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桃太郎公園のこと

桃太郎神社二代目宮司の川治桃光さんや、初代宮司お孫さんの加納三治さんのお話を聞いていると、今とはまったく違った桃太郎公園の賑わいの様子が浮かび上がります。
今では桃太郎公園でお店を営んでいるところは、神社下のお食事処「すずや」、土産物店「栄屋」、工房「尾張桃山」、道を挟んでレストラン「桃太郎」「青柳支店」の5軒のみですが、往時は食事処、土産物屋、遊技場など17軒ほどのお店がありました。
そこでの暮らしがどういうものだったか、桃太郎公園でお店を営む伴野鉦三(しょうぞう)さん(桃太郎発展会元会長・工房「尾張桃山」)、長瀬由武さん(桃太郎発展会会長・お食事処「すずや」)、今井順子さん(土産物店「栄屋」)に、加納さんと一緒にお話をお伺いしました。


伴野鉦三さんは生まれは名古屋。お母さんが犬山にあった旅館で働いていたときに初代宮司・川治宗一さんと知り合いになり、こちらに来ないかと誘われて、小学一年生のときに桃太郎公園に引っ越してきたそうです。その後、おうちは食堂を営まれ、今では閉店。伴野さんはそのお店の隣で、陶芸教室や木彫り体験ができる工房「尾張桃山」を運営されています。

伴野さんのお母さんが働いていた「みどりや別館 延泉楼」
中央は川治宗一さん。手前のこどもは伴野さん
(伴野鉦三さんアルバムより)
伴野さんが以前お住まいだった大衆食堂。庇に「御休所伴野」と書かれている
(伴野さんアルバムより)

長瀬由武さんはお祖母さんが今の場所から少し離れたところで食堂「すずのや」を営んでおられ、名鉄がそこを駐車場にするということで、現在の場所に移転。名前も「すずや」に変わって今に至るということです。長瀬さんご自身はずっとサラリーマンとして働かれ、定年退職されてからお母さんの後を継いで10数年が経ちます。

お食事処「すずや」

今井順子さんのおうちは、神社のできはじめの頃から今の場所で土産物店をされていました。以前はもっと参道までお店がでていたところを引っ込めて、横に広がって今の形になったそうです。小さい頃から川治宗一さんにも可愛がられ、不老閣に連れて行ってもらったり、社務所が下にあったときは冬になると囲炉裏でお茶を出してもらったり、何か食べ物を焼くと呼んでもらったりした思い出があるそうです。

左が「栄屋」。右に川治宗一(蘇山)の銅像が見える

伴野さんがアルバムを持ってきてくださったので、アルバムを見みながら話がはずみます。

夜桜

ーここは夜桜のときに人がいっぱいだったというお話を聞きました。
伴野 夜桜やってるときは、うちでもやってましたから。その頃はバイトの子も雇って、私も仕事を定時で終わって帰って来て、夜中の1時とか2時ぐらいまで手伝って、寝て、朝仕事に行ってた。夜桜の桜って短いから1週間ぐらいだけどね。
ーその時期は本当に夜遅くまでたくさんの人が来ていたんですね。
伴野 すごかったです。みんな場所取りでブルーシートひいて。
加納 でもあれって当時、車で来てお酒飲んで、車で帰ってたんですよね。
長瀬 そうそう。
伴野 飲酒運転(の取り締まり)がすごい厳しくなったでしょ。あれから、もう本当にバタンと減ったみたい。で、うちらも年取ってきたから、もう夜桜はやらないし、(桃太郎)発展会としても、そうあんまり宣伝もしない。
長瀬 順ちゃんところとうちを除いてみんな店商売やめちゃったから。飲食店はこっちは私のとこだけ。(道をはさんだ)レストラン桃太郎とあわせて飲食店は2軒しかなくなっちゃったから、夜桜やっても誰も来ないし、あそこもだいぶ年だからもうやらないし、うちはもう完全にやらないから。

