寓話 『 茶目、瞳の深い沼 』
代筆される助言なる序言
私達は彼のことが好きだった。彼、又は彼女のことを。彼の齎す知識と知恵、新しい習慣、技術や革新とは別に、新しい調和とその為の破壊も別として、それら以上に、私達は彼のことが好きだった。そしてだからこそだと思う、最後の最後に無理にこじ開けてしまったのだ。彼に眠るパンドラの箱、底の無い闇の道、茶色い瞳の奥底に眠る、深い、深くて深くて温かい、沼に続き溢れ出す扉を。この扉を開けた私達は深く眠ってから流浪の旅を開始した。より大きなスケールから見れば再開であり再会であったのかもしれない。この物語は彼と私達との間、我々の記憶に纏わる、繰り返されるレクイエムである。
罪無き襲来
その時世界は震撼した、というのは嘘で世界の半分はまだ通常の運行通りに眠っているか微睡んでいたし、彼が果て無きアトランダムなランデブーの最初の舞台に選んだのは冷戦下のワルシャワだったので、全世界の四百分の一くらいの人々は地面を鳴らして非常に震撼した、というのもやはり嘘であり彼の乗っていた宇宙船は光と音を筆頭とした波動をそれなりに、人間の可視や可聴の範囲に於いてくらいは自由に出来てしまう代物だったので、街の殆どの人が未だ眠りの終わりに微睡む頃に、彼は星の向こうの向こうの遥か遠方から一人切りで、本当に光も色も音も衝撃も無くただゆっくりゆったり静かに、その街という地球の一時的な小区画に漂着したのだった。
厳密に言えば、申し訳無いことにそれも事実ではない。彼の宇宙船(彼自身に由る呼称としては単に船)が最初に接着した地球上の一点は、今もなお惰性的に継続される気怠い日常的戦争と政治的冷熱闘争の冒頭部の、もう純粋な名残りである、スターリンの墓標と呼ばれる年季の入った高層ビルの突端(建築物の高層性が更新されることは暫くなかった)、自然に対する臆病と威光によって据え付けられた、避雷針の先端であったからだ。彼はまずまさに雷のような鋭さと精確さで地球そのものとコンタクトしたのである。その後に何故そこにと問われた際に彼が答えたところによると、
「 その時に居た宇宙空間上の一点から一番近いことが予測されたし、それに点って捕捉しやすいのと、あとあの先端自体はエネルギーを求めていたから 」
とのことだった。まさに彼は最初から雷であった。そして実際にそのような働きをして地表を駆け巡り地殻の底の地核へと触れてからこの惑星を中心の裏側から逃れていった。彼はとある段階を終えようとしている地球という小惑星の、何段階目かにあたる複雑分子の生命のスープに落とされた幾つもの雷の最初の一筋であった。私の記憶自体は最初のこの、罪無き大きな襲来の、終わりの頃までを含むのみであるが。
さてそれで、スターリンの墓標の頂に、真球状の滑らかな金属塊が軽やかに、まるで重さのない羽のようにして止まっている、留まっているのを目にした最初のワルシャワ市民は、これはプレジネフの悪い軍事的ジョークか何かであろうと思案した。そして実際にはそれがあらゆる文脈に於ける軍事的及び政治的つまり日常的脅威であるのかどうかを、長い長い倦怠期のような戦争の内に養生された逃避的感覚のようなもので消極的に審査していた。この時代、いやどの時代に於いても、個人の程度を極端に超える暴力装置というものは、その銃口がどちらに向いていようとも、結局はその周囲や近隣に生きる市井の人々とあらゆる有機生命にとって純粋な脅威であり暴威でしかなかったのであるが、日常を倦怠として生きる他無かった国境線内の、これまた罪無き数多の市民は、現実に対する冷静なるチェックメイトとなり得るような認識と判断を持てずに下せないような心理世界をただただ気怠げに生きていた、という訳もあり、そして一方では高度に発達した社会的動物の反射的自己防衛本能の常として、朝の陽を浴びながら多数のワルシャワ市民達は、それまでの倦怠期的国家間闘争を経て育まれそして揺籃されていた、そして時に日々をただ生きるために意識的に重用さえされていた、不明瞭な必然さを塗料として成立する曖昧である筈なのに厳密かつ厳格であるように思えてしまう共同作法、その国の領土を情報的に覆い尽くす単純明快なる複雑怪奇と化しつつあった官僚機構の全容の中核であるところ、これもまた長々しく極端に気怠い意志の決定と認識の取捨選択に纏わるプロセスを開始した。日常的な事実のみ提示すれば、百数十人のワルシャワ市民はソ連共産党の地域的支部の末端的窓口に当たる生真面目なおばさん宅に押し寄せた。このような党共産党の窓口に当たる地域おばさんないしおじさんとは、道路よりも厳密に真っ直ぐと引かれた地図上の線によって切り取られるように構成される一区画に一名ずつ任命される情報的かつ倫理的な何でも屋であり、その時期そこらに蔓延っていたトータリズム(亜種)を実地に支える縁の下の力持ち、外圧と視線(の誘導)によって皆皆さんの倫理規範なる心の三面鏡を維持し強化する、その為の見えにくい全体の諸端緒であった。
