【カリスマ】小劇場に無限大の愛を
今日のよき日にまさか切れ痔になるなんて……
おかげで朝から痛いわなんか外暑いわで温も冷も汗ビチャビチャです!! 泣いてしまうぞ杏寿郎
そんなこんなでビチャビチャ人間は学校にたどり着いたので潔く木曜2限を受けるのでした。
今年は『カリスマ』の更新があると知っていたのになぜ前期も後期もこのコマを入れてしまうのか。それは木曜2限のラインナップがことのほか良いからです。満足度が高い。開けられなくてごめん。
今日のブレイクどんなかな〜、こういうのかな〜ああいうのかな〜と考えつつ怒涛のノートテーキング。そしてチャイムが鳴って昼休み。
今日は……リアタイするぞ! そう宣言しメシを抜く構えでかねてから下見しておいた「パソコンを覗き見されない位置のテーブル」につきました。
いつもはTwitterでトレンドを見てから観るのですが、今日はもうなんの情報も入れずにぶっつけ本番で観ます!
ではまいります!
!!!!!!!!!!!
やばい 痔、治った(よかったね)
仮装と仮面を重ねてくるところまでは想像できたけどその後が本当に天才で……いや予想できないわけではないけどそれが大正解というか……なんの文句もつけられない、というかつけたくない最高の出来。いつも思ってるんですけど今回はもう……多幸感がすごくてなにも言えない
幸せな気持ち、それだけでもうなにも言葉にしないのがいちばんいいだろうけど、少しはちゃんと言葉にしたいのでここに書きますね。
あの、社会学的ドラマツルギーの話をしますね。(いきなりなに!?)
「ドラマツルギー」の元々の意味は「作劇法」や「演劇論」。語源はギリシア語のドラマトゥルギア:「脚本上演」、つまりは劇のことです。(※ギリシャ:現代、ギリシア:古代と表記を分けています)
ギリシア劇の特徴は役に応じた「仮面(ペルソナ)」を使うこと。お能をイメージするとわかりやすいかも。
そこから派生したのが社会学分野における「ペルソナ」「ドラマツルギー」です。
どういうことを意味しているかというと……
「人間は自分自身を生きているように見えて、実はずっとその場に応じた何者かを演じているよね」
という……
例えば同じAさんでも、高校教師として働いているときは優しい先生として、自分の子供の前では威厳ある親として、学生時代からの友人の前では当時と同じ悪ガキとして振る舞うことがあります。それは各場面においてふさわしい仮面を無意識に付け替えているから、という話です。
「この人の前だとついついお喋りになっちゃう」とかもそう。
なんだか話が我は汝汝は我してきましたね。
厳密に言うと
「ペルソナ」:みんな自分を演じてんねん
「ドラマツルギー」:ほなその演技にどんな傾向があるか研究しよか
という違いがあるのですが、ここはブログだしあくまでも補足でしかないので断りを入れるだけに留めておきます。気になったら調べてください。あわよくば哲学・心理学に転向してください(強欲)
みんな自分を演じてんねんて〜
みんな自分を演じとるんよワレ〜
でもそれを「仮面」と呼ぶなら、仮面の下には素顔があるはずですよね。つまり本性。自分は本当は何者なのか。
それを求めてみんな自分探しをしますが(していましたが)結局みんなわからんのですよ
困りますよね 誰かに教えてもらえるほど絶対的な概念じゃないので……
自分が何者か、というのは結局誰にも分からなくて、強いて言うなら自分自身だけが知り得るものであって。
自分が「これだ」と定義してしまえばそれが素顔になるんです。仮にそれが自分の持つどの仮面とも似通っていなかったとしても。それが自分に対する新たな仮面でしかなかったとしても。
仮面を何重にかぶっているか知らないし、本性だと思っていたものの下に本当の素顔が隠れているかもしれないし、自分自身っていちばん近くにある大きな謎ですよね。
定義してしまえばそれを信じる限り絶対不変だぜ!
というのはハウツー本ちっくな持論なのですが、でもそれにいつも自信を持っていられるわけでもないわけで。
過去の自分を知る人は、自分が「豹変した」と思っているかもしれない。今の自分しか知らない人は他の仮面を見たときにひどく幻滅するかもしれない。
「本当にこれが正解なのか?」と思い悩む夜もそりゃあるよ 人間だから……
そんな夜がハロウィンだったら?
