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【映画感想】『ゆきてかへらぬ』――青春と童心

『ゆきてかへらぬ』という映画を観た。

2025年2月21日公開。何ヶ月も前からずっと楽しみにしていて、そのくせムビチケもフライヤーも取り忘れたので、せめて早くに観てやろうと遠くまで足を運んだ。

これはいち中也ファンの感想である。


癖の強い三人

この映画は「絶対ハマるから観て!」というタイプではない。合わない人もいるだろう。その理由の一つが、メインキャラクター三人の癖の強さである。だがそれはもうどうしようもない。その癖の強さは史実に織り込まれてしまっているからだ。

中原中也という詩人は、その破天荒なエピソードで定期的にバズを生んでいる。だがその破天荒なところは彼の一面にすぎない。作品を読んだことのある人であれば、その意外な繊細さ、儚さに気づくことだろう。独特で心地よいリズムに乗せて、芯に刺さるような詩を紡ぐ。会って話しているときには嫌気が差しても、いなくなればその空席がかなしくてしょうがないだろう。そういう人だから、暴力的なシーンがあってもすぐに可哀想な気持ちになってくる。
中原中也という人の本質が詰まった描写である。

中也だけでもひねくれているというのに、この映画の中心にいるのは泰子であり、泰子もまた一筋縄ではいかない。小林もまた、わからない。
普通、物語を作るならまともな人間を一人置いておくのが鉄則である。見ている側が物語やその意図を把握しやすくするためだ。しかし、この物語は前提からしてそれがなされていない。把握しにくい作品ではあるが、くんずほぐれつの関係性だからこそ、成り立つのである。

ここ以外では生きていけない

彼ら三人ともがまともではない、こその描写がある。中也からも小林からも離れた泰子が、公園でラムネをくれた男に必死に言い寄るシーンである。「あなたはおかしい」そう言いながら逃げていく男は、まっとうにこの世の人である。中也も小林もおかしいと思い、まっとうな世界に居場所を探した泰子が、自分もまたおかしい世界の住人であるとはっきり突きつけられるシーン。

詩世界というのは、はっきり言ってしまえばおかしい世界である。タバコとマントが恋をするはずがないのに、詩の中では当たり前に恋をし、心中し、幸せを知ってしまう。詩を理解する人間は、「理解してしまう」人間で、本当はやっぱりおかしいのかもしれない。詩を解する三人は、ふつうの世界ではもう生きられないのかもしれない。
でも、ふつうではないからこそ、このような奇妙な関係でいられたのかもしれない。

詩のシナジー

物語に彩りを添えるのは、様々な詩や歌である。頻繁に、というわけでもないが中也の詩は何度か登場する。特に泰子が去ってから、加速したように思える。
「朝の歌」の原稿を小林と一緒に読むシーン。あの原稿の文字は中也自身の文字によく似ている。実際の原稿のコピーか、あるいは似せているのだろうか。スクリーンの奥の中也と一緒にソネットを形だけ口ずさむと、同じ詩でもまた別物に聴こえた。

朝の光が朱く天井に映る。それを寝転びながら見ている。のんびりとした優しい情景に見えたそれは、泰子の去った部屋の天井に、「手にてなすなにごともない」物足りなさを纏って見えはじめる。

お茶、散る花、つっかえ棒

『ゆきてかへらぬ』はオールドな雰囲気のある映画であり、深く理解するためには一つ一つの描写に注意を払い、脚本の意図を掴み取っていくことが必要とされる。このような場合見るべきは、シーンを跨いで変奏されるテーマである。例えばそれは、泰子が客人に出すお茶であり、散るか散らされるかという問答であり、泰子を支える「つっかえ棒」の比喩である。

泰子は小林に茶を出さなかった。でも中也が客になったときは出した。自分も酒を飲んだし、時計を持ってきた中也には震える手でばか丁寧にティーカップを出した。中也は泰子には酒を注いでやるが、小林には出さなかった。
散る花の下、中也は小林に「散るのではなく散らせているのだ」と言う。小林は否定するが、やがて「散らせて」いることを理解する。

泰子は「つっかえ棒」を失い、しかし生きていく。煙突の煙とともに彼らの青春は終わったからである。生きていくことが、もはやできてしまう。
はたから見ればしゃんとした美しい人である。しかし泰子は「つっかえ棒」を失った。一つなくなればたちまち崩れてしまうという、その一つを。青春の終わりとともに、一つの人生もついえてしまったかのような気がする。

泰子はファム・ファタールとされることもある。だがこの映画の泰子には、その言葉が持つような妖艶で恐ろしいイメージはない。中也の儚さが、もしくは中也と同じ儚さが彼女に息づいている。

空の乳母車

テーマの一つに、乳母車がある。そこに子供は入っていない。小さな風車のついた空の乳母車。そして最後に中也が押している、文也がいたはずの乳母車。

序盤、中也は「お太鼓叩いて笛吹いて」と口ずさむ。わたしにとっては少し不可解なシーンだった。これは後期の作品「六月の雨」の一節として記憶されていたからである。しかしエンドロールで「笛と太鼓」という童謡の一節でもあるとわかった。おそらくこれを自分の詩の中に引き入れたのだろう。

なぜ、童謡を口ずさむのだろう。色々な描写を踏まえて、おそらく中也は「子供」として描かれているだろうことが感じ取れた。棘々した身体に童心が詰まっている。そのちぐはぐさで稼働して、そのちぐはぐさで怪我をする。子供らしい人間だから、子供が大好きである。大好きな子供は、空っぽの乳母車である。乳母車の中を眺めて、その現実に頭をなぐられる。今さら子供になろうとも、追っつかなくて困る。少し待ってほしい、と言ったときにはもう遅かった。

子供は元気だけれど、自由だけれど、ゆえに死にたさも抱えている。生きようと思うときが大人になったときである。冒頭、中也が「詩」と答えるところ、「死」とも聞こえてぎょっとする。ホラホラ、これが僕の骨だと歌った中也は、生きようと決心したとき、終わってしまう。
この映画、青春とは言い得て妙である。中也は人生を目いっぱい青春にしか費やさなかったから。


おわりに

この映画は珍しく、シーンを順々に撮っている。だから冒頭からラストにかけて、役者が役に染みついていく。感情も染みついていく。
どこまでも、不器用な人たちだ。その不器用さが、冒頭から表れている。人間誰しも不器用だ。他人のことと脇に寄せてしまわずに、自分ごととして観てほしい。ただ緩やかに、時は過ぎていく。緩やかに、砂は落ちていく。

名状しがたい何物かが、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴っていた。

中原中也「ゆきてかえらぬ ―京都―」

あゝ、死んだ中原
僕にどんなお別れの言葉がいえようか
君に取り返しのつかぬ事をして了つたあの日から
僕は君を慰める一切の言葉をうつちやつた

あゝ、死んだ中原
例へばあの赤茶けた雲に乗って行け
何んの不思議な事があるものか
僕達が見て来たあの悪夢に比べれば

小林秀雄「死んだ中原」


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