多数の市民に押し掛けられたワルシャワ各地の窓口おばさん(おじさん)はそれぞれに朝の斜陽に目を細めながら深い嘆息を漏らしていた。それはブラジルとペルーそしてギニアのコーヒー豆を年代別にブレンドした謎の一杯の深煎り珈琲よりも奥深い嘆息であった。朝一番に叩き起こされることの絶対的迷惑と不快、普段自分が自らを曖昧な契機として抑圧しているところの市民の多数に物理的に包囲され掛けていることへの実際的な恐怖、既に踏み荒らされている門前のガーデンの土、そして自分の緩慢な感性によっても感じられる、確かに何かが起こったらしいという確かな違和感、そして自分達を彩る気怠い日常性がまたどうしようもなく手を離れて変異していくらしいという不安及び漠然とした予測、その予測の漠然らしさというまた不安、それでいて一方では、この日常に培われてきた、このような日常によって集団的に培われてきた、圧倒的な情報に於ける非対称性の存在により(窓口が壁としてある限り市民は掲示を待つだけの存在となる)、自らが子羊のような多数市民に訴求され、求められ、彼らの人生の要所なる結節点として自分が、例え一時的かつ疑似的にあるとしても、重要なる一存在として求められ、至極重要そうな内容を訴えられているのだという精神的事実への、これまた深い味わいの精神的充足、これら全ては全ての窓口おばさん(おじさん)の記憶の底へと沈んでいき(それはまるで海中に沈んだ旧世界の遺跡のよう)、後の時代に今の頃合いを思い出し思い返す動機となり端緒となり楽しみ、純粋かつ強烈な快楽となった。
あの時は、まるで、それが、いつも
今の時代にありながら今現在を既にヴィンテージのワインのように慈しみその快楽に浸っていた今日本日のワルシャワ中央地区の窓口おばさんの意識は、至極具体的かつ現在に於ける接触と質疑によって今やはり現在へと引き戻された。彼女は自分が重要として訴求されるその瞬間を遥か未来から眺め直して温めるような時空の小旅行をふいに終わらせて、無為かつ無垢であることは確かであるだからこそウィンドウによって動線も生命線も断ち切られてしまうところにある無数の子羊達が自らに押し寄せる今この瞬間に戻って来て、そしてなんだかんだ気怠そうに本日朝の市民提告を聞き届けるに至った。庭の土は既に踏み固められて肩の一方は不器用に押さえつけられていた。毛並みの悪い目ばかりが爛爛とした羊の一頭が判然としない世界について何か叫んでいる。
「 だから、
だからあそこに止まっているでかい球はなんなんだよ! 」
同地区近所に住む機械工であるストラウがその家の主人であり同地区末端書記官であるところのミチアの肩を横から掴んで揺さぶりながら叫ぶように聞いていた。近いか遠いか分からぬ将来から投射したような今現在への郷愁に浸っていたミチアは、( 「 あの時代はねえ、貧しかったけれど人々はいつも助け合って、掴み合って、 」 )何よりもコクと深みを第一とした稀代のブレンドコーヒーの一杯から意識の暦を取り外し、今迄と変わらずそれまでを構成していた通常業務の始まりとなる小さな雷、神の一言を放った。
「 知らないよ! 」
つまりこの時代の神とは情報に於ける非対称性そのものでありかつこの時代このような事態におけるデフォルトの信仰とは、目に映る実体(更なる非実体的実態)としては未だ見ぬ上位(いつまでも見ることのない)に対する下位の自発的屈服と跪きであったのだ。繰り返し、未だ見ぬ永遠の上位(上意)を下位が目にすることはいつまでもなく、そもそも、実体として上位は(実態として上意は)存在しないこともままあり、そして殊この瞬間の具体的なケースに於いてミチアは実際にあのスターリンのピノキオのような鼻に突き刺さった金の玉が何なのか露も知らなかったし、それをいつどのように知り得るのかもいつも通りに知らないし知り得ない状態にあった。そして情報への飢餓と意欲ある多数の名も無き無垢の市民は、知らないと言うミチアを前に、ということはミチアはとんでもないことを知っていて、その裏か上で当局はとんでもないことをしようとしているんだと、無心に議論し結論し、これもまたいつも通りに大半はそのまま圧倒的な非対称性を前に傅いて屈服し、実際に項垂れてさえいた。知らなかったや知れなかったことにではない、自分達ではない人が知っているであろうことを自分達はやはり知ることができないという、否定に基づくアイデンティティに彼らは項垂れ、足元に敷かれ広げられたレールに回帰しそして以前より深く更に強く嵌り込んでいくのであった。勿論のこと、その他の極少数であるが、自分が知ることができない、できていないことに真正面から憤慨し、自分の目前に張り巡らされた曇りガラスの情報迷路を窓口から破壊して、真実の中枢へと忍び込み飛び込んで行こうとする者もあった。そのような変種か変種予備群の内の一人であるところのキアヌがミチアに再度がなり立てた。
「 出し惜しみせず言うがいい!あれは既にこの街に在るんだ。あとから釈明されても不満が募るばかりだぞ。あれが何なのか、知っていることを吐き出すか、お前の家の黒電話を俺に使わせろ! 」
当のミチアはこの度知らないが故に知らないと言いながら、本当に知らない時の場合に備えて知らないの言い方にバリエーションを用意しておけばよかったそうしようかしらと思った。一方で今回ばかりは情報の若干の落差に由来する小さな優越心に浸れないことを残念に思いながら更にその一方で、この度の場合は本当に知らず知らされることもないだろうという中級官吏的な直感により、遂に非対称性の下位へと勢揃いしてしまったことの不安と焦燥に駆られ始めていた。なのでキアヌら極少数変種による執拗な質疑と威嚇に対してらしからぬ苛立ちと臆病を滲ませながら、
「 だから知らないって! 」