『カリスマ』94話になるわけです。
テラくんはいつも完璧な仮面をかぶっています。自分大好き! みんなも僕を目指して頑張りな! 彼はいつも輝いていて、悩める日の手を引いてくれる強さがある。みんなの憧れる眩しい太陽。
もちろん本心かつ事実だけれど、そうとは思えない自分もどこかに隠し持っている。
そうじゃない姿、側面を見せてしまうのは彼にはとても恐ろしいことだったんだろうな……これまで固めてきた「素顔」という仮面を崩してしまうことだから。
せっかく自分で決めた素顔なのに、そう振る舞おうとするうちに「そこで振る舞うべき正解」=「仮面」になってしまうこのジレンマ。これに反してしまえば自分はずっと嘘をついていたことになって、誰も信じてくれなくなるかもしれない。無欠でいなくちゃ、そうでなくちゃ、それが枷になってしまう……
そのとき彼らはどうしたか?
そう、その瞬間こそハロウィンの夜だったわけです。
わたしは作劇の妙が大好きです。つまりこれはその「大好き」にあたるもの。
季節行事に敏感な作風を利用して、ハロウィンという行事の特性を、ドラマツルギーに見事に織り交ぜてみせたので……!
仮装して、つまり仮面をかぶって現れるテラくん。いつもとは全く違う仮面。しかもハロウィンは「自分ではないなにか」になりきる行事なので、自分の別側面といういつものペルソナではなく完全なる別個人として(を装って)来るわけです。
そして、いつもは言えない別の仮面……もはや「素顔」の仮面が大きすぎて隠れていたそれのことを口にしようとする。
でもそれに返答するとき、カリスマたちもまた仮装をするのが……
仮装というのは仮面のメタファー、すなわち隠し事や取り繕うこと。72話『夏祭り』の描写にもあるとおり、仮面の意匠を担ってきたのはテラくんであるわけで。彼はその隠し事をずっとどこかで恐れてきたわけで。
それに対して彼らは、彼らもまた仮面の下にあることを示した。みんな演劇だ。みんなどこかで嘘をついたり見栄を張ったりしている。誇張したり、平気なふりをしたり。
だから大丈夫!
無理して仮面を繕おうとも剥がそうともしなくていい。君は君のままでいい。秘密は秘密のままでいい。全ては君の自由、全ては君の決めること。なにものにも邪魔されずに我が道をゆけよ僕らの太陽。なにが起きても自分たちは君の味方だから――。
泣いてしまうぞ杏寿郎(本日2回目)
あの 前回(93話)で大瀬が夜中にエントランスホールで泣いているテラくんを見てしまうシーンあったじゃないですか。今から思えばあれ、テラくんにとっては相当ショックだっただろうな、と
見せるかどうか少しの迷いを持っていた別側面を、ハロウィンの約束をしたあの電話からさらに心が揺らいでいるときに、なんの心構えもなしに見られてしまった。そりゃ思わず突き飛ばしてしまうだろうし「言わなきゃいけなくなった どうしよう どう言おう」と思い悩みもするし……
結局そのときは「どうにかしてごまかそう、隠し通そう」という選択だったので踏み込もうとする大瀬とぶつかってしまったのですが。
衝突して引きこもる間、2人ともなにか考えていたんだろうな。やっぱり隠すのは無理かもしれない。正直に言おう。でも面と向かって言うのは怖い。じゃあ面と向かわなければいい。自分とかけ離れた化け物の姿をとって、醜い本心を代弁させよう。……そんなふうに。
大瀬のほうもきっと、「間違えた」と思いながら「じゃあどうすればよかったのか」と悩んでいたのかな。
そこから「言いたくない秘密なら秘密のままでいい」にたどり着けたの、これはもううんこ卒業ではないですか? パーフェクトコミュニケーションだよ。感涙しています。
初めて聴いた『カリスマ』ドラマが『オバケの部屋』だった人間なのでここ2人に相当肩入れしているんです……もう少し喋っていいでしょうか
テラくんって典型的なナルシストとは違って他人のことをめちゃくちゃ褒めるんですよね。上下をいちいち持ち出さないというか、自分が別格すぎて上も下ももはやないというか。そのイメージがついたのも『オバケの部屋』スタートというのが一因だと思うのですが。
大瀬のことをなにかと気にかけたり「すごいよ君は」と思ったりするのは、ひとえにテラくんが『オバケの部屋』でその才能を目の当たりにしてそういう人間(引きこもりで自分に自信がなくても他の場所にその個性と才能を発揮している人)の存在を知ったからだとばっかり思っていたんです。
でもね。今回のブレイク曲で「自分が嫌いだった」と言い出したことで、見方が変わったんですよ。自分の生き方を他人の価値観で曲げられてきた彼が、自分の意思で中神博士の元へ行った大瀬を引き止めないのはそういうことなんですよ。
テラくんもまた大瀬のことを本当にすごいと思っていて、それは手工芸の才能だけなんかじゃなくてもっと大きなところ、生き様と言ったら大袈裟かもしれないけれど……自分にはできなかったことに、眩しいな、と思っているのかもしれないですね。
さっきユング心理学(ペルソナ)の話をしましたね。わたしはこの作品を哲学とか心理学に(勝手に)近づけるケのある人間なのですが、そうなるとテラくんはユングの思想を意匠として持つキャラでもあるわけですね。
まあ妄想なんですけれども 全部妄想なんですけれども
ところでユングの師はフロイトでした。そう、エロスとタナトスの対立やリビドーについて説いたあのフロイトですね。フロイト心理学と『カリスマ』については、120%天彦の話しか出てきませんね。この令和の世にめっちゃフロイト推すじゃんと思って熱く盛りあがったあの日が昨日のようです
ということは天彦のこともわりと尊敬していたりして? (彼がみんなのことを愛しているのは前提として! 前提として!)
