記事の紹介七

おはようございます。
今回も、ミカエルさんの記事を紹介させていただきます。
今回は、こちらです。

主イエスに従うために必須な「自分を捨てる」ということに焦点を当てたものです。

感想 僕自身を振り返って

僕は、以前よりは自分の思いを押し通さなくなりましたが、こちらの

に参加条件を「こうだろう」と主観的に捉えてしまい、ミカエルさんのご立場を理解せず、全く改善されてないようなメッセージを送ったりして、未だに参加できていません。これは当然の報いです。
また、自分にとって不都合なこと僕の実体験というか過ちからで言えば、「今日は、これを買って以前生活が困っていた人に贈ろう」と考えていたことをある人に邪魔されてしまい、それであからさまに嫌そうな態度をとるという愚行に走ってしまいました。自我というのは、主イエスを模範とする上で最も邪魔になる存在です。
他にも、思いつきで行動したり、「これなら大丈夫だろう」などと考え、結果人に迷惑をかけるなど「人間失格」や「あなたは、悪魔の子で救われるなどあり得ない」と言われて当然なことをしてしまいました。
そこで、やはり「救われるに値しないんだな」と思いつつ、そのような人類の僅かでは有りますが、救おうとなさった父なる神と主イエスのご寛大さ、慈愛の深さに敬服いたします。が、それを裏切っている僕は一体どういう分際でこのような振る舞いをするのか、と思っております。
主なる神の憐れみ深さについては、ミカエルさんのこちらの記事をご覧ください。

無論、神の悪に対する厳しさ例えば、ソドムとゴモラへの裁き、また、我々のような振る舞いを平然と繰り返す者に対する裁きを行なわれ、我々のような罪人は救わず地獄で滅ぼすその厳しさ、
その逆にミカエルさんやその教会に集う方のように真のキリスト者を目指し、実際になれた人には天の国へと入り、永遠の命を与える、というように神は義人と認めた人には憐れみ深く、特に僕のような悪人にはその悪に対する厳しさと憤りをもって滅ぼされることも弁えねばなりません。


ここからは「自我との戦い」を読み、その内容から実践できるまたは、変えねばならない考えについて僕なりに考え、まとめたので皆さんにも是非参考にしていただきたいと思い書いていきます。


今からでも変えねばならないこと
それは自分本位を捨てること

自分本位に「こうしたい」という思いで突っ走ってしまうと周囲に迷惑がかかり、とてもではないですが主イエスの品性に似つかわしくない振る舞いとなります。
なので、「これこれしたらどうなるだろうか」と自問自答し、また、「果たしてこれでいいのだろうか」と自分を疑うひつようもあると思います。
理由としては、単純にこの「自分本位」というのは、すなわち自分に頼っているということにもなります。
世の人は、「それでいいじゃん」と思うかもしれませんが、詩編十四章三節に

だれもかれも背き去った。
皆ともに、汚れている。
善を行う者はいない。一人もいない。

とある通り、誰も善人といえない振る舞い例えば悪口、淫らな思いで異性を見る、暴力、嘘をつく、偶像崇拝などの律法違反をし、まして仏教徒たちはそれを平生からしているのですから、たくさんの罪を犯しています。
たくさんの罪を平然と犯している人類が自分の考えのみで行動するというのがどうなるか分かりますか。
選択肢に創造主の顔に泥を塗ることになる「罪」を犯すということを認識していない人が大半なのですから、
何の呵責にもならず罪を犯してしまうでしょう。

だから、罪深い人類は唯一の救い主、主イエスに救いを求め神の律法を守るために日々悔い改め、自分本位を投げ捨て、自分の思いではなく、神を思って自分の行動がどう周囲に影響するかということを考える必要があるのです。
相手のことを思うのも大事なのですが、それに気を取られると自分の評価も気にするようになりかねないですし、
もっとも本来被造物の役割というのは神を礼拝することにあり、その方の命じられたことが、アブラハムのように、一人息子を献げよ、という御声であろうとも、
また、この世の法律に歯向かうものであろうとも、
また、親族と足並みが揃わなくなることであろうとも
それに聞き従うことが被造物の本分であり、
主イエスを模範とする「キリスト者」ということでもあります。
ですから、相手が話していたらどういう意図でこの話をしているのかということを「これはどういう意図なのかな」と自問自答し、相手が何を思っているかというのを良く吟味して会話したり、相手が何を「今望んでいるのかな」ということも考えられるようになることが大事だと思います。

簡単にできることとしては、「これこれしたら、どうなるかな」と考えます。
が、ここで注意してほしいのは、人間の常識や勝手な思い込みではなく、「自我との戦い」でも書かれていますが、神の律法や主イエスの御言葉に果たして適うものかどうかを吟味してください。
それで、良いと思ってすぐ行動、だとその結果までまだ考えられていない可能性が高く、思わぬところが落とし穴となり罪を犯してしまうかもしれません。
だから、「他に可能性はないか」と考え、また、適切な判断をし、神の栄光を現すことができるように、主イエスに謙って祈り、自らを神の御手に委ねていきましょう。
そこで、はじめて行動くらいにしなければ、後々厄介になりかねませんし、罪を犯し、主イエスを悲しませることになります。


これらは、愚かな僕が考えたことなのでもっと良い考えがあるかと思います。
もし、「こうした方がもっと良くなると思う」とよい考えをお持ちの方は是非、愚かで哀れな僕にでも教えていただけたら幸いです。
今回の紹介は以上です。
皆さんに主イエスからの恵みと平和がありますように。

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