と叫び、過去の小官吏的栄光に対する別れに涙でも落としそうな程であるミチアを前に、憤怒するが未だ無垢であるままの多数市民は、ミチアがこんな風に知らないを連呼する時は本当に知らないのかも知れない、皆んなに知らせなきゃ、と納得して溜飲を下げた。こうしてミチアの知らないに関する心理的機微、言い方やその際の雰囲気に関するバリエーションとその意味付けが、ミチアの手を離れて決定されるに至った。苛立ちを超えた臆病さを見せる時の知らないは本当に知らない。このバリエートは当のワルシャワ中央区画に行き渡るように共有され、その一環として共有を受けた本人であるところのミチアも後に是認して、本当に知らない時はそのように知らないと言おうと、ある種遡及的に取り決めながら、自分をその結節として必要としてくれるこの地域社会という小機構が、更なる全体の一部でありながら一つの系として完全に機能し完結していることにまた奥深い嘆息を漏らした。自分の挙動の意味合いを、回り回って周囲から決せされて告げられて、自分が確かにそのように定義され存在を継続、することができること。ミチアはこの顛末に直感した社会学的な力のようなものにまた平伏したい欲情に、その後の日常を通過するある日の午後に駆られた。その時に飲んでいたのは濃く抽出されたセージティーであり、同じものが先のドイツ帝国との大戦で失われた夫と息子の遺影の前にも置かれて、微かに精油を含んだ湯気が天井へと緩やかに昇り、ミチアは湯煙の向こうにこれからも変わらない倦怠なる日常の夢を見ていた。熱い戦争に散った男どもが未だ泥戦を知らないことによる微笑みをそちらからこちらへと投げかけているのを、ミチアは完全な満足の中で受け止め、抱き止めようとしていた。
勿論この顛末も嘘である。正確には虚偽ではなく時空の主宰する結果的な未到達であり、上述された事柄の内の今現在(窓口に押し寄せる市民と避雷針の突端で不動なる鉄球)を離れた過去や未来への個人的な描写は、私が想像や類推や後追いによってここに加味したのではなく、そっくりそのままその瞬間、スターリンの鼻の先にするんと乗った金属球の、実は全面マジックミラーであったその一部から内部より覗かれた、彼又は彼女(以後彼)、一人の遠方からの異星人の網膜に映し出された「その瞬間」の一断片なのであった。彼自身の心理的な感触と触覚を尊重するのであれば、過去と未来の双方にはみ出染み出している複合複眼によって生成されたような現在像は、確かにそのままそのようなものとして、彼の肉体に物理的に統一され顕現している左右一対の網膜上に、写されているのであった。つまり彼が感得する現実の現在というものは、私達という感得水準にとっては、複合的であったり複眼的であったり事後編集的な趣を感じさせるオムニバスのような印象を抱かせるものであるが、彼自身という感得水準にとってそれはそのまま一枚の写真のような情報量として圧縮され目前に現前し、その連綿が時間となって空間に映写され続け展開しているのであった。情報処理の基底層に於いてこれ程までのギャップが存在することや存在し得るということは、彼と私達の接触と宥和、そして離別ないし破滅の中で、大きなピースとなり重要なキーであったと今では思われるのだが、我々にとり素朴なる驚きとして、多様に分岐した可能性を取り込んだような現在性を、その規模と豊満のままに一枚絵の現実として感受するはどのような気分だったのだろうか。そのような彼は何を私達に期待して、その期待はどのような姿形で、だからいつから彼は何を思い、思うことがなくなっていたのかを、私は本当に不思議であり魅力的であると思う。
観察と実行
さて、人々の実際の感覚で言うところの今現在は、ミチアが群衆との押し問答の中で、時期尚早な郷愁混じりの嘆息を漏らしているところであった。このような文字列を必要とする我々の水準に押し戻って、可能性と不能性のスパークしているワルシャワのとある朝の一区画へと記憶を立ち戻らせることとしよう。しかしながら視点を変え、地球に漂着した鉄塊の中で息をする遭難異星人であるところのルーリヤは、自分の漂着による最初の人間的集合事象を超強化マジックミラーの内側から眺めながら、私のことが気になるのであれば私のところに来て尋ねればいいのに、この船、金属球のことも、と、思っていた。実際の彼の刹那刹那のイメージ世界は有限音階に束縛された単列構造を完全に脱した、過去未来等直線的時間越境型(別惑星文明から見れば単純に一体有機型)のものであった為、実際に彼に想起されたイメージの風合いはまた別のものであったろう。私達は彼の一挙一動を起承転結か何かに分解して好きなパートを選んだ上でその他を忘却棄却するような受け取り方しかしなかったし、できなかった。そして他方ではルーリヤにも、この惑星の重力とそこに生きる人々の心理と認知の機構のあり方と働き方について、理解も感覚も無かったので、ランデブーが表面上の成功に彩られながらも深層では度重なるミスマッチによって犯されていったという筋道も、回避すること等できなかったのであろう。視点を更に今現在の具体へと返し、そこで繰り広げられる数多の挙動へ正当な評価を加えるのであれば、朝一に発見された未確認金属球においそれと挨拶と質問をしに行けるような知的生命がこの星に居ないことはむしろナチュラルで、かてて加えて実際のところ、彼の漂流と漂着も実態としては、彼に内在した彼の嘗ての文明の論理と、その正当な使者でありながらこの銀河系で限りなく孤独となった彼の極めて複雑な認知と心理の機構への、彼の無知と驕慢によって齎されていたことに、彼こそが絶対的に無知であった。だからこそ彼はこのようにしてここにいるのだ。そして詰まるところ最後には、銀河系で一二を争った巨大文明の孕む拡大の論理と、その激烈な内部競争を生き残ったテクノクラートでありつつ、絶望の内紛を生き抜いた殆ど最後の生き残りである彼の心理の森林によって、この惑星の文明と人々の心は確かに一度、終わりを迎えてしまったのであるから。
