことはその崖を上がったところか、今のお前の眺めるバルコニーの先にある岬周囲の、浅瀬に取り残されたドルメンみたいな巨石群が、あからさまに教えてくれているじゃないか、あれはそういう、神様による確かな抒情なんだよ。神なる感情を抱かない君にはこれを叙事として語り継ぐことしか出来ない。むしろそれがメッセージであり祈り、こちら側からの祈り、お願いなんだ

お願い、濡れるから、お願い、入ってきて。時間と空間の外側に飽きた私は内側の孕まるに帰胎して、穴を通じて膜を突き破るを敢行しようと思った。外の夜の闇の世界ではまだ名も知らぬ昆虫が意味も知らずにこだまして、ヤモリが家も知らずに喉を鳴らして羽虫をごくり、早鳴きし過ぎた雄鶏が雌鶏の隣で、羽を温め直しながら小さな夢だけを見てる

ハンカチを持ってる

私はバルコニーで海水を吸い過ぎたハンカチーフでピシャリと空間を打ち鳴らし、異空への音頭を取られた肉体はまた情報を捨てて龍穴の前に帰ろうとしている。ハンカチを持っているから、私は細やかな玄武岩様の溶岩に身を割かれることを避けたくて、ギリギリまで靴を履いて進みシャツも脱がない。濡れるためのハンカチを自分で最初から持って来ていて、私は小さ小さな湖畔のような龍穴の裾野に漸く素足を浸してシャツやベルトをその辺に引っ掛けておく。ここ小振りの半地下世界には濡れるよの視線が届かない。ジーパンとパンツと靴下とリングだけをそのままに、どちらとも言えない大洋へと繋がり吸い込まれて行く呼吸のような一閃の流れに下腿を浸す。

濡れる濡れるよ。濡れることを忘れるみたいだ。水と空気を入れ替えてミネラルを充填したエネルギー世界へ、ほんと本当に繰り出してしまおうか。どうせあらゆる意味で行って帰って来るというだけだ。穴を通した力の呼吸がああと言いうんと返す。

わたしには二度手間にように思えるが、お前がそうするのであればそうなる。わたしはそのことだけを知っていて、わたしはそのようなことでしかない、と、知り尽くした事柄が再度永劫に反響している。

蚊除けの香油を首筋と足と手首に擦り付けようと、本当は私は既に部屋に帰って来ている。蚊が身に寄ってくるのは本当は室内のことだというのに。空を飛んで元通りになる迄はあと半々日のくらいだ。元通りであるべきことがそうなり、そうでないがそうでないといいが。

当初の予定通り私は三度、肌を濡らして熱を晴らす為にバルコニーに出る。友人の敷いてくれた白いバスタオルが引き戸の足元手前で月光を反射し、浮き足立ってる。それを飛び越え未明のバルコニーに出たなら、私と無関係に起きる生の名も無き合唱に、小さく小さなありがとうを言いながら、体は大家の二階にあるのに、はたまた心はあの龍穴辺りに飛んでいて、この瞳のような引力の青から紫そして黒から透明に、光を透かそうとして水面に顔付け、穴の通りにとぷんと体を燻らせた


そうそうそう
見えない神様は仄かに悦び
その悦びを反射した大岩が
浅瀬の一番遠くに放置されていた大岩が
海底に戻るべく自由意志の旅を再開した














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