嘘だらけの世界

はじめに

この間、日本保守党の百田氏の事を指して「ポストモダニズム的」と評している文章を読みました。

フィクションとノンフィクションをあやふやなものにして、そこに物語を作ってしまう姿勢を指してです。

得心が行く部分もあるのですが、ポストモダニズムという言葉を、ポストトゥルース的という意味合いで用いる方がいる事には大変驚きました。
(しかも、割と左側から語っていて、です。)


因みに、ポストトゥルースとは、端的に言えば扇動的な嘘の事です。

私は右のポストトゥルースと、左のポストトゥルースがあると思っていまして「フィクションとノンフィクションをあやふやなものにして、そこに物語を作ってしまう」というのは正に右派的です。

では左のポストトゥルースはと言えば、徹底した懐疑による破壊のパートと、その時の緻密さとは人格が変わったかの様なふわふわした創造のパートの断絶が特徴に思います。

ポストモダニズムはポストトゥルースとイコールでは無いのですが、この左のポストトゥルースと密接に関わっているので、今回は先ずその辺りから書いていこうかと思います。

ポストモダンの詭弁性

元々ポストモダニズムと呼ばれた思想は、破壊だけを極めた様な思想でした。

いや、個々には提案的な部分もあったのでしょうが、破壊だけが共有されていた、と言うべきでしょうか。

破壊とはどの様な事かというと、以前「コミュニタリアンの実像」の中で

「個々人が社会の影響を抜きに自由に振る舞うことなどできない」という発想はポストモダニズムにも共通する様に思われますが、ポストモダニズムにとってのそれがどちらかというと批判や絶望のニュアンスと共に語られるのに対して、コミュニタリアニズムはむしろその事を肯定や希望と共に捉え、積極的に秩序形成に役立てようとしている

https://note.com/a4phil/n/n3e748043568c

と書きました。

ポストモダニズムは、社会構造や、我々が思考に用いている言語さえも、権力によるバイアスを含んでいて、我々は完全に自由に思考する事などできない、という事を説いたのです。
ただ、それは何も信用できなくなる袋小路であり、批判して終わりの、破壊の思想でした。
何だかこう書くと、一時期の野党への批判に通ずるものがありますね。
これは必ずしも偶然の一致ではなく、思想としての繋がりもあると思います。

ただ昨今は、そこから進んで「だから我々は理屈を無視して、積極的に弱者に有利な社会を作らなければならない。社会の影響が、見えない形に権威に有利に働いているとすれば、それ位で丁度良いはずだ。」という様な展開が付け加えられました。
具体的には「女性に有利な様にしておけば間違いない」とか「黒人に有利な様にしておけば間違いない」という事ですね。

この創造のパートが付く事で、批判しかしない思想から、提案型の思想に変化したのです。これは応用ポストモダニズムなどと呼ばれます。
(尚、私の記憶が正しければ、この"応用ポストモダニズム"という区別をつけだしたのは、おとり論文事件で有名なリンゼイ氏やブラックローズ氏であるので、その様な変遷を批判する為に行ったカテゴライズである事を、公平性の為に付しておきます。)

しかし、この応用ポストモダニズムの主張に従えば、何でもありになってしまいます。
その事は、x(twitter)上でのフェミニストVSアンチフェミニストの大論争の焦点でもありました。
例えば「いや、むしろ男性こそ、女性に対して弱者なのだ」と言い出す人がいたら、応用ポストモダニズムはどう対処できるのでしょうか。
「弱者と見做して貰える」ということにすら権威性が見いだせてくる訳ですから、もう泥仕合です。
応用ポストモダニズムには、元々のポストモダニズムに見られた緻密な批判の精神は最早残っておらず、それは矛盾として表出し、混乱を招きました。