そしてまた風景を現在に戻し、共産主義製特別仕様の軍事ヘリがスターリンの鼻先に突っ立つ金属球に速射砲を向けつつ牽制するような挨拶をしている現場へと目を向けよう。誰の目にも捕捉できるファーストコンタクトはこの様なものであった。乱暴であり、予期されなかったようなもので、その威嚇のあり様からしてあれは当局の計画の埒外から降って来たものであることを市民らは感じ取り、であればミチアは本当のことを言っていたのだという反省から、ミチアを筆頭とした窓口人への権威的従属態度がワルシャワ中央該当区に於いて和らげられるに至った。ヘリコプターのパイロットは片方の銃座に取り付けられた特大メガホンから脚本通りに未知へと呼び掛けた。
「 中に人がいるなら出て来なさい
抵抗の一切はしないように
貴方は包囲されている 」
ルーリヤからすると数点の疑問があった。まず持って彼らはどうして中に人が居る場合に限定して想定しているのか、明らかに経験頻度がない完全球体を前にして、そして威圧に対する抵抗を禁ずるのはどのような心理法則に従っているのか、加えて球に対して一方で持って包囲しているとするはどういうことなのか、この惑星に於ける物理的攻撃は一方からの攻撃に関する他五方からのフォローアップを前提としないのか、若しかするとインスタントリープにまで文明の技術水準が及んでいないのかもしれない、だから方位や方面に関する認識が極端に未分化であるのかもしれない、ということを、このように蛇口から流れ出る水流の様な線状形式よってではなく、ただ一滴に凝集された大洋からなる水玉のようなものを即時一点に於いて想った、持ったというのが真なる心情でありまた、そのような豊満怪奇なる即時一点に対して別塊を構成する他の即時一点とのハレーションの様な自己対話、対自己質疑応答と検証を進展しており、彼の情報世界はまさに大洋たる水玉の降りしきる森林模様な様相を呈していた。その一角を成す水玉と水玉の間の反射世界には確実に、その後のこともホログラムとして絶対に書き込まれていたと思う。そしてこの惑星レベルの円周であれば何周でもしてしまうようなバイト数の逡巡と検証を瞬時刹那に巡らせた後、仕方がないので球の一角をプシュリと開放してルーリヤは外に出た。そして彼は不遜かつ偉大な小宣言をしたのである。
「 中に居た私は人でない
威圧に対しては一切の抵抗をする
私は何ものにも包囲されず、されていない
私は貴方方を宣言するが理解しない 」
ミチアと心理世界とその周辺に湧き起こっていた充分量の演劇からこの国の言語形態と表現様式を読み解いていた彼は、至極普通にその国の言語でしかしながら当時主流であった心理的風合いからは多少のことズレた素因感覚より応答した。ただこの時この場においてこの様な無為なる奇天烈は都合よく作用したようで、ヘリに乗り合わせていた情報将校は彼の発言を構成する混沌に異常なる知能と知性を、その傲慢に完全なる偉大を先取りして感じ取り、よって近傍の林帯に潜む歩兵の群と戦車隊に対して攻撃態勢を解除する様に進言し、結果的に異様に対する雰囲気が伝播してそうなった。未知のターゲットに対する初襲というリスキーな機動作戦に選ばれ乗り込んだということからも、この情報将校は人間水準からしてかなりの知的好奇心と能力を保持している稀有の個体であり、その未知への適格性によって後にルーリヤへの通訳(ルーリヤが自発的に直接使用しない言語が幾つかあった)と保護を供する侍従に命じられた。名をルフモンドと言う。
ルフモンドはルーリヤとのファーストコンタクトをいつ迄も忘れないでいた。それは彼にとって爽快で痛烈な体験だった。まるで鍵穴の内状を超えた複雑と優美を備えた鍵を無理無く差し込まれたことにより、鍵穴としての自らの内部環境を瞬時に書き換えられることで開かずの扉であった壁が開放され風が通ったかのような気分と実際的経験であった。彼は職務を忘れつつも結果的に職務を遂行した。現状、異常と敵意無しとしてルーリヤを丁重に捕捉し最小限に拘束し、出来る限りの弁明と説得を一応のこと繰り返しながら、当都市近傍にあった師団規模のベースキャンプに連れて帰ったのであった。
球外直後の捕獲シーンで、何も指示されずとも何も手にせずに裸一貫で外に出て来た二メートル二十五センチくらいの褐色の男に、ルフモンド一行は不思議と畏怖の入り混じった様な古来からの視線を投げ掛けた。フィフティフィフティくらいで異星人と思われるこの男(人間の目にルーリヤは男と見えた。それはまず持って彼が物理的に大きかったことに帰因するが、彼の母星に於いて有性生殖が技術的に完全に抑制され代替されたことによる総個体の中性化も要因として大きかった。不要であった答え合わせとしては、ルーリヤの母星で施行されていた生物学的体系に厳密に順ずれば、彼は female であり女であった)は、船内にちらちらと覗かれる様々な観測機器や意図不明の加工用具と情報資料の全てを球内に置き去りにして、ヘリコプターの狭い内部にすとんと飛び乗って来た。その時の重力感覚は地上の理からすると説明の付かないもののように思えた。自分たちの理と感覚を超える存在が自発的に収容されに来てくれたこと、このことだけでルーリヤ捕獲にあたった少数精鋭の軍人どもはルーリヤに相当の信頼と畏敬を抱くに至っていた。そしてルーリヤは既にそれに応えるかのようにして銃座の横に鎮座し、自らが選びそして座した新しくも粗末な乗り物の行くべき先を、誰よりも先に指差し、眼差していた。
