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桃太郎神社初代宮司の娘・加納みどりさんの思い出

加納みどりさん筆のキャプション
(川治桃光さん所蔵アルバムより)

写真の一枚一枚に丁寧に書き添えられた言葉。
『語りの種』でお話をうかがった桃太郎神社二代目宮司・川治桃光さんに以前見せていただいた写真アルバムには、綺麗な字で細かくキャプションが書かれていました。
どなたがお書きになったものか尋ねると、お姉さんのみどりさんだとおっしゃいます。初代宮司の川治宗一さんの右腕のような存在だったみどりさん。桃光さんよりも4歳年上で、性格も宗一さん似で人前で堂々と話をされるような方だったそうです。
その思い出について、息子の加納三治さんにお話をうかがいました。

ー加納さんのお母さん、みどりさんは、桃太郎神社にかなり関わられていたとお聞きしました。

加納 かなり関わってますね。二代目宮司の川治桃光さんとずっとやっていて。一時期親父が手伝ったりとかしたこともあったみたいですけど、おふくろの神社に対する想いっていうのはすごく強いんですよね。

ーおうちも桃太郎神社のすぐ下に住まわれていたそうですね。

加納 そうそう。その家というのが青柳ういろの後藤利兵衛さんの元別荘でした。親父も名鉄のモンキーセンターの立ち上げに関わっていたので、(両親は)あの辺のことは知り尽くしていました。
おふくろは神社を手伝いに行くっていうんですかね、それが日常的にあった。桃光さんとおふくろとで神社に行って、おふくろが今のお守りとか売ってるところに座って、店番みたいなことをしたりとか。焼ける前の宝物館もあったので。とにかく裏方として、いろんなことをやっていました。
結構書くことが好きなんで祝詞とかも書いたりとか、どちらかというと外交的な人だったから、いろんなところへの宣伝といいますか、そういう活動なんかもしてたりとか。どちらにしても二代目宮司の桃光さんを立てながらね。姉という責任感もあったのかもしれませんけども、いずれにしても桃光さんと一緒にやられてました。

ーみどりさんにとっての桃太郎神社はどういうものでしたか?

加納 やっぱり今思うと、おふくろの父、川治宗一が作ってきた神社を、もっと大きくしたいというか、桃太郎神社だけじゃなくて、栗栖に伝わるいろんな昔話とか、いろんなことを含めて、何かやりたかったんじゃないのかなと。毎日、もう当たり前のように桃太郎神社へ行ってたので、神社は彼女にとっても生活の一部だったと思うんです、宗教とかじゃなくて。その辺はこの遺稿集のなかで兄貴がうまくまとめてくれてます。

”母が目指した「事業」は、二つあったと思います。ひとつは自分の理想や信念を家族を通じて実現することで、それらは、例えば「他者に対する思いやり」であったり、あるいは「社会貢献」であったり、あるいは「伝承の義務」というようなことに対する自分の思いを一生懸命伝えていたような気がするのです。もうひとつは、祖父がした桃太郎神社の事業を引ぎ「子どもの為の楽しく、新しい神社像」を目指し、叔父(母の弟現宮司 川治桃光)といっしょに作り上げて行くことだったと思います。それは「宗教」というよりも「神社という事業」を通して「人の在り方」のようなものを世に伝えることではなかったのだろうかと思います。"

加納昇治「あとがき」より 加納みどり投稿集『山乃声 川の唄』1996年
加納みどり投稿集『山乃声 川の唄』
みどりさんが生前雑誌に投稿したり、書き記していた文章を遺稿集として編んだもの

加納 多分おふくろのこういったことは、おふくろの祖母、つまり川治宗一の母親から小さい頃から聞いていて、こういうような思想が生まれたんじゃないかと思うんですけどね。母の祖母、私からいうと曽祖母にあたる人が教育熱心で、かわいい子にはよく旅をさせろということで、おふくろは尋常小学校高等学校を出てすぐに岐阜の女学校に行って、4年間寄宿舎生活をしているんですね。川治家は比較的裕福な家庭だったこともあって、あの時代に女学校で、なおかつ寄宿舎生活をしてるんですよ。おふくろにとってはすごく精神的にもいろんな面においても充実した4年間みたいでした。
おふくろから私自身もよく言われたのが、身についた教育は出ていっても取られないと。荷物にもならない。しまっておく場所も不要である。火事になっても焼けないと。だから教育って非常に重要だというようなことをおふくろ自身もその祖母からよく言われたみたいで、それを我々も聞かされてました。

