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ますます純粋化する都市と異端なもの

「ジェントリフィケーション」という言葉をご存じだろうか。
簡潔に言えば、都市の富裕化現象のことを指す。

また学術的に言えば、都市における低所得層の居住地域が、建物の建て替えや商業施設の建設などを理由として、中・上流階級の生活圏へと置き換わることを意味する。

しかし、ジェントリフィケーションには実際それ以上の裏の意味がある。


札幌の商業施設moyukを歩いた。
そこには、驚くべきことに座って滞在できる空間が多数存在していた。
人々はスマホをいじったり、パンを食べたりなど思い思いの行動を取っている。

この施設は「公共空間」としての役割を立派に果たしていると感じた。


耳にしたところによると、東京では座って休憩するだけで「お金が取られる」という。
そもそも東京には「無料で」座って休憩できる場所など存在しない。

たむろする若者や、ホームレスを減らすという名目の下、堂々と「排除アート」なるものが出現し、都市はどんどんと居づらいところとなった。


札幌の中心街を歩いて感じた「開かれていて」・「寛容な」都市空間こそ、この多様性の時代には、本来なら求められるはずである。

だが、実際の都市開発はその逆をいっているようだ。


都市が綺麗になり、「清潔化」するにつれ、都市が人々に求める「ちゃんとした」人間であれという水準も高くなる。

しかし、どうであろうか。

異端なものを異端であると容易に排除する都市は、実はその都市の持続可能性を根底から揺るがしているのはないか、と感じた。