天堂家に行ったとき、みんながWSAをごまかしちゃって「ふん」と拗ねていたときももしかしたらナントカカントカって感じだったのかも……
でももう少し時間を置いてから考えたい。これ以上なにかするとキャパオーバーになりそう。本日の情報量、多し。
セクビュは裏切らないので100年待っても大丈夫です(イナバ物置)
ちなみにタナトスは根源的な死への欲動なのでこれが大瀬だとすると天彦へもわりと近い思いを抱いていたりして ね
以上 与太話のコーナーでした
まあ与太でなくとも天彦という非常にオープンな人間、意識しちゃうと思います。
セクビュのことこれまで「似たもの同士」だと思ってて。でもテラくんは秘密を持っていて、天彦は胸の内まで曝け出すような感じで。天彦はオープンすぎてヤバいところがあるのですが(そりゃなんでもないときに開口一番「セクシー」はヤバいでしょうよ)、そのヤバさもちょっと羨ましかったのかもしれません。
「こいつはヤバいけどそのヤバさに自分は救われてきた」作品、か……。
『バスは来ない』でテラくんが理解お兄さんに「君がいなきゃ僕ら終わってたよ」が出てきたのも思い出しました。本当にそう。わたしもみんながいなければ今頃骨壺の中だったかもしれない。
今回のファインプレー賞ほんとに分からなくて、なんかもうみんな……みんな優勝というか。見たら猿ちゃんだったんです。ってことは……秘密を明かそうとしたテラくんの声を遮ったあのシーン?
あそこであのまま明かされてしまっていたらブレイクには至らなかった。本人はただオバケにビビっていただけかもしれないけどナイスタイミング。まさかケルベロスさんと打ち合わせてたとかは……ないですね! あのビビりは本物ですよね
「ブス」「はあ〜!?」もお決まりだけど今日も世界にありがとうの気持ちで見ていました。微笑ましい。いじったりいじられたり。
いつものテラくんなら「猿川くん本当にオバケ怖いんだ!」と笑っていそうなところだけど、ここでは「オバケ」と「怖がり」という対面なんだ……。でも正体がわかったらいつもの関係に戻れて、オバケがテラくんであることをダメ押しで証明した。
いや待って、ファインプレーは最後のセリフか。
これですね……
『テラ会議』もなんだかんだしっかり聞いてくれてたんだなあ。自分のいいところが湯水のように湧き出るさま、結構心に残っていたのかも。猿ちゃんは自分のカリスマ性を「生きづれぇ」とまで思っているし、捨てた故郷の仲間のこともリュウのことも、どうしても責任を感じてしまっていただろうし。セカンドシーズン前半にいろいろカタはついたけど、特にリュウについてはまだ思うところあるだろうしなあ。
生まれ持ったヤバさにYESと言えるその姿勢、すごく眩しかったんだろうなあ。猿ちゃんはNOしか言えないから。それはそのYESが元からじゃなかった可能性を垣間見てもなお、変わらなかったのかもしれない。テラくんがNOと言おうとしたから反発してYESに書き換えたのかもしれない。それって秘密や虚勢にとっていちばん効く行動なんじゃない。
「秘密を話すね」に対する「話さなくてもいいよ」って、優しい反発なのかな。反発って言葉、クッションみたいでなんでも和らげてくれる優しさがある気がします。カリスマたちが悩んだときに導いてくれるのがテラくんなら、高い壁を超えるのを諦めているときに叱咤激励してくれるのが猿ちゃんなのかも。
そうか、「自己決定」!