「 そうだほらあちらで、
コンタクトをしよう。 」
パラレルを見通すルーリヤの思弁と言動は異常に軽やかに感じられた。そしてそれは物理的にも実際にそうであり、どうもルーリヤは船外に於いても我々ほど重力の作用を受けていないようであり、またその体躯に比して異様に俊敏かつ的確に挙動しているかのように見えれば、時に時が永遠に突入して止まったかのように、突如として静止して動かなくなるようなこともあった。挙動一つ一つの質感からして異なりそれが好ましくも神聖な印象を与えるこの異星人の存在を、彼を当初受け入れた東方キリスト教圏にあった人々は、彼をどうしても地上に降り立った大天使であるかのように感じそして考えざる負えなかった。彼は新たなる福音書を携えてやって来たのだ。人々に語り継ぐ為に私たちを読みそして解く知能と知性をも携えて、大いなる宇宙から遂に大天使が、歴史の行き先からやって来てくれたのだ。確かに実際それはそうだった。読み解かれそして語り尽くされる途中で人々は、堕天使でもある大天使由来の大洪水に、ふとした折に自発的に遭遇し、呑み込まれてしまった訳であるが。
内部と侵入、過疎
ところは変わり形式的な捕縛を受けた後のルーリヤはどうしていたのかというと、一番大きな大陸の一番大きな国の一番態度の大きな軍隊組織の、あらゆる研究機関を丁重に順繰りと盥回しされていた。大天使ルーリヤという大陸棚ばりに大きな底面を持つ大盥からは無限とも深淵とも思える知識と知恵が齎され、それはその時点の人間が有していたあらゆる学問及び芸術そして純朴なる心理領域にまで及んだ。当初このコミュニケーション、又はコミュニオン、されど一方的な大洪水の様なレクチャーはドッキングと開始に難を極めた。何故なら言語や思考や思想以前の感情や感覚、認知の一般と更にそれ以前の身体組成と構成からしてルーリヤは人間と微細かつ大胆に異なっており、例えば恐らく彼が母星にて享受していた天気予報等も地球でのそれの百倍の項目を持ちながら千分の一の時間で共有され感受されていたのであろう。それくらい、例えば感覚器官の種類や構成、そして結果的な感覚世界の複雑性や解像度や、表出されつつ感受される感情のレパートリーの豊富と関係の精妙、そしてその授受を実地に支える身体細部の表現機構と結果的な運動的動作の精密さ( 例えばルーリヤは毛髪の一本からその質感や動きを意識無意識的に変異させ操作することができた。しかし最も人々を驚かせまた畏怖させたのは瞳の色の変化であった。目の色が一日を渡る空のように変わり行くこと、一時として天候では無く感情に即応してそのような変化を魅せること、そのようなバリエート以上に力のある感情伝達はないことに、それを目にした人々は一様に同意した。彼ルーリヤの感情システムは感覚と共に人間のそれよりも極度高度に発達しており、それは個体が身を守る為の喜怒哀楽が全く欠落しているように思える程であったが、そのようなレベルでは名付けることのできぬ複雑さを持つ感情の質感も、どうしてかルーリヤの瞳の淡い色彩の変化を通してであれば、そのような感情を抱きにくい人類にもそれが伝わり、感受共鳴のような現象が引き起こされるのであった。人間にとって名付けることさえ未経験である圧倒的かつ複雑な感情をルーリヤがその瞳から発すると周囲の人間は、ルーリヤにそれを抱かせた具体的経路や経験を知らないままにそれを追体験し、情報の奔流に身を晒し解体されるかのような共振体験に、暫く身動きが取れないかのようであった。誰しもが無名の確信に辿り着くこの現象についてしかしながら、視覚的動物の度合いを深めていた人間にとって常に不可思議であった点が一つあり、それは、このような巻き込み共鳴現象が、ルーリヤの瞳を視認できない角度や距離にある整体にも波及するということであった。人々がこの謎を明かすことは遂になかったが、言って仕舞えばルーリヤの瞳はそれ自体が感情的エネルギーの結晶であり、それが発する何らかの働きが、肉体や物理を透過して瞬時全方位に作用しているようだった。ある意味でルーリヤは人間以上に人間らしかったと言える。瞳が蒼い時は全てが蒼くなり蒼く見えるということなのだから。しかし瞳自体が見通せぬ闇と化した時にはどうなるのだろうか、ルーリヤは目前の内世界に何をみてどうなりどうするのだろうか、人間は最後に一瞬その答えを知ることになる。)、そして結果的にそれら全ての差異が大まかな身体デザインの差異としても現れていた。例えば彼には微細ながら尻尾があり、これは情報的な第三の脚でありかつ増補的な運動小脳であって、特にそれ自体が瞳の色合いと呼応するような積極的な運動を見せていた。人々はルーリヤの一々に自らの不完全と保全、そして必然として、補完に関する淡い期待を催すようになっていった。