キャンプ場

ー下の桃太郎公園と、上の桃太郎神社っていうのは、やっぱりセットになっていた感じですか? 下に遊びに来た人はみんな上にもお参りにも行くという感じで。
伴野 でも、キャンプに来た人に桃太郎神社行って来た?って言ったら、桃太郎神社どこ?いうて聞く人がいる。
加納 ああ、今はね。でも、昭和30年代、40年代当時はキャンプ場目的の人はいないでしょう。
伴野 いや、ここのキャンプ場じゃなくて、今の野活(野外活動センター)の、朝日新聞がやっていたアサヒキャンプ場。大学生が夏だけ運営しとって、結構人気で、団体で何百人単位で来てたね。
今井 ここのキャンプ場というか多目的広場は、(桃太郎)発展会で申し込みをやってたね。河原に露店が二、三軒あって。
伴野 河原へ来るお客さんを対象に、上へ上がってくるのが面倒くさいんで、ゴザを貸し出してね。花見、紅葉、ピクニックやね。そういえば松茸山があったんで、松茸の宴会というか。七輪で焼いたり、すき焼きやったり。ついでにマムシも取って食べて(笑)。
今井 すごい団体で来よったもんね、栗栖の方へ。進駐軍も、朝鮮の人も来とった。すごい喧嘩して騒いでたんで、怖かった。
伴野 進駐軍は小学校の頃やね。上官を池に放り込みよった。
今井 みんな食べ物をもらいに行きよったね(笑)
伴野 そうそう、ジュースとかチョコレートとかくれよった。ハム食べたのは、そこでもらったのが初めてだ。こんなもんあるんかって知らなんだもん。

桃太郎公園

加納 お客さんが減った一つの原因に、野猿公苑がなくなったことも大きいでしょうね。
伴野 その前に、モンキーアパートが引っ越したのが第一弾で減った理由やね。
長瀬 家の前に檻があったのは記憶に残ってる。
伴野 猿を一時放し飼いする前に、檻の中に入れて、ここに慣らして、それから放し飼いをしてた。
加納 ここは野猿公苑の放し飼いの猿と、神社と、数多のお店、それが三位一体であったのがすごく流行ってましたよね。
伴野 当時モンキーアパートがあった頃は、定期バスが1時間に1本走ってて、プロペラ船も定期便で動いてたんで、年間20万人ぐらい来てたみたい。ライン下りがあったときは、JR絡みでも来てた。
今井 結構北海道とか、遠いところからも来てましたよ。九州、北海道、日本中から来てました。でも、やっぱり一番来てたのは幼稚園の親子連れの観光バスです。
伴野 それは近場やね。
今井 近場。一宮とか名古屋とか春日井とかですね。遊園地の遊具もあったからね。
加納 そうそう、無料のね。
今井 そうやね。
伴野 でも、遊具は老朽化したんで、名鉄から守りしてくれるかという話があって、とても守りはできないよという話で、なら撤収しましょうということで。
加納 撤収したのはもう20年ぐらい経つ?
長瀬 いやいや、2010年の5月頃に撤収してるの。だからまだ20年は経ってない。たまに子供の頃来たときにあった遊具はどこ行ったって聞かれるんやけど、10何年も前の話を今頃言うのは、それから来てないっていうことや(笑)

