世界はいやがおうにもマルチバースになっていく
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CC BY-SA 3.0
File:Watts strogatz.svg
Created: 27 May 2008
こんにちは。センケイです。
ツイッターの動きが少し前からだんだんと怪しいものになってきていました。
相当な人数が解雇されたといった形で、インフラストラクチャーの整備などできっとメンテナンスが立ち行かなるだろう、と言われていた時期がありました。
あの頃はまだ、この場所 (ツイッター) が「いつか遠い未来にめちゃくちゃになる」くらいの怖さだったのをよく覚えています。あの頃の安穏とした余裕のある不安が、今では懐かしく思い出されます。
自体は急激に悪化しました。
急にみんなのツイートが見えなくなる事態が起きて、最初はいつものことだろうくらいに思っていたのです。しかしあくる朝、ようやく霧が晴れたように TL が見えてくると、そこは阿鼻叫喚でした。
無料版では1日に 600 回しか表示できない。
最初は何のことか分かりませんでした。
ツイッターのタブを閉じてもう1回開くこと、つまりログインする回数が1日 600 回までしかできない。うわっ、それは不便になりそうだから気をつけないと。そんなことを最初は思いました。
600 回という数字をみてさも当然のようにこう考える自分なのだから、その 600 回というのがツイートの数だということを受け入れるのにはかなり時間がかかりました。(のちに 800 に緩和されましたが、自分としてはそもそもゼロが2つ違うという感覚なので大差ありません。)
とうてい受け入れられない現実を前にして、拒否反応のためにわざと自分を騙そうとしたもうひとりの自分がいた、それで精神の健康を守っていたというほうが正確でしょう。
ツイッターは僕にとっては現実と並ぶ世界でした。現実にいる全ての人がツイッターをやっているわけではなけど、現実にいるどんなタイプの人もツイッターをやっていて、逆にいえばツイッターはどんなタイプの人とも知り合いうる場所だったと言えるでしょう。
書きながら思ったのですが、直接の知り合いじゃなかった人に対して話しかける行為が可能である、あるいは「話しかける行為の小さいバージョン」(いいねやフォローなど) が可能であるという点で、現実よりも大きなアドバンテージが有る場所だったと言えるかもしれません。
自分のように人見知りしない人間にとっては、会話イベントが発生するためには (それがヘンな行為ではなくなるための) 条件を満たさなければならない、というのはちょっとだけ窮屈ではあったのですよね。
(もちろん、そういう空気があるからこそそれでもなお話しかけてくる人は危険である可能性が一定程度あって、僕だって現実世界で条件を満たさずに急に話しかけれたらやはり警戒しますよね。その意味では一定の合理性があります。逆に言えば、話しかけてきた人が普段どうしているかが多少分かるからこそ安心できうる場だったのがツイッターだったと言えるでしょう。)
しかし、娑羅双樹の花の色。理想郷は長くは続かないだろうということがいよいよ決定付けられた、少なくとも私はそのように感じたのです。
もちろん残っている人も少なくないし、それで TL の進みがゆっくりになった分、あるいは自分がアクセス数を節約している分、一日 800 でも足りる運用をしてはいますが。でも皆の発言を有限の数しか聞けないというのはおかしい (と感じる)。現実空間では当然ながらそういう回数制限はないわけです。
これは完全に想像ですが、どんなタイプの人でもいる場所だったからこそ、儲けるのは難しかったのかもしれません。特定のお金儲けをして成り立っている場所であって、かつ生活に必須ではない場所は、だいたい「色」、つまりどんな人が集まる場所かという特徴がある気がします。これを正とすると、そういう場所は、こういう雰囲気のユーザーを狙ってサービスを出そうという狙い撃ちの図式が成り立つわけです。
ツイッターは色がないところが良かった気がします。だいたいどんなタイプの人もいるので、世界のすべての人が参加していないものの、「もし世界が3億 MAU (月間アクティブユーザー) の村だったら」という世界の縮図のように見えました。
でもそれは提供側のお金儲けには難しかったのかもしれません。
かくして私たちは、それぞれの「色」へと放たれました。縮小しつつあるツイッターは小さく濃くなり、色を持った色々なもののうちの1つになったと言えるかもしれません。
いや、これは、元々ツイッターが世界だったと思う自分のような人に限った話だったのかもしれません。
元々世の中的にはすでに、色を持ったさまざまなサービスがあったはずです。