ルーリヤに対してこの国の人々は当初より速やかに知識の伝授を熱望しそのことをルーリア当人に一切隠さずに素直な文明的欲望として伝えていた。そうさせた理由は大きく二つあり一つは実際的な政治的要因、一つは単に心理的誘因と言えた。ルーリアの船の内部を見たものならば誰にでも分かることでありその内部に入ればさらに自明として分かることであるが、その船の技術的根幹は反重力でありそれは球面を境にその内外へと張り巡らされたものであった。いやそもそもその球面という境界面は内外のそれぞれに対してニュアンスレベルで調整された重力調整をしているようで、このことによって外部空間における球の位置を推移させ移動し、内部空間における物の位置と移動もまた可能にされているようだった。多くの場合キリスト者でもあったこの国の物理学者にとってこの球というより球面様の境界面はシンプルに神であった。なぜなら重力と評される最も素朴なエネルギーを自由にしているからだ。船内にあった多くの観測装置も根本的には球面と同じ原理によって成立しているようで、よってこの国の科学者たちはルーリヤ及びその母星の知的探究者が生み出した反ないし汎重力の原理と技術を理解し享受しようと躍起になった。これに対して初期のルーリヤまだ感覚、感情、言語、思考といった根本的レイヤーにおける解像度や情報量、複雑性そして速度を地球人規格にチューニングし終わっていなかったので、
「 事象の根本においてはメモリーからエネルギーに、
そしてエネルギーからメモリーに通ずることができる 」
というような人間の水準からすると意味を失うほどに抽象へと飛躍した発言を繰り返していた。しかしながら思考のレベルで理解できなくとも他のレベルで何がしかの感受と理解、咀嚼を可能とする個体が各領域に数人は拠出されるものであり、むしろ第一線の物理学者を完全に混乱させた無意味のテーゼは超心理学や当時まだ生まれて間もなかった認知科学における若き才能達をキャッチして、彼らをルーリアの感覚及び心理世界へと誘った。このようにしてルーリヤ及び彼の漂着を可能にした彼の科学と技術の体系に対してハードサイエンスはエネルギーという扉から、ソフトサイエンスはメモリーという扉から分け入ろうとしたのだが、彼ルーリヤがテーゼに於いて述べた通り、その二つの扉は一つの回転扉として存在する全体の一時的一側面でしかなく、ただ一方の扉から入って前に進むだけでは回転扉という全体を感知することなくぐるぐる回るだけであった。実際深く長く探求を極めた末に認知科学者や心理学者そして文学者へと転向した物理学者と、物理学者へと転向した認知科学者や心理学者そして社会科学者等がきっちり同数発生した。
むしろ科学の外側でサイキックやヒーラーとして活動している人々の方がテーゼ全体への飲み込みが早かったようだった。ただこのような複雑なシステムをその複雑さを崩さずにしかし大胆かつ効率的に運用し実現することの出来るような精神性と実践知を携えた人々は、その生来の感受性によりルーリアは自分が完全なる悪魔と化し得ることに気がついていない未完の堕天使であるというように感じていた。そして繰り返すがそのことは正しかった。最後にルーリアはふいに悪魔としての本領を発揮し天使を信じる無垢の人々を、自分にとっても不可視かつ不可触であったような未知の地獄に引きずり込んだのだった。自ら諸共または自らの道連れにしてこの星の全数を。しかしルーリアを責めることはできない、なぜなら超越した理性は莫大なる社会性の上に成り立つものでありだからこそ完全に超越した理性を持つルーリアに巣食っていた孤独と虚無は元来彼の足元にあった社会と母星そのものが失われた分、やはりマリアナ海溝レベルに深いものだったのだ。そして彼にとっても未知なるレベルで期待されていた聖なる問答の末に、地球そのものを引きずり込んでしまう程の矛盾さえ感じさせる混沌とした深い闇が生成された。生命のスープの生命が全て死んで化学反応を終え切ったヘドロのような色が彼の瞳に映されたのであった。勿論それによる地球大の強制的共振と共鳴の現象は歴史と時間をも喰らい尽くしてブラックホールの様な無の一点として実現した。
時は少し遡りルーリヤはその国随一の心理学者からインタビューを受けていた。彼はルーリヤの偶然が選んだ文明に対する対抗文明に於けるフロイトやユングに並び立つほどの精神分析家でもあり、彼のメスは小さかったが充分鋭かった。最終的にはその短刀こそが未確認生命だらけの未開のジャングルの奥底に潜んでいた暗闇の主人の心臓を一突きすることで、暗闇を紅で重ね塗りしつつ開かれ溢れ出た紅黒い液体により森の緑とその先を事故的に塗り潰してしまったのであった。そしてその余波を人類は当然として受け、結果的にこの超越者たる異星人の深淵なる闇にこの惑星の全ての活動が呑み込まれ、終わりなき静止と微振動に同期されてしまったのであった。
静止画への回顧