ポストモダン以外ではどうか

この様な破壊と創造の断絶は、実はポストモダニズムに限りません。

マイケル・サンデル氏は、ポストモダン~応用ポストモダンの流れに似た事を一人でやってのけます。
ソクラテス的対話法を破壊のパートとして用い、他の思想を一つ一つ論破していき、最後に創造のパートとして自身の提唱するコミュニタリアニズムに話を着地させます。
しかし、コミュニタリアニズムだって、極限状態で正しい選択を保障するものでは無いのです。

或いは、マルクス・ガブリエル氏を挙げる事もできます。
彼の新実在主義は、近年稀に見るほどの純粋な哲学について語っており、それは「世界は存在しない」というところまで辿り着きます。
ところが、彼の創造パートである倫理資本主義を語る時、破壊パートの新実在主義との厳密な繋がりは保たれているでしょうか。

実はこの手法はひろゆき氏も用いています。
「それってあなたの感想ですよね?」「そういうデータあるんですか?」という実証主義を破壊のパートとして用います。
そして、これは岡田斗司夫氏がひろゆき氏を評した際にも言っていますが、結論は意外と至極真っ当で、普通に社会自由主義的なことが多いのです。
たまにわざと逆張りした結論を持ってきたりもしますが、それもポピュリズム的に計算づくである事が殆どで、誰にも支持されない様な事は言いません。

彼らのやっている事を例えるならこうです。

悟りに達したという高僧がやってきて「色即是空、空即是色」と説きます。
そしてその後で「ところでお米って美味しいよね、おかずを抜きにしたお米の美味しさって、空に通ずると思わないかい?」と問うてくるのです。
何だか狐につままれた様な気分ですが、なんせ相手は権威ある高僧ですから「色即是空、空即是色」の意味を理解して、正確に反論する自信がなければ、滅多な事は言えません。
それに「お米は美味しい」と言っておくことは、(なんだか例えのせいでどことなく国粋主義者っぽいのはさておき)別に悪い事とも思えません。

要は「難しい話で煙に巻きつつ全部を有耶無耶にして、最後に何となく良い話に聞こえる事を強弁し、そこに権威や利権、支持を生み出す」という仕組みになっているのです。

それは理屈の通らない事を言っているだけで、嘘を言っていると言えるかまでは難しいところです。

しかし、真実ではありません。
これが左派流のポストトゥルースです。

右の嘘に言えること

文章の頭で、右のポストトゥルースと、左のポストトゥルースに触れつつ、ここまで左側に焦点を当てた批判ばかりしてきました。

しかし、私は何も「そんなものに騙されるくらいなら、右派の物語の陶酔に浸っていた方がマシである」と言いたい訳ではありません。

どちらにも騙されたくないのです。

ただ、例えば右のポストトゥルースを暴こうと思えば「南京大虐殺が存在したという歴史的証拠」とか、そういう話になってきます。
私の興味は論理にあり、実証や検証にはありません。

色即是空について考える事は面白いと感じますが、神が最初にいて「光あれ!」と言ったのかというのは、そもそも考察の対象に値しないでしょう。信じるか、信じないかの話であり、それ以上の何かを求めるならば、聖遺物を入手してDNA鑑定を行うとか、お金と時間を投じて地道に検証するしかないでしょう。

検証の話が好きは方は、右にも左にも沢山いらっしゃいますから、そちらにお任せします。

右派が「これが私の真実だ」とポストトゥルースを放つのに対して私が言える事は「それは私の真実ではない」ということだけです。
なので何も話は広がりません。

さいごに

さて、今回もお楽しみ頂けたでしょうか。

ところで、twitterからnoteに来て、色々と違いがある訳ですが、一番大きな違いは、やっぱり引用合戦が無い事だと思います。
肯定でも否定でも良いし、コメントでも別の記事からの引用でも良いので、反応が欲しい…!
何故なら多角的視点こそ糧となると思うからです。

という訳で、もしこれを読んで「これは一言いってやりたい」と思う方がいたら、どうぞお気兼ねなく。
(喧嘩がしたい訳ではないので、出来れば友好的にお願いしたいですが。)

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