モンキーセンターと野猿公苑

ー隣にあった日本モンキーセンターとの関係をもう少し詳しく聞かせてください。
加納 モンキーセンターは昭和31年申年にできたんですよね。ちょっとおしゃれな事務所というか。
長瀬 あそこはしょっちゅう行ってました。猿の餌をとりに。
伴野 最初に伊谷(純一郎)先生と河合(雅雄)先生が見えて、結構地元とのコミュニケーションもあって。河合さんは近くに住まわれてましたよね。それと、加納さんのお父さんがモンキーセンターのセンター長やってみえたんで、余計親密に。
加納 河合さんの子供さんと僕は幼稚園時代によく遊んでたんですよ。小学校入る時に転勤されましたが。
伴野 ものすごく地元と繋がりがある先生方だったんで、よくアフリカで撮ってきたスライドを見せてもらったり、アフリカでゴリラと戦って肋骨何本やら折ったとかいう話を聞いた記憶がある。
加納 ここにゴリラの像があったよね。
伴野 あったあった。博物館みたいな展示館があったんですよ。ゴリラをここへ連れてきて、死んじゃったんで剥製にして。
加納 あっちに檻があって、世界の猿がいたんだよね。
伴野 そうそう。
今井 私はお猿と戦ったのが昔の一番の思い出(笑)
加納 その思い出は皆さんあるでしょうね、きっと。
今井 土産物をとりにくるんです。大きいのは向かってくるんです。竹ぼうきなどで戦い、勝つともう来ないです。顔を覚えてるんでしょうね。こっちが勝つともう逃げていきます。
伴野 白衣着てるとね、逃げる。解剖されると思ってる(笑)。やっぱり地元の人ってわかるからかね。一番困ったのは、山に登って猿に囲まれて、どうやって降りてきたか記憶ないけど、追われて逃げてきて、一人が噛まれて、ボスザルに乗られた。
長瀬 ああ、そやった。野猿公苑で。
加納 日常的に猿がいたんですよね。100何匹ぐらいいたんじゃないか。
伴野 多いときは100匹超えとったよ。でも、こちらが猿より強いって猿が思ったら襲ってこない。
今井 そうそう。
伴野 戸を開けて入ってくるでね。錠がかかってあるか一つずつ確かめて。戸を開けて、中の陳列ケースにまた扉があるケースも開けて、ピーナッツ失敬して。
長瀬 ガラッと音がしたらもう遅い。
今井 うちもきびだんごを狙われてしまう。店開けたらもう猿とにらめっこ。
伴野 知らんうちに雨漏りすると思ったら、猿に瓦が外されとったっていうのが結構あった。
加納 日常的に猿がいて、ここの人たちは猿とともに生活をしてたということですね。ユニークなとこですよ。でもそれがやっぱりね、ここのお客さんが多かった理由ですよね。
ー大変なことがあっても共存していかざるをえなかった。
伴野 そういうのがよかったというてお客様がみえてたんでね。でも、いろいろと苦情が出てきたんで、その後すごい高い檻で、一番上に有刺鉄線して、外へ猿が出ていかないようにした。人間もその中に一緒に入る感じになったもんで、余計お客さんが来なくなった。

遊具があったころの桃太郎公園
(加納さん提供)
野猿公苑 1959年7月12日
(東京大学演習林 生態水文学研究所:生態水文学研究所アーカイブズより)

『名古屋鉄道社史』(1960年)によると、1955年、川治宗一さんの管理する桃太郎屋敷と、それに連なる木曽河畔の河川敷を名鉄が譲り受け、おとぎ話の里にふさわしい、子供連れに好適な遊園地に改良する計画が立てられ、「桃太郎遊園地」と名付けられました。
また、この年から朝日新聞社主催で木曽河畔に、200人を収容できるアサヒモモタローキャンプが開かれるようになり、毎年夏には若い人たちが集まってキャンプファイヤーなどを囲んだようです。
さらに、この年の10月、桃太郎遊園地に隣接して、財団法人日本モンキーセンターが設立されました(会長・渋沢敬三、副会長・千田憲三(名鉄社長))。桃太郎遊園地に連なる山地を犬山野猿公園(〜97年閉鎖)と名づけ、57年3月からニホンザルの放し飼いをはじめました。そして、59年5月には世界のサルを集めたモンキーアパートが開館します(同年9月の伊勢湾台風で被災)。モンキーアパートが栗栖からラインパーク側の世界サル類動物園に完全に引っ越したのがいつかは定かではありませんが、「日本モンキーセンター史」によると、63年には世界サル類動物園にモンキーアパート1号館、2号館が完成、一般公開をはじめたようなので、その時までには撤収されていたものと思われます。

2019年11月、野猿公苑跡地が「野縁公苑」としてリニューアルオープンしました。たまにイベントなどで使われているようですが、「猿」のいない「縁」をどうやってつなげていくか、課題もありそうです。2023年には犬山商工会議所が「桃太郎プロジェクト」を立ち上げ、「木曽川桃太郎外伝」というストーリーとキャラクターを作りあげるなどの新しい動きもあります。
1930年に創建され、もうすぐ100周年を迎える桃太郎神社と桃太郎公園。そこに関わってきた方々の思いをつなげていくことは、ますます大事な意味をもつように思います。

2024年7月3日談(於 工房「尾張桃山」)
語り手:伴野鉦三さん(桃太郎発展会元会長・工房「尾張桃山」)
長瀬由武さん(桃太郎発展会会長・お食事処「すずや」)
今井順子さん(土産物店「栄屋」)
加納三治さん(桃太郎神社初代宮司孫、桃太郎発展会)
聞き手:楠本亜紀(みんなのアーカイブ)


※写真は無断転載禁です。


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