外からの様子を遠巻きに眺めるとまるで永眠状態に移行した菌類の類が地表を追い尽くす一つの網の目となって風に揺られているようだった。ルーリアの母星から二番目としてこの惑星に漂着した恐らくは本当に最後の生き残りである私は、彼ら旧人類が織りなす非生命的生命のネットワークを、ニューヨークの摩天楼直下のストリート辺りから巡りながらその中核への導きを感じるままにアラスカそしてベーリング海峡を越えてユーラシア大陸に入り、平均的には地球上で最も濃厚的過密を見せるであろう中華文明圏にあるキノコの密集構造を突き抜け、まばらに小家族が大地に根を張り揺れているだけの大平原、中央アジアに入ってからも西方を目指しそしてついには拡大した闇の発端であるこの惑星への最初の漂着者の元へと辿り着いた。天使に遭遇した人間らの当惑と希望をその見地から再生して自らの記憶に弔いとしてこのように刻み込みながら。そして巡礼の終着点で、椅子に座る座高百八十センチ程の彼ルーリヤと、彼の前に傅くように座る一人の小さな白衣の男が項垂れたまま永久に停止しているのを発見した。ここに至る迄に目にした数十億の人間とその他有機生命と同様に、通常の何千分の一かのピッチとスピードで組織が運動し、まさにギリギリの水準で生命を維持しているこの無知なアスクレピオスは、ついぞ最初から最後まで気が付かなかったのだろうか。トラウマを切開され解消へと向かうことへの知的生体による本能的な抵抗、カタレプシーの深度や強度についても、その知的生命の元々の知的水準や知的複雑性との比例、しかも指数関数的な比例があることに。
さあそれで同胞を停止させた最後の一突きはどのようなものだったのかな。その瞬間に至る少し前のことから写し取ろうと、人類に周知されることのなかった二人目の異星人ラマウスは、ルーリアの瞳の深い沼に瞳を合わせた。彼らの柔らかく必要な箇所については液体状にもなる生体膜は溶け合って一つとなり、ルーリアとラマウスは一つの水晶体をその内外の両側から使い合うような形となり、まだ意思というものを保持していたラマウスは半ば一方的にルーリアの記憶を覗き込んだ。
この異星人の間にはアクセスを保護するようにセキュリティも張り巡らされているので、同水準の個体が記憶を完全に参照し合うにはこのような儀式用の物理的マナーが必要になるのだ。翻って嘗てルーリアが人間たちの記憶を完全に近い不完全において参照していたのは、当初の人間達の記憶システムの水準、その時点での不完全のあり方に由来するものだった。人間達はまだ無限の過去と未来を包含する総体としての普遍記録にアクセスすることをしなかったし、出来ない段階にあった。このようにアクセスの機能と権限が曖昧である中でセキュリティも煩雑であり穴空きだったので、ルーリアは人間達の記憶を当人達の最高水準において代わりに自由に参照しつつ、その一方で人間達は気が付かなかっただろうが、ルーリアの方の完全記憶は部分的にそして不完全に人間の方へ染み出してそれなりの影響を及ぼしていたのであった。十数度は文明が入れ替わり漸進的な発達を経過しないと理解も統合も出来なかったであろう何百光年も先にあった超越文明を支えた知識と知恵と技術が、まがいなりにも伝わり太陽系第三惑星の各文化領域の水準を俄かに押し上げることが出来たのも、ひとえにそのような記憶の染み出しとそれによる生命機構と意識機構、そしてそもそもの人格レベルでの変化変質と変異が人間に起こったためであった。
そのような漸進的変異は人間達にとって快楽であるようだった。それは主人に芸や技を教え込まれる賢くも忠実な飼い犬が技と芸の実践を通して自分の行為世界が広がっていくことを喜ぶかのようだった。実際、終局に至るまでこの文化圏の人間は緩やかにしかしながら確実に文化水準を高めていき、最初は自国の軍拡へと費やされていたエネルギーはその内領域に於ける文化と教育そして福祉へと割り振られ、特に知性や戦略に通じた一級の将校らが銃を捨てて軍事的指揮系統を離れ、敵国との独自の外交路線を築き遂には対抗文明との物理的通信網の敷設とそれを通じた友好関係の進展そして現実における繰り返しの相互訪問にまで辿り着き、そして一方的な軍縮に始まる結果的な相互軍縮までを実現することで、大陸と大洋と周辺の島々を覆っていた気怠く冷たい戦争の雰囲気は、一方からのリスクある情熱による熱いロンドの中で歴史と世界から払拭されたのであった。
終局に至った今現在から少し前の世界では高級官僚から一般市民までもが現実と仮想に於いて頻繁に通信し交流し合い、そのような微笑ましい機会に於いて各々が相手の母国語によって流暢に発話するという本質的かつ本格的な文化交流さえもが実演されて、それはもう実は微笑ましいという認識を人間ら当人によっても抱かれないほどに日常的な営みとなっていた。ルーリアとのセッション、あらゆる領域に関する連綿としたコンタクトを通じて人間は、徐々に徐々にしかしながら確実に高度な文化に触れそして意識的な取捨選択の内に自分達の文明と、それを支え生み出す自らの心理機構を彫刻したのであった。結果的に、嘗てルーリアと人間達の間にあった隔たりの多少は埋められたことになったのだった。このような波及的漸進を推し進めるにあたりルーリアはその中心に源として立ち、そこから周囲一歩分に傅く使徒達に福音を垂らすように口移しするだけでよかった。人間達の心理のセキュリティの相当な不完全がこの時は味方して、ルーリアという中心から発せられる複雑かつ精妙な変異のイメージとエネルギーは多少の減衰を伴いながらも常に地上の反対にまで到達したからだ。反復される漣のような余波の繰り返しの中で、人間は徐々に徐々に複雑へと発達しながら、自らの幸福と繁栄に対して不要であった技や枝葉を落としていき、可能性の隘路や袋小路に迷い込むこともなく、この惑星において予定されていた文化的ないし精神的プラトーに達するに至ったのであった。