ともあれ、私のような人間にとっては/とっても、世界は1つではなくなりました。
ツイッターでも特によくやりとりしていたかたがたの半数以上が集まっているような場所は、まだ見つけられていません。
ざっと見た印象としては今のところ、以下のような感じでしょうか。
マストドンは敢えて言えば、インターネット上でよく議論されていることやインターネットのありかたそのものの議論が多い気がしていて、インターネット色という感じです。話題としてはツイッターに近い安心感があります。
インスタグラムはやはりビジュアルを通じた SNS という印象があります。これは自分のようなオタクにとっても意外と悪いものではない気がしてきました。日常見かけたちょっと心地よい風景や自然の話題も豊富で、これらの話はもともと好きですし。
あとは本や同人誌についても、紙面より装丁や紙使いの話題が多め (その意味で ZINE の話題も多い) という固有の印象を受けますが、これはこれで人をしてオタクたらしめることが可能な領域であって、議論のしがいがあります。
マストドンもインスタグラムも、知らなかったかたと新たに知り合うことを促すしかけがありつつ、しかしながらタイムラインが謎のオススメで埋め尽くされることもないので、充実しています。
スレッズはまだあまり感触を掴めていませんが、まだ新しいので、クラブハウスが出てきたときのように (使い続けるかはともかく)「皆いったんあっち行って遊んでみない?」という風に集団小旅行をしている感じがあります。
その後定着する人とそうでない人が分かれてくると、どういう場所かが分かってくるでしょう。
ここ note については、ひとりひとりが人気商売を (目指すことを) 強いられる雰囲気もあるので人と相互につながるのは実は難しい感触というも持っているのだけど、すでに相互になっている人とは遊べそうという感があるのと、あとは関心のあるオススメ記事が出てきて「この沼にも同担が居たか…!」と発見できる点がアドバンテージかなと思います。
このように、いい意味と悪い意味の両方で、インターネットにも「地域」みたいなものがあることを痛感し、少なくともこれは現象としては面白いなと思いました。
物理空間ではもちろん距離とか地方自治体とかあるから、地域ができたり、地域での付き合いができたりするのは当然なんだけど、インターネットというネットワーク空間にもこれがある。
1998 年に DJ Watts, SH Strogatz が nature に出した small-world network のネットワークの論文、要するに「世界は狭い」ということを示す数理モデルを書いた論文は、今では 50,000 引用される超超大物論文になっています。
50,000 引用というのがどれほどすごいのかを表現するのが難しいですが、ぼくの大雑把な感覚として、論文の 1 引用は 100 リツイートくらいに相当している気がしていて、つまり 500 万リツイートされても違和感ないほどの世界的な成果というわけです。
さて、ここでいう世界は狭いという話には、2つの意味があります。
1つは、遠くの人とも案外近いつながりにあるということ。
世界のほとんどすべての人が「ともだちのともだちのともだちのともだちのともだちのともだち」以内くらいに要るというお話です。
絶対この人とともだちになることは無いだろうな、というなるべく遠そうな世界の人をぜひ思い浮かべてみてください。そうすると理論上、高い確率で6人先 (よりも近く) にいるというわけです。
上の話だと、世界のあらゆるところが繋がっていて、あたかも地域性などはないように見えます。しかしこの論文は、もう1つの世界の狭さについても語っています。
それは、僕らがよく使う意味での「世界は狭い」です。つまり、「ともだちとともだちがともだち」であるということ。あるともだちが、別のともだちとの共通の友人である場合が多いということ。
この後者の話で行くと、たしかに物理空間ではないネットワーク空間にも、「界隈」があって、「地域」「ローカル」があるということになります。
私たちヘビーツイッタラーが色々な島に遊びに行く必要が出てきたことに象徴されるように、インターネット上にもそれぞれ島、クラスタがあった。
このように幾つかの複数の世界に属していくことが、今、(すでにそうしている人にとってはいっそう、) 求められているのかもしれません。
これはこれとして、ある意味では「みんなで集まる場所がない」という切ない現実でもあるのだけど、別々の場所にいる仲間にそれぞれ別のタイミングで会いに行こう、とか、それぞれでそれぞれごとに新しく知人ができたらいいな、とか、この環境を楽しむのがいいのかもしれません。
複数に分かれた世界に、青い羽根とともに旅立っていく仲間たちに栄光と祝福を。