ーみどりさんは、教育とか、何かこう伝えていくことを通じて、社会改革じゃないですけど、何か生み出してみたいといった気持ちがあったんですね。

加納 子供に対する教育とか人に対する思いやりだとか、何かそういったところを結構感じてたんじゃないかなと思うんすよね。この遺稿集の中にも、そんなようなことが書いてあることが多いんです。昔の人に学ぶとか、お蔭様とか、なんていうんですかね、人生とは何なんだろうかみたいなことを、人と関わり、神社というものを通してどうやって人が成長していくのかとか、何かそんなようなことを言いたかったんじゃないかなというような気もするんですけど。

ーそういうお母さんの生き様を見て、加納さんは桃太郎神社を継ごうと思われたりはしなかったんですか?

加納 そういう時期もあったんですけど、自分が住んでいる場所や生活面を考えると、これは難しいなということで、結局今の宮司さんが継がれることになって。それが正解だったと思います。川治宗一はどちらかというと、神社というよりも観光産業の一つとして、村おこしとして神社を作ったので、桃太郎神社は真面目に神道の道を歩んで行くという位置付けの方がいいかなと。
ただ、神社だけではやっぱりお客さんは来ないので、あの一帯を桃太郎の聖地のような感じで作り上げていくことが結果的には桃太郎精神じゃないですけど、桃太郎の楽しさとか、人との関わりにつながっていくんじゃないかと思って、今いろいろと画策しているわけです。

ーある意味、お母さんが目指されていたことを加納さんが継がれているとも言えますね。

加納 そうですそうです。おふくろは66歳という若さで亡くなりましたが、もっとやりたかったことがあった。神社をこうしたいという夢があったみたいなんです。おふくろがやろうとしてたことを今私は継いでいるという形にはなるかもしれませんね。
やっぱりあの地域、あのままじゃもったいないなと。寂れた感は寂れた感でいいんですけど、ただそのままにしておくと本当に寂れたもので終わっちゃうので、そこはせっかく桃太郎いう本物があるので、盛り上げるために戦術的に考えていかないといけないなと思うんです。神社は宮司さん、それ以外のところは私や、私を含めた桃太郎発展会や関係者のみなさん。いろんなブレーンがいますけど、それを一緒に語り合える人たちが出てきたというのは非常に幸せなことだと思ってます。

お話をする加納三治さん

ー桃太郎神社をただ観光で盛り上げていこうというだけでなく、そこに関わってきた人たちの思いのようなものも伝えていきたいですね。

加納 そうですね。これは桃光さんから聞いた話ですけども、桃太郎神社があそこにできるときに、あんな田舎に神社を作ったところで誰が来るかと、村の人たちはみんなそう思ってたんですね。昭和の初期の話ですから、バスも当然ですけどないし、誰も来ないだろうと。名鉄や吉田初三郎というバックアップはあったけれども、それをやろうと土地を寄付した宗一さんの決断力はすごいなと思います。

ーそうですね、賭けですよね。青柳ういろうの後藤利兵衛さんもそうですが。

加納 いわゆるベンチャーですよね。これも桃光さんから聞いたんですけど、おふくろもよく言ってたんですけど、川治宗一さんが神社を作ったときに、宗一の母、私から言うと曽祖母、川治かぎって言うんですけども、その方が桃太郎神社の御札を、尾張、美濃、飛騨とかに売りに行ってたって言うんですね。川治桃光さんの言葉で言うと、「おばあさんが宣伝に行ってござる」って聞かされて。

ー私も少しお話をききました。泊まりがけで行ってらしたようですね。

加納 家族としてね、息子が神社を作ったんで、やっぱり息子を応援するということは、かなりあったと思うんですよね。それはいわゆる歴史上のヒストリーとしては出てこないんですけど、そういう人たちの力、家族、母親とか川治さんの奥さんとかね、そうした方たちの協力があったから成り立ってると思うんです。だからそういった人たちの、表には出て来ないような人たちの歴史もやっぱり残してあげなきゃいけないかなっていう気がするんですよ。多分それは残そうという意図を持たないと消えていきますからね。それはおふくろの思いを伝えることになると思うんです。

青柳二代目後藤利兵衛さんの元別荘だった家の前で
加納みどりさんと三治さん


2024年6月19日談(於Landschaft)
語り手 加納三治さん(桃太郎神社初代宮司孫、桃太郎発展会)
聞き手 楠本亜紀(みんなのアーカイブ)

※写真は無断転載禁です。


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