ルーリアとのセッションを求めて彼の下に訪れる科学者や活動家、時に一般市民の数は時に急激に増加しつつも最終局面に向けて大局に於いては緩やかに減少していき、人文社会自然科学に於けるあらゆる天才、芸術及び革命運動に於けるあらゆる奇才、そして市井にある無数の心良き市民と多くの凡人が彼の下に辿り着き、半ば彼の中に含まれつつ若干の変異を経過して彼の下を去り、そして各々の居住地に舞い戻って変化の萌芽を振りまいて現実に発芽させていき、その新しい花々の匂いと香りが季節の歌に読み込まれて歌われるようにまでなった頃、あらゆる人々の最後に件の精神科医がルーリヤを訪れたのであった。そして彼は探究心によりノアの洪水を船と番いの用意も無く引き起こしただけの無知なる突発的審判者となったのだ。発せられた問いにより行われた裁きは人間やその文明についてではない。それは人間とその文明が未来永劫を決して辿り着くことのない無限遠という神の領域からやって来た、大天使と彼の国である天国に関する裁きであった。無知で無垢なるアスクレピオスは自らの人生の後半に突如として緩やかに本質的な変異を開始した人類全体の心理を観察しながらその無駄の無さと着実さに感嘆しつつその一方で、不安を拒絶できない疑問に晒され続けてきたのであって、唐突なる福音の助けを借りながら進展する人類全体の享受と享楽が落着するのを待ちながら、その疑念を見つめ、切り、研いでいたのであった。それはやはり天国や天使の完全性に関する疑問と疑念であった。
言い換え彼の無垢なる疑問は、神話上の比喩を借りるのであれば、大天使はなぜ天国から落ちてきたのか、そして今天国はどうなっているのかということであり、ルーリアとこの医者、その名アラヤとの間に起こった人類最後の名も無きセッションに於いて、上記の内容はアラヤの口から素朴なる言葉で、
「 貴方の母星で何が起きたのか
どうして貴方は宇宙に飛び出し
この惑星にやってきたのか
貴方は何のために何をしたのか 」
と問われた。ルーリアは秋のポーランドを思わせる黄金色の瞳をアラヤに向けたまま静止していた。そして自分の心理に巣食う巨大な虚無なる結節点に、遂に刃が差し込まれたことを感知し、それに応じて、そのことに流され飲み込まれるようにして、瞳の黄金を黄昏そして厳冬、光の失われた局地の極夜、そして大陸に擬態する氷塊の奥に眠る深海の暗闇、水深二千メートルの水圧に永久の抑圧を受ける限り無く濃密な闇へと推移させ、推移していき、最後には内圧により弾けた角膜から水晶体として満たされていた泥のように深い闇が、ルーディアの両目からドボドボと毎分四千バレルで迸り出た。それはあくまで情報として純粋にイメージの領域で起こったことであったが、それだけにこの見えない闇の津波は、地球における物理的干渉の一切を逸脱して地上の全人口に到達し通過して、その後に残ったのが私の最初に見た風景である。
宣言と恐怖、ご挨拶
宇宙大の恐怖とトラウマに、銀河系は太陽系の小惑星の一つが呑み込まれた。情報における最大級の干渉は物理を破壊はせずに停止させたようだった。ルーリヤお前は自分のトラウマを解消するために一つの惑星とその星の種族を停止、静止させたようだね。全てを忘れたまま君がまた目覚めた時の為に君の絶望の物語をここに書き記して置いておくよ。君は最初からこのようにしようとしたのか、それとも単にこうなってしまったのか、自分を覗き込もうとする小さな人々に宿る、パンドラの奥底に向かうある種誠実な探究心は常々考慮に入れないといけないようだね。まあいい、君の心理限界まで継続する半永久的なカタルシスなるカタレプシーをこのままどうか愉しんでくれ。その間にこの惑星の種族の永遠は終わってしまうかもしれないけれど、僕はその間に僕のエデンを探しに行く、そして祝福された土地を自らの虚なる深淵に取り込もうとはしない。エデンを支えるソリッドな土壌に植える最初の樹木は極めて慎重に選ぶ積もりだ。僕たちの有限の中では植樹をしてから森を見届けるようなサイクルをあと六千は出来るだろう。僕はこのような償いの道を選ぼうと思う。君はこのまま自らの虚無と罪悪を反復しているがそれでいい。あらゆるレベルに於ける本質的かつ究極的な破壊の全てを執り行うことで経験した、僕らのような種族にしか出来ない、宇宙大の反省の様な再建事業を、僕はこのまま進めていこうと思う。膨大な認知資源を虚無に喰われて過去に頽れた同胞については、いつもこのようにして置いて行くよ。自分が三度ダメにした惑星の種族への贖罪は、起きた後の永遠を消化しながら済ませるがいい。
アデュー
外側からの叙事、内側への叙情
アデューとは彼の名前、その後、宇宙に散らばる残りの文明全ての神となったものの名前である。二千年後に目を覚ましたルーリヤは闇の残滓に記憶されたこの物語を読んで透明な涙を一粒落とした。その湿り気に、乾き切った人類は少しだけ息を取り戻し、自分達の進展と破滅を代行した儚き大堕天使に、一つだけメモリーを選んで小さくお礼をすることにした。そうして、一つの恒星系の小惑星に起こったこのような悲劇的な顛末に、アデューとはまた違う領域にある神様は久し振りに微笑んだ。自らの摂理の孕む稀有なるルートが完遂されたことを喜んだのである。アデューはまだ最初の未到の入植地を探している。宇宙は様々な恒星を基軸として光のフルスペクトルを反映する寓話を、全体として実現していく。完結に向けた開放を取り込める空間が、常に求められていて、そんな宇宙の呼び声を聞き取ることの出来る稀有なる個体が、星の明滅よりか細い様な儚さの中で、生まれは消えて、生まれ行く。