もし今回のテーマが「自分のしたいことは自分で決める」「自分が何者かは自分が決める」ことであったなら……そこに特効が入るのは猿ちゃんだ。
猿ちゃんはずっと自分で自分のことを決めたくて、それを阻む人間は蹴散らしてきた。でも生まれ持ったカリスマ性のせいで反対のことをやっちゃう、逆に操られてしまうという致命的欠陥を抱えていて、自分でもそれに気づいている。
でも、それでも猿ちゃんは自己決定を諦めない。苦しさにもがきながらも、自分の信念を曲げないように必死に努力している。『譲れねぇ』を観ればわかるとおり。
そんな人に「お前のことをいちばん真剣に考えているのはお前だ」なんて言われたら……はっとしてしまうよ。そしてそれはいつも自分が信念として(「これこそが自分」として)貫いてきたテラくんそのものであるわけで。
(猿ちゃん呼びをどうにか矯正したいもののしっくりくる呼び名がなくて……猿ちゃんさんにするか……)
なんかやっぱりここも誰か一人だけが頑張ってのブレイクじゃなくて、ファインプレー賞以外もそれぞれのやり方でちゃんと支えているし、なんならファーストシーズンからずっと支えてきたし、今回や今クール(4回1クールとする)だけの関係じゃないんだな、という感動がすさまじいですね。
誰と誰を繋げても関係性があるし、誰もが対比あるいは類似という形で現れうる。それがはっきりと示される人もいれば主張せず静かに示される人もいる。
その暖かさを存分に感じられる、愛にあふれた回でした……
大好きなあなたを、いつまでも愛していられるように。
「夢の国」。
「桃源郷」や「ユートピア」とも言い換えられるけれど、「夢の国」とするとそのオモチャっぽさが際立つ。子供っぽいというか、現実はそうじゃないというか。夢はいつか覚めるもの。夢は夢でしかないもの。必要ない、無駄なもの。――でも「夢の国」という言葉に際限のない世界を見る自分もいる。
日本で夢の国といえば某テーマパークが有名ですが、あそこだって多くの秘密を隠しています。当たり前。
でもインパーク中にはそんなことは考えない。知る必要のない秘密には、その存在を感づいていたとしても、踏み込まないでもいいんじゃないですか。
そういうことを言うと「そんなのはただの享楽だ」「刹那主義者だ」と言われてしまいそうですね。でもそれはその秘密から「目を背ける」ことではないんです。そしてその「享楽」もある種ではとても大切なものなのです。
彼らは今回、踏み込まずとも「味方でいる」姿勢をはっきりと示しました。なにかあったら必ず助ける、そばにいる、と。
際限なき夢の世界はそうした裏付けに支えられています。主演が輝けるのは助演がいてこそ。家があるから外に出られるし、仲間がいるから一人になれる。なりたい顔でいられる舞台。
彼がこの曲で明かしたエッセンスの過去も、舞台という形をとるからにはシナリオなのかもしれない。そういう仮面なのかもしれない。でもだからこそ、彼が彼でいられるのだとしたら、これほどのハッピーエンドはありません。もちろんこれは「エンド」じゃなく、まだまだ物語は続くはずですが。
ラ・ラ・ランドが大好きなのでラ・ラ・ランドを重ねてしまうよォ〜……
叶えたいけど叶えられない夢を持った人たちが出会うことによってLA LA LAND(=夢想の世界)に手が届くんだよ〜……
そしてそれは「2人で」でも「みんなで」でもなく、自分自身と叶える夢であって……
あの映画の結末を好まない人もいらっしゃるようですしそういう意見もわかります。でもわたしはあの結末を夢へのスイングバイだと肯定的に捉えています。出会わなければどれも叶わなかった。例え終わってしまう生活だとしても、その先にそれぞれの未来がある。
夢の国の向こうにはどんな未来が待っているのかな。
感動でなにも言葉になりません。
言葉にならないので聴いてください。
――ようこそ夢の国へ!
覚めない夢はいつまでも、いつまでもその胸の中に。
そしていつかはさようなら、夢の国。
でもその門を外へくぐるとき、解けない魔法が胸に残っていますよう。
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