ヴァーチャル神保町勉強会17回目 『戦場のメリークリスマス』を見て極限条件がもたらす意味を考える
戦場のメリークリスマスは名前は知っていたものの、内容はほとんど知らないまま最近まで過ごしてきました。
勉強会に参加いただいているかたのオススメで見ましたが、大変心に訴えかけてくる映画で、なぜこれまで見ないできたのかと後悔するほどでした。
戦時中の極限状態でありながら、捕虜と看守の関係という意味ではやや緊張感の弱まった、戦争を描く映画としても珍しいスタイルのもの。
その一方で、捕虜になった側としては、やはり考えられる最悪な状況であるには変わりありません。
このような極限状態で、人々の間柄にはどのようなことが起こるのか。これを話しました。
互いに敵と分かっていながら、ある種の情が湧いてくる点については、前回の回で話した、敵対関係の意味ともリンクしてきます。
以下、ネタバレを含んでの文章になっていくことご了承ください。
捕虜としては、この極限状況のなか、相手がいかに異常であるかを内心強調することで、乗り切っているかに見えます。気持ちが壊れてしまうのを防ぐには、ふつうの反応と言えるでしょう。
そのなかで、主人公格であるロレンスやセリアズらの対応が際立ってきます。
ロレンスの優れた人徳からは、むしろ「人は極限状況でこう振る舞う」という一般化した知見はむしろ引き出しにくいかもしれません。
銃を突きつけられた状態でも、知識を最大限活用して、ハラたちとの関係を作ろうとつとめる。
もちろん、「このように振る舞うべきだ」と主張したいわけではありませんが、その目的に向かって一途な姿勢には、心を打たれずにはいられません。
あえて分析するとすれば、彼は日本を好きで日本に詳しく、その知識も、彼の姿勢を支えた一要素となったでしょう。
ただでさえ敵対関係であるのに加え、何を美徳とするかの英日での大きなギャップがあります。現代のように簡単に行き来もできない時代です。
そうした条件下で、相手が何に真善美を置いているのか想像できることは、大きな武器になるでしょう。
知っている知識や、映画での描写から察するに、当時の日本および日本軍は、死に行くものとして生きているという価値観が垣間見えます。
これを間近で見てきた英国人たちは、日本軍の振る舞いに狂気を感じたに違いありません。
そこでロレンスのように知識を持っていたり、あるいはセリアズのように自身も (全く同じではないにせよ) 死にゆくものとしての価値観を持っているとき、そこで通じ合う余地が出てくるのでしょう。
こうした通じ合うものがあったからか、敵でありながらにして深く愛し合うヨノイとセリアズの関係も、ひとしきり鑑賞したあとで改めて振り返ってみると、目を熱くさせられます。
あるいは、ヨノイとセリアズの関係は、極限状態だからこそ愛が生まれたのかもしれません。体裁を作ろう、社交辞令をしようなどといった殻や駆け引きのない裸の関係はこそ、深い関係の源になってくるのでしょう。
なお、教えていただいた留意点を1つ。特にロレンスの場合、知ろう、あるいは関係を作ろうと努力する一方で、相手方の価値観に屈して染まるわけでは決してありません。
日本軍が「秩序を守るために罰するのだ」という言動をしたとき、ロレンスは珍しくも怒りをあらわにします。
「汝、隣人を許せ」という価値観を大事にしてきたロレンスにとって、形式だけで罰を与える日本軍の振る舞いは、例え文化として知っているものでああろうと、看過することはできなかったのでしょう。
さて、このまとめも概ね受け売りなのですが、極限状態での人々の振る舞い、その理由を考えることを通じて、映画自体の楽しみもより深めることができました。
極限状態の影響として大事だったのは、1つには、共通項がなければなおのこと正常な関係を作ることが難しくみえる点。そしてそれと同列あるいはそれ以上に効いてきたのが、打算のない関係だからこそ特殊な形での深い関係が生まれてくるのだという点です。
このような極限状態自体は決して繰り返されるべきものではありませんが、それを描くこの作品を通じて、関係性の多様さを考えるヒントが得られるのは間違いないでしょう。
また、当レポートを通じて、この映画の面白さを改めて感じていただけたなら嬉しい限りです。
それでは今回もありがとうございました。
この 07/26 時点で、まだ極限状況の対極にあたるような通常の状況とは言えませんが、少なくとも関係性を考える上で、なんとか状況を追い風に